イメージ画像
イメージ画像
連載Cocotame Series

アーティスト・プロファイル

湧き上がる衝動を“SYO”で表現し続けるアーティスト・吉川壽一【中編】

2019.12.24

  • Twitterでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Facebookでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • LINEでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • はてなブックマークでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Pocketでこのページをシェアする(新しいタブで開く)

気鋭のアーティストに密着し、その作品性や人間性を深掘りする連載企画「Artist Profile」。今回も、日本から世界へ、“書家”の枠組みから大いに逸脱し、“書”を絵画のように描きながらアートへと昇華するSYO ARTIST・吉川壽一をフィーチャーする。

シリーズ第2回目となる中編では、吉川壽一の自由奔放な人柄と衝撃的な作風を、吉川ヒストリーの節目節目をともに歩んできたキーパーソンの言葉で紹介。吉川壽一の知られざる一面、SYO ARTISTとしての魅力を語ってもらった。

「週刊モーニング」を創った伝説の編集長・栗原良幸が語る吉川壽一

  • 栗原良幸氏

    Kurihara Yoshiyuki

最初のキーパーソンは、吉川壽一のアーティスト性にいち早く注目し、漫画雑誌「週刊モーニング」(講談社)で連載化。漫画というメディアの力を使って書家の伝統世界から吉川作品を解き放ち、コマーシャルな存在へと押し上げた栗原良幸氏だ。

栗原氏は「週刊少年マガジン」の編集者として手塚治虫氏を担当し、『三つ目がとおる』の連載を大ヒット作へと導いた後、「週刊モーニング」「月刊アフタヌーン」を創刊。それぞれ初代編集長として手腕を振るい、その後も海外マンガ家を日本に紹介するなど、現代日本のマンガ文化に大きく貢献してきた人物だ。

栗原氏が吉川壽一と出会ったのは、1991年末のこと。たまたま入ったお酒の店に共通の知人がいたことで同じ卓を囲むことになり、吉川がそのとき持っていた自身の豪華作品集を栗原氏が目にして、声を掛けたのが「週刊モーニング」でくだんの連載が始まるきっかけだったという。

「吉川さんのそれまでの作品を観て、僕は『書ってなんか、つまんないね』って言ったんですよ。書は、なぜ我々の身近ではない屏風や掛け軸のなかでしか作品として完成しないのか。『特殊なものを完成させても、つまらなくないですか?』と言ったら、吉川さんは『その通りだ』と答えたんですね。書の世界は、評価も既存の文化の蓄積の上でしか成り立たないと。ところが漫画は表現手法も含めて読み手にダイレクトに伝わり、面白いか、面白くないかというシンプルな評価をもらう。それなら……と、酒の席から吉川さんを送り届けるタクシーのなかで、ふと思い付いて言ったんです。『漫画誌に書きませんか?』って。文字というのは手書きから活字になってしまうと、失われるものがたくさんある。『文字の持っている原始的な力、成立段階のようなものを伝える作品を、漫画雑誌で書いてみませんか?』と」(栗原氏)。

こうして1992年の夏から『SHOあっ晴れ』と題した躍動的なSYO作品が、漫画雑誌で連載されることになる。その後もタイトルを変えながら連載企画は続き、『バガボンド』(井上雄彦/原作 吉川英治『宮本武蔵』より/講談社刊)、『ジパング』(作:かわぐちかいじ/講談社刊)ほか、さまざまな漫画作品の題字も吉川壽一が担当。2002年からは吉川本人の半生をモデルとした漫画『書きくけこ』(原作:吉川壽一/漫画:くさか里樹)が連載されるなど、今の吉川壽一の活動に繋がる、既存の書の世界からはみ出す新しいメディアでの作品発表、異業種クリエイターとのコラボが始まっていく。そんな吉川のSYOの魅力を、当時のエピソードを交えて栗原氏はこう語ってくれた。

「アーティストにもいろいろなタイプがいると思いますが、吉川さんの場合は『モーニング』の編集部に、吉川さんが書いてくるものへの賛同者がすぐにできていました。当時、編集部は契約編集者も含めて50人ほどの大所帯で、文字もろくに書けないくせに、漫画のことになるとうるさい人たちがたくさんいました。そんな人たちが吉川さんの書を見て、これは面白いですと言ってくる。その感覚は、漫画を前にしたときと同じなんですね。もう書家としてはお弟子さんもたくさんいたであろう吉川さんを、うちの編集部では誰ひとり“先生”と呼ばなかった。だから吉川さんも、肩書きなど関係なくフラットに接してくるうちの編集部を気に入ってくれたんじゃないかと思います(笑)」(栗原氏)。

さらに連載を始めて栗原氏は、書家と聞いてイメージしていたものとはまったく違う、吉川壽一の創作スタイルに驚いたという。

「『SHOあっ晴れ』が始まったときは、“この書でどうだ!”というものが一枚だけ来ると思っていたんですよ。そうしたら、同じ字が何枚も郵便で送られて来るわけ。僕はそれに、当たり前のようにボツを出していったんですね。5、6枚送られてきても、“なんかつまんないなあ”とか言って(笑)。漫画の編集と同じ感覚です。ところが、僕はずっと後まで気づかなかったんだけど、書家の世界で他人からボツを出されるって、普通はないんですよ。もちろん吉川さんへのリスペクトはあって、もっと面白いものが見たい、吉川さんなら見せてくれるだろうという期待からのボツだったんですが、書に関しては一切の門外漢である僕のダメ出しを嫌がらず、真っ向から受け止めて次々作品を生み出してくる吉川さんは、やっぱり書家というものからは大きくはみ出した面白い人だなと思いましたね」(栗原氏)。

栗原氏が資料として見せてくれた、連載当時の吉川とのやり取りがつづられたFAX。栗原氏の独特な表現による創作依頼に吉川壽一の表現意欲も刺激されたのだろう。

「吉川壽一が書く“心”には人を絶望の淵から引き戻す力がある」

今も吉川は福井から上京すると栗原氏にいきなり電話をし、会って話す機会も多いという。そんな長きに渡る付き合いのなかで感じた吉川壽一のアーティスト性を、栗原氏はこう考察する。

「そもそも書というのは、今、場を失っているものだと思うんですね。書家というのは吟遊詩人のようなもので、吉川さんが江戸時代にいたら諸国を旅してまわって、行った先々で作品を残していたと思うんですよ。じっとしてられない人だし(笑)。これは吉川さんが言っていたことだけど、名蹟、名筆と言われる人間は、過去に、おそらく膨大に書いている。これは漫画家も一緒。読み切り一本で世に名を残すなんてのは不可能に近い。駄作を含めて書いて、書いて、書き続けないと真価が伝わらないわけです。そういう、書家にとって身近に書くにふさわしいステージがいっぱいあった時代と比べて、今はものすごく書ける場が少ないんですね。だから、吉川さんは国内、海外で大きな書のパフォーマンスをやる方向に向かったんじゃないかと思うんですよ。それくらいものすごく、“何かをやらずにはいられない”んじゃないかと思いますね」(栗原氏)。

では、栗原氏がこれからの吉川の創作活動に期待することは何だろう。

「僕が思う、吉川さんがこれからやるであろうことがいくつかあります。そのひとつは、書くリズムで音楽のように人を魅了して、表意文字の意味と生命感を表音文字へも繋いでみせるという、ほかの人にはできない作業。もうひとつは文字をほどいて崩しながら、でも崩して訳が分からなくなるのではなく、『"虎"という字は、こうやって"虎"になっていったのか』と、ほどくことによって文字の元の本質が出てくるような表現ですね。文字に秘めた物語性を露わにしていくような表現です。そしてもうひとつが、人々の心に残る文字を残すこと。吉川さんは、“書家というのは、ひとつスタイルを決めてしまえば、すべての文字をそのスタイルで書けるんだよ”と言っていた。例えば、吉川さんが“心”という文字を書いたら、それを見た人のなかで書体として残る。いわゆるフォントというものに限りなく近いですね。その意味でも、吉川さんには、“心”であるとか、人間の重要なスピリットに関係する文字に何かしらの形を与える、そういうことができるんじゃないかと思いますね」(栗原氏)。

栗原氏が例に挙げた“心”の文字には、こんなエピソードもあった。

「“心”と言えば、普通は四角い枠に納まる感じで書くけど、吉川さんはお皿のように広がった心を書いたんですね。それは、文字の最初の起源である器を表現しているんだと。つまり、心というのは人間というものを入れている器、入れ物なんだと吉川さんの書が教えてくれる。心の基本はこれだと。それを見聞きして、吉川さんの文字には、人を絶望の淵から引き戻す力があるような気がしたんです。吉川さんは心が広いから、人が安心できる、拠り所となるような文字を、これからもっと書いてくれるような気がするんですよ。いかにも上手な文字は、ほかの権威の方々に任せていい。そういう人は、漫画雑誌からの依頼なんかでは書いてくれないからね(笑)。それと、吉川さんは俗にいうカッコつけた表情をしないんですよ。あれが、ものを作る人間の顔。もの作りに没頭している人は、自分の顔なんかに構ってられない。そこが良い。僕は漫画の編集者であり、漫画家とは同ジャンル異業種で、本質的にすごく楽しい補完関係にある。吉川さんともそういうところがあるからずっと付き合っていられるのだと思います。年に何回か会って、お互いの思うところやアイデアをとりとめなく話しているのがとても楽しい。これからもそんな関係が続いていくんじゃないですかね」(栗原氏)。

日本酒「黒龍」社長が感じる躍動感と繊細さにあふれた吉川壽一作品の魅力

  • 水野直人氏

    Mizuno Naoto

    黒龍酒造株式会社
    代表取締役社長

次に登場していただくのは、吉川壽一の生まれ故郷・福井県を代表し、創業200年を超える日本酒蔵「黒龍酒造」の代表取締役社長を務める水野直人氏だ。黒龍酒造は、1975年に発売した「黒龍 大吟醸 龍」で、今では当たり前のように飲まれている“大吟醸”を全国に先駆けて一般市場に流通させ、今も福井の豊かな水と上質な米にこだわった質の高い日本酒を造ることで、世界的にも有名だ。

吉川壽一は、師・稲村雲洞の後を引き継ぎ「黒龍」シリーズの「八十八号」や「火いら寿」、「しずく」など、季節ごとの酒を含めたさまざまな商品のロゴを長年揮毫し続けている。

福井が世界に誇る日本酒のロゴ、それはまさに黒龍酒造の顔と言える。そのクリエイティブを通じて、水野氏が最も感じた吉川壽一作品の魅力は? と問うと、最初に挙げたのは「躍動感」という言葉だった。

「僕はまだまだ若造なので(笑)、先生の作品について偉そうなことは言えないですが……、先生の作品の魅力と言われるとやっぱり躍動感ですよね。先生の生命力が勢いとなって表われ、それでいて女性的な繊細な字も書かれる。そのギャップ、幅の広さがとても魅力的です。そして何と言っても発想が面白い。アイデアが豊富だから、漢字の字のなかに秘められている歴史も踏まえながら、その字が何を訴えているかをちゃんと考えて書かれていると思います。それともうひとつ、先生の作品で素晴らしいのが、書のかすれ具合。もうこれは絶妙としか言いようがない」(水野氏)。

実際、吉川とのやり取りでも、発想の柔軟さ、幅広さが表われているという。

「先生には新しい酒名が決まって、例えば『これはシャンパンみたいにガスが出るスパークリングのお酒です』と、イメージが沸きやすい特徴をお伝えした上で、『この字を書いてください』とお願いします。すると先生は、1点ではなく、いろいろなタイプの字を何十点と書いてご提案してくださる。そのなかから、僕らが選んでいくというやり取りを行ないます。“これしかない! これでどうだ!”じゃない。(先代の)親父がやっていたときも、先生の書を部屋いっぱいに並べて、選んでいた記憶があります」(水野氏)。

「いつも“なんか面白いことないか?”って聞いてくる」

酒名のラベルの揮毫だけでなく、同社の新聞広告や印刷物などにも多数登場する吉川の作品。数、酒類ともに豊富にあるが、水野氏が吉川の書でもっとも好きだと語るのは「黒龍 つるかめ」に記された作品だという。

「おめでたいお酒の引き出物や結納品、長壽のお祝いなどに使っていただける『つるかめ』で書いていただいた作品がすきですね。特に“つる”の“る”の字には、鶴の姿がモチーフとして入っていて、縁起を感じることができます。書でありながら、絵画的な発想の豊かさに感銘を受けました。あとは『しずく』も僕は傑作だと思います。まるで一文字のように組み合わされた“し”“ず”“く”の3文字のバランスも絶妙ですし、かすれ具合も見事。毎年、年末には地元新聞に1年間お世話になりました、来年はこういう想いで頑張りますという広告を出させてもらうのですが、それも先生のメッセージ性のある書で締めくくらせてもらっています。それと、弊社の年賀状の一文字にも、先生の書をよく使わせてもらっていますね。先生の書は、今では黒龍のブランディングに欠かせない大きな力になってもらっています」(水野氏)。

水野氏が傑作と語る『黒龍 しずく』のラベルデザイン。

毎年、黒龍酒造が地元新聞に出す広告にも吉川壽一のSYOが採用されている。

柔軟な発想とアイデアフルな作風が生まれる理由は、水野氏が知る吉川壽一のプラベートエピソードからも図り知ることができる。

「先生が僕のところに来ると、よく“なんか面白いことないか”っておっしゃるんですよ。僕の方はそれほど面白い話もないので、会うと先生の面白いことを聞く時間になります(笑)。“こんなことを考えているけどどう思う?”と。あと先生は、ご自分が面白いと思ったことが結果的にメリットとして返ってくるかどうかは一切気にされてないですね。ひたすら“こんなことをやりたいんやけど”と思うことに、突き進んでいるように思えます。だから自分が納得したことを作品にしたいのだろうし、常に書き続けていたい。大作のイベントや揮毫のパフォーマンスも、そんな溢れだすイマジネーションからやられているんじゃないでしょうか。だから先生とは一緒にいて面白いですし、いつも良い刺激をもらいます」(水野氏)。

今、最も吉川壽一のことを知るマネージャーが作品と人柄を語る

  • 池田裕成氏

    Ikeda Hiroshige

    株式会社 八笑
    代表取締役

最後に語っていただくのは、現在、家族以外で吉川壽一を最も身近で知る人物。吉川のマネジメントを担当している株式会社 八笑の代表取締役・池田裕成氏だ。池田氏が吉川壽一と出会ったのも、栗原氏と同じように人の縁がきっかけだったという。

池田氏が伝統工芸品の販売やイベント企画を行なう「株式会社 八笑」を設立した約7年前、社名ロゴをぜひ書家に頼みたいと考えたときに、古くからの友人でありプロジェクションマッピングで世界的に有名なネイキッド代表の村松亮太郎氏から吉川壽一を紹介されたのが始まりだった。

「彼が『面白い人に会ったから、ロゴの件、頼んでみるよ』と吉川先生にコンタクトを取ってくれたんです。すると、“八笑”という社名を伝えてもらっただけなのに、先生から突然バババッと書が送られてきまして(笑)。字が人の笑っている顔になっているものなど、かなりユニークでファニーな“八笑”を複数ご提案いただいたのですが、私は伝統工芸などの世界で仕事をするつもりだったので、イメージが柔らか過ぎるなと感じて……。まだ先生と直接お会いする前だったので、失礼とは思いつつも、思い切ってお電話をしたんです。そこで、自分の仕事への想いと日本海の荒波のように強い、芯のあるイメージで書いていただきたいとお伝えしたら、『わかった』と一言おっしゃって、私のイメージ通りの今のロゴを含めた何パターンもの書が改めて送られてきました。あの一言で先生にはすべてが伝わるのか! しかも作品として素晴らしい! と感動しましたね」(池田氏)。

吉川壽一が書いた「八笑」の文字はこちらから(新しいタブで開く)

作品との出会いから始まり、その後、吉川壽一のアトリエのある福井を度々訪れ、東京でもプライベートな付き合いを重ねながら交流を深めていった池田氏は、ついには吉川のマネジメントまで手掛けることになる。

「私が会社を立ち上げたばかりということも気に掛けてくださったのでしょう。始めから先生は“何でもやってあげるから、何かあれば言えよ”とおっしゃってくれていましたね。ものすごく優しい。そして正式に仕事をご一緒したのは、2015年10月。新宿の伊勢丹メンズ館で、吉川先生のアートワークを年末年始の全館ディスプレイとして企画し、実施したのが最初です。その後すぐ、先生の創作活動についてエージェント契約を結んだソニー・クリエイティブプロダクツ(以下、SCP)の皆さんと一緒に、先生の活動をサポートさせていただくようになりました」(池田氏)。

打算や欲がないから作品に品格が宿る

そんな公私にわたる交流のなかで、池田氏は吉川壽一の作品はもちろん、その人柄にも惚れ込んでいったという。

「仕事柄、伝統工芸作家の方々とお付き合いさせていただくことが多いのですが、どの分野でも一流の方が作るものには、その人の人間性が出るものです。私は先生の作品が好きで、それはイコール先生の人間性が好きだということに繋がります。先生ご自身がとてもクリエイティブな方ですし、プロデューサーでもあるので、ご自身でやりたいことを決められることも多いのですが、そのエネルギーに感服しますね。そもそも、SCPの皆さんのお力も借りて、書をエンタテインメントと結び付けながら、芸術としてだけでなくコンテンツとしても広げていこうというのは新しい試みだと思います。それを実現されている吉川先生のバイタリティと柔軟さは、ほかの書家にはない魅力だと感じます」(池田氏)。

さらに池田氏は、吉川壽一の人間力にも魅力を感じると言う。

「先生は創作活動に対して“侍”のような心で挑まれていて、すべては自分との勝ち負けを基準にされています。だから生まれてくる作品に打算がないし、ビジネス的な成功をめざす欲もない。正直、欲がなさすぎて困るときもあるんですけどね(笑)。さらにいうと、先生はいつもライブな方です。海外での活動、フランスのエッフェル塔下で行なった揮毫パフォーマンスなどもそうですが、パッと誰かに会って、そこでビビッときて、よしやろう! みたいな感じで決まっていきます。世界遺産の天龍寺(京都)での個展や、11月に行なった永平寺(福井)での個展も、普通なら実現不可能です。でも先生は実現されてしまう。それは、先生の作品が素晴らしいことに加えて、周りの人間を惹きつけ、やりたいことに巻き込んでいってしまう、先生の人間力があってこそだと思います」(池田氏)。

2019年11月6日~20日まで、福井の永平寺で開催された吉川壽一の個展。永平寺が個人のアーティストの個展に寺内を解放するのは極めて異例。

永平寺の個展で展示された作品の一部。和紙1枚に276文字の般若心経を書き綴り、合計30万字の作品が展示された。

その人間力が、作品にもしっかり表われていると池田氏は語る。

「先生の作品は美しく上品で、文字としての意味や言葉を超えたメッセージを訴えかけてきます。だから先生のSYOは、実は日本語が分からない人のほうが、その芸術性をダイレクトに受け取れるのではないかと感じています。また、ドバイや中国で披露した大胆な作品だけでなく、先生が書かれる伝統的な書も本当に素晴らしい。書家として積み重ねた修練があってこそのSYO ARTIST。作品としてお書きになる文字自体も、いつもポジティブで、私はいつも先生の作品に勇気づけられています」(池田氏)。

もうひとつ、池田氏が吉川壽一の魅力として語ってくれたキーワードに“自由”がある。

「先生は常に世界を見据えて創作活動を行なっています。その上で、活動範囲を決めないし、何にも縛られない。どこまでも自由なんです。おそらく先生の頭のなかには国境とか年齢とか、我々が捉われ、挑戦しない理由にしがちな“常識”というものがないのだと思います。だから、ニューヨークでパフォーマンスをしたい、個展を開きたいと真剣に考えて、実行に移せるのではないでしょうか。改めてすごいアーティストだなと感じます。この連載で公開された先生の動画(新しいタブで開く)のなかで、『なぜ自分がSYOを書いているか分からない』と先生は仰っていますが、私には分かるような気がします。吉川先生にとってSYOは呼吸と同じなんです。人間が生きるために必要な空気を吸って吐き出すという行為。先生にとってSYOを書くというのは、そういうことなのだと感じます。だから自由にやりたいことをやるし、ジャンルも必要ない。先生は現代アートでも、メディアアートとのコラボレーションでも、表現手法を問わず、面白いと感じたものには何にでも興味を持たれます。常に新しいテクノロジーやエンタテインメントの動向も勉強されていて、ご自身の作品に融合できないかと考えている。そんな唯一無二のSYO ARTIST、そして吉川壽一が生み出す作品の素晴らしさを、より多くの人に伝えることが、私の使命だと感じています」(池田氏)。

親子のような関係の吉川と池田氏。

後編につづく

文・取材:阿部美香
撮影:篠田麦也(スタジオ・取材撮影)/冨田 望(取材撮影)

吉川壽一
舞殿ぐるっと四周囲
令和がはじまり
新しい日本を寿(こと)ほぐ迎新展

会期:2019年12月27日(金)~2020年1月17日(金)
場所:下鴨神社 舞殿(重要文化財)
住所:京都府京都市左京区下鴨泉川町59
時間:6時30分~17時
観覧料:無料

連載アーティスト・プロファイル

  • Sony Music | Tech Blogバナー

公式SNSをフォロー

ソニーミュージック公式SNSをフォローして
Cocotameの最新情報をチェック!