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NYカルチャーを追い続ける記者に聞く、ボウイのNY足跡<中編>【特集第5回】

2019年1月8日、世界中で功績を作った大回顧展「DAVID BOWIE is」のデジタルコンテンツ化第一弾として、スマートフォン向けAR(拡張現実)アプリ(iOS・Android対応)が発売!

Cocotame特集第5回では、デヴィッド・ボウイ(以下、ボウイ)の憧れの地であり晩年の住処であった地、ニューヨーク(以下、NY)を特集。大回顧展「DAVID BOWIE is」の最終地点であり、同アプリが開発されている地でもあるNYを巡り、ボウイの足跡を辿ることにした。

中編では、ロッキング・オンの特派員としてNYに駐在し、ロックや映画を中心としたNYカルチャーを届ける中村明美さんにボウイのゆかりの地【音楽・アート編】をご紹介いただいた。

ボウイNYの足跡 音楽・アート編

Carnegie Hall

ボウイは、1972 年に初の全米ツアー“ジギー・スターダスト・ツアー”を行なったが、9月28日NY初のライブ会場となったのがCarnegie Hallだ。ビートルズが、1964年にもライブを行なった会場で、1891年創設以来、クラッシック、ポピュラー音楽の会場として世界で最も由緒ある場所のひとつでもある。2,800人収容。

ボウイのNY初ライブには、アンディ・ウォーホル、トルーマン・カーポティ、トッド・ラングレン、ニューヨーク・ドールズなども観に来ていたという。チケット代は6ドル。 『時計じかけのオレンジ』(1971年)のサントラで使われたベートベンの“交響曲第9番二短調”が流れると、会場は大喝采となり、ボウイは“ハロー”と言って登場。90分間のライブが始まったと当時のNYメディアが報じている。ローリング・ストーン誌の表紙インタビューによるとボウイはそのときインフルエンザだったそうだが、ライブは成功に終わり、そのコンサートは、その年NYで最も話題となったコンサートのひとつとなったようだ。

Radio City Music Hall

ある日、山本寛斎にボウイのスタイリストでもあった高橋靖子から電話があったそう。「夜中の4時に電話がかかってきて今すぐに飛行機に乗ってNYに来るようにと言われたんだ。夜中の4時に電話するくらいだからよっぽどなんだろうと思ってNYに向かった」とブルックリン美術館で行なわれた大回顧展「DAVID BOWIE is」のトークショーで寛斎が語った。

「JFKに到着してそのままRadio City Music Hallに向かい、一番前の席に通されたんだ。着席した瞬間にショーが始まった。そして、ボウイが天井から僕の衣装を着て降りてきた。『こんなもの見たことがない!』と思ったよ。僕のデザインは、歌舞伎に影響を受けていたんだが、彼のショーもそうだった。歌舞伎には引抜と呼ばれるものがあり、衣装が突然脱げてその下からドラマチックな衣装が表れる。ボウイも真っ黒な衣装から突然カラフルな衣装に変わる瞬間があった。観客は感動して立ち上がっていた」。

地下鉄駅「Broadway Lafayette」に貼られた写真より、Radio City Music Hallでのライブ風景

地下鉄駅「Broadway Lafayette」に貼られた写真より、Radio City Music Hallでのライブ風景

ライブの数日前にRadio Cityで鋤田正義が撮ったボウイ

ライブの数日前にRadio Cityで鋤田正義が撮ったボウイ

それは、1973年2月14 日、“アラジン・セイン・ツアー”の初日だった。Radio Cityで、寛斎はそのとき初めてボウイの姿を見たのだ。そして「翌日、ボウイが同じ会場でステージに上がる直前に楽屋で初めて対面した」。

ブルックリン美術館で開催された大回顧展での山本寛斎登壇風景

ブルックリン美術館で開催された大回顧展での山本寛斎登壇風景

「彼とはまったく同じエネルギーを感じられた。僕は明るい色が好きだったし、観衆のなかで目立つのが好きだ。だからボウイに共感できたんだ。ボウイも僕の衣装を着れば人の注目を集めることができると分かったんだと思う。僕は彼から西洋を学び、彼は僕から東洋を学んだと思う。それは新たな時代の始まりのように思えた」。「その後そのツアーが日本に来たときは、玉三郎と一緒にみんなで食事に行った」。

ボウイは、1974年の“ダイアモンド・ドッグス・ツアー”、1997年“アースリング・ツアー”でもRadio Cityでライブを行なっている。最後にステージに立ったのは、2005年“コンデ・ナスト・ファッション・ロックス”というイベント。

1974年10月30日“フィリー・ドッグス・ツアー”

1974年10月30日“フィリー・ドッグス・ツアー”

1932年開館。6,000人収容。アールデコ建築が美しい会場。1933年から続く“ラジオシティ・クリスマス・スペクタキュラー”はNY伝統のクリスマスイベントとして有名。

Electric Lady Studio

言わずと知れた、ジミ・ヘンドリックスが1970年に建てたレコーディング・スタジオ。『トーキング・ブック』(スティーヴィー・ワンダー)、『フィジカル・グラフィティ』(レッド・ツェッペリン)、『ホーセス』(パティ・スミス)など挙げだしたらきりがない傑作が誕生したスタジオで、ザ・ホワイト・ストライプス、ザ・ストロークス、カニエ・ウェスト、アデルなど現在も一流のアーティストに愛されている。


ボウイは、『ヤング・アメリカンズ』のレコーディングの終盤をこのElectric Lady Studioで行ない、1974年にNYで出会ったジョン・レノンと、1975年1月に当初は「アクロス・ザ・ユニバース」をレコーディングするためにブッキングした。結果的には、「フェイム」がこのセッションで誕生する。

2ショットの写真はその直後の1975年2月18日、NYのUris Theatre(現在のGershwin Theatre)で、グラミー賞時に撮影されたもの

2ショットの写真はその直後の1975年2月18日、NYのUris Theatre(現在のGershwin Theatre)で、グラミー賞時に撮影されたもの

ジョン・レノンは当時を思い出してラジオで語っていた。「エルトン・ジョンとセッションしているときにボウイが来て、レコーディングに呼ばれたから行ったんだ。まだほとんど何もできていなかったから、逆回転のピアノとか、”フェイム“という高音のコーラスをいくつか繰り返したり、間奏が必要だったからスティーヴィー・ワンダーの曲の間奏を逆回転にしたりしてこの曲を作った(笑)。面白かったのは、僕はエルトンと(「真夜中を突っ走れ」で)初のシングル1位(全米ビルボードチャート)を取り、彼もこの曲で初の1位(全米ビルボードチャート)になったこと。だから何かを渡したように思えたよ」。ボウイは、2003年に“Performing Songwriter”誌で、ジョン・レノンと「“名声”についてよく語り合い、ジョンが僕にすべてのマネージメントはゴミだと教えてくれた。ロックンロールに良いマネージメントなんて存在しないってね」と語っている。それがこの曲のアイディアになったということ。
(ラジオ音源:John Lennon Talks David Bowie – Co-Writing “Fame” [1980]

Madison Square Garden

アメリカでミュージシャンにとって成功の象徴と言ったら、Madison Square Gardenのステージに立つことだろう。1968年に今の位置に創設された2万人収容のアリーナで、ボウイは、1974年“ダイアモンド・ドッグス・ツアー”始め、『ステイション・トゥ・ステイション』時のツアー、80年代は『レッツ・ダンス』、『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』時のツアー、そして90年代は“アースリング・ツアー”、そして2003年には“リアリティ・ツアー”を行なっている。30年にも及ぶ彼の成功も象徴してきたと言える。

1997年1月9日には50歳記念コンサートも行ない、ルー・リード、ロバート・スミス、ビリー・コーガンなどと共演。

また、多くの人の記憶に残っているのは、2001年に911のテロの直後にポール・マッカートニーがチャリティ“Concert for New York City”を主催したこと。ミック・ジャガー、ビリー・ジョエルなどそうそうたるメンツが登場し、ボウイは、その幕開けで一人登場し、床に座ってオムニコードを弾き、メリーゴーランドのようなサウンドでサイモン&ガーファンクルの「アメリカ」を披露した。続いて、「救助活動を行なった地元の人々に心から感謝します。ここで演奏できて心から光栄です」と消防士や警官にためにバンドと一緒に「ヒーローズ」も演奏。ニューヨーク・ニックス(全米プロバスケットボール協会のチーム)などのホームでもある。

The Magic Shop Studio

The Magic Shop Studioは、ボウイが最後の2作『ザ・ネクスト・デイ』と『★』をレコーディングしたスタジオで、ボウイの家から徒歩5分の距離にある。

1988年にオープンしたこの伝説的なスタジオは、ルー・リード(『マジック・アンド・ロス』)、ソニック・ユース(『ダーティ』)などがレコーディングを行ない、フー・ファイターズのデイヴ・グロールが作ったドキュメンタリー番組『ソニック・ハイウェイズ』の最終回にも登場。残念ながら地下の高騰により2016年3月に閉鎖。グロールが資金を提供し継続しようとしたらしいが、ビルの持ち主から却下されたそう。元オーナーは、ボウイを思い出し「非常に優しくフレンドリーな人だった」と語っている。また『ザ・ネクスト・デイ』、『★』のレコーディング時は、絶対に口外していけないと通達されたそう。「スタジオでトニー・ヴィスコンティに発売日を聞いても教えてもらえず、秘密のまま発表されないかも」と思ったこともあったそう。ドキュメンタリーのなかで、「こんな街のどまん中にあって毎日ボウイが来ていたのに誰も気付かなかったことが実にNYらしいと思った」と語っていたのが印象的だ。どこか隠れ家的な佇まいもボウイが好きだった理由かもしれない。

当時スタジオはこのビルの1Fにあった

当時スタジオはこのビルの1Fにあった

New York Theatre Workshop

ボウイによるミュージカル『ラザルス』が上映された劇場。ボウイが主演した映画『地球に落ちて来た男』(1976年)同様、同名のウォルター・デヴィス原作にインスパイアされたこのミュージカルは、2015年11月にプレビューが、12月7日に正式に開始した。当初1月17日までの予定だったが、1979年にオープンしたこの劇場の観客席は200しかないため、全日程のチケットが1時間で売り切れ。1月20日まで延長された。会場は、ボウイの家から徒歩10分。そして悲しいことに、このミュージカルのオープニングの日にステージに立ったボウイが、亡くなる前に公に姿を現した最後となる。New York Theater Workshopが写真をツイートしている。

主演のマイケル・C・ホール始めキャストは全員ボウイが病気だったことは気付かなかったそう。ただし、ガーディアン紙によると監督のイヴォ・ヴァン・ホーヴェはその日、彼が病気で弱っていることは明らかだったと言っている。「でも戦っていて、絶対に続けようとしていた。その日を乗り切ったし、オープニングの日のバックステージで、『ラザラス』の続編を作ろうと言ったんだ」。「ただすべてが終わった瞬間に崩れ落ちたので、彼と会うのはこれが最後かもしれないと思った」とも。
(参考記事:David Bowie did not know he was dying until final few months

後編では、ボウイのゆかりの地【プライベート編】をお届けする。

文:中村明美

『David Bowie is』アプリのダウンロードはこちら(iOS)
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特集バックナンバー

スマホ向けARアプリ「David Bowie is」のティザー映像公開!

スマホ向けARアプリ「David Bowie is」アプリ公式サイトにて、ティザー映像が公開。

(以下、テキスト訳)

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カルチャー史上最も影響力のあるアーティスト、デヴィッド・ボウイの生涯と作品を展示し、世界で記録的成功を収めた大回顧展「DAVID BOWIE is」がデジタル化され、永遠不滅の作品として甦る。

ボウイ72回目の誕生日であった日に、「David Bowie is」のスマホ向けAR(拡張現実)アプリ(iOS・Android対応)が発売されることが決定した。

高解像度で記録された400点以上の作品(ボウイの衣装、スケッチ、メモ、手書きの歌詞、ミュージックビデオ、絵画)などが、はっとするような臨場感あふれるAR(拡張現実)の環境で体験可能になったのだ。巡回展では展示されなかった数十点以上の作品もアプリのために追加されている。

「David Bowie is」スマホ向けARアプリでは、ショーケースのガラスや他の観客を気にすることなく、より身近な環境で展覧会の一部始終を鑑賞することができる。自分の自由なペースに合わせて鑑賞し、お気に入りの作品に直接飛ぶこともできるのだ。アプリ内のお気に入り作品をコレクションして保存することも可能だ。そう、このアイコニックな展覧会は永久にあなたのものとなるのだ。
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