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連載Cocotame Series

芸人の笑像

マツモトクラブ:『R-1ぐらんぷり』ファイナリストが面白小学生からプロになるまで【前編】

2020.01.22

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットをあて、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く新連載「芸人の笑像」。

その第1回は、『R-1ぐらんぷり』の常連であり、2020年も注目が集まる“さすらいの独りシネマ”ことマツモトクラブ。その独特な世界観が生まれた背景を探る。

クラスメートを笑わせる面白い男子小学生が、いかにしてシェイクスピア・シアターに入団するようになったか。前編では、「いつか自分もお笑いがやれたら……」という憧れを持ちつつも、道半ばの30代までを駆け抜ける。

  • マツモトクラブ

    Matsumotoclub

    1976年6月8日生まれ。東京都出身。血液型A型。趣味=パチンコ。『R-1ぐらんぷり』5年連続ファイナリスト。2011年よりSMAに所属。Pasco『超熟』ほかCMにも出演中。DVD第3弾『クラシック』が2020年3月25日に発売決定。詳細はこちら(新しいタブで開く)

ビートたけしのCMの真似をしたりしていた小学校時代

今からちょうど5年前。敗者復活枠から『R-1ぐらんぷり2015』の決勝ステージに駆け上がった男がいた。その名はマツモトクラブ。テレビ出演もほぼ初めてという芸歴わずか4年のピン芸人が披露したのは、売れないストリートミュージシャンと路上ライブの常連客との会話や、神社でお参りをする男と神様との会話というひとりコントで、まるで一編の短編ドラマを観ているような巧みな構成とリアルな演技で観客を魅了。無名ながらも準優勝に輝き、強烈な印象を残した──。

そんな彼の“笑い”への道は、小学校時代にすでに萌芽があったという。

「人を笑わせたり、面白いことをやったりするのは、子どもの頃からすごく好きでした。小学校時代は、仲の良い友達とつるんでお楽しみ会で何かやったり、ほかの学年の教室に休み時間に勝手に入っていって、当時、ビートたけしさんがやっていたCMの真似をしたり、テレビのお笑いの真似をしたり。そういうことは、しょっちゅうやってました」

そんな面白仲間のひとりには、AR(拡張現実)コンテンツの数々を発表している異色のクリエイター、『AR三兄弟』の川田十夢氏もいた。東京都調布市出身の彼らは、“クラスでめちゃくちゃ目立つ人気者グループ”として、仲間に笑いを提供していた。

「当時からお笑い番組を見るのは大好きでしたね。たけしさんの『元気が出るテレビ』の運動会のロケなどは、調布からも近い稲城市のよみうりランドでやってたので、それを観に行って写真を撮ったり。その後も有名な番組だと『ダウンタウンのごっつええ感じ』やウッチャンナンチャンさんの番組は大好きでしたし、小学生時代に友達に笑ってもらえる気持ち良さは、ずっと心に残っていた。いつか自分もお笑いがやれたらいいよなぁ……という漠然とした憧れは、心のどこかにずっとありました」

中学時代はヤンキーが怖くて目立たないようにしていた

しかし中学入学を機に、人前に出て笑わせるような目立つことをしなくなったという。その理由は……ヤンキー文化になじめなかったから。

「中学は、いろんな小学校から人が集まりますし、当時はヤンキー文化が今よりずっと華やかな頃。とくに僕の地元の調布、府中、立川、八王子あたりはヤンキーが多くて、彼らが怖かったからなるべく目立たないようにしてました。ただ、ヤンキーたちとの関わりもないわけじゃなかった。ヤンキー集団の雑魚みたいな感じで、バイクで暴走する彼らから『今日の夜、走るから見とけよ』と言われて、道路で立たされたりしてました(笑)」

そんな中学時代、マツモトクラブはバスケット部に青春を賭けていたというから意外だ。

「体育会系の匂いがしない、とよく言われるんですが、俺たぶん、運動神経がすごく良いんですよ(笑)。足も速くてずっとリレーの選手だったし、バスケ部だけどサッカー部でも助っ人してました。だから高校でも運動がやりたかった。その代わり、勉強は本当に好きじゃなかったです。高校受験もギリギリになってやっと塾に通い、なんとか大学附属の私立高校に入ったんです。大学附属だったら受験せずに進学できると思って。実際は、それも無理だったんですけど(笑)」

人間観察力が養われたラジオ番組のカセットテープ作り

中学時代に続き、「高校時代も人前に出ることは相変わらずなかった」というマツモトクラブだが、彼が幼少時からひそかに培ってきた笑いのセンスは、彼を単なるスポーツ好きの少年には育てあげなかった。

「仲の良い友達のなかだけでは、ふざけたこともしていました。そのときやっていたのが、自分がパーソナリティになって作るラジオ番組。『今日のゲストは〇〇先生です』と、一人二役で高校の先生のモノマネを披露しながら、曲をかけたりする。そんなカセットテープを作り、友達に渡して聞いてもらってました。配る相手はたった3人でしたけど、番組を考えて作るのも面白いし、友達にも『めっちゃ面白いよ』とすごく喜んでもらえた。それがうれしいから、また誰かを笑わせたくなる……という喜びがずっと残っていて、今に繋がっているのかなと。人間観察力も、その時代にけっこう養われたのかもしれないです」

手作りラジオという“声と音を駆使した笑い”を作る作業は、マツモトクラブの現在のネタに通じる部分が非常に大きい。学校の先生のモノマネが、今もライブで披露している“物理の豊田先生”などのネタに活かされているように、ピン芸人としての基本スタイルは、高校時代の経験が大きく影響しているのだろう。こうしてマツモトクラブは、小学生以来、人を笑わせる喜びを再び手にした。この流れで、本当なら、高校卒業後すぐにお笑い芸人を目指すという道も考えられたはずだ。だが持ち前のシャイな性格がジャマをし、彼は演者ではなく、裏方を目指すことになる。

「はじめは海外留学ができる英語専門学校を志望したんですが……試験に落ちまして(笑)。それで英語はどうでもよくなって、専門学校がたくさん載ってる本の診断チャートみたいなものをやってみたら、クリエイター系がいいと出た。そういえば中学時代、面白い僕を知ってくれていた同級生に『テレビ番組を考える人になったらいいのに』と言われたことが、ずっと胸には刺さっていたので、じゃあ、番組を作るディレクターや放送作家をやりたいなと、専門学校の放送芸術科に入りました。お笑い芸人にはずっと憧れていましたが、人前でしゃべったりするのは得意じゃなかった。自分は演者にはなれないと思っていたんです、性格上。でも、作る側だったら行けるかな? と」

しかし、人生とは皮肉なもので、放送の専門学校で裏方としてのクリエイティブに触れれば触れるほど、マツモトクラブの指向は演者側へと傾いていくことになる。

「授業では、自分で台本を書いて監督する、ショートフィルム制作などをやってました。そして完成した映像をみんなで見るんですけど……ちやほやされるのは、脚本や監督じゃなく、俳優役のほう。僕は裏方を目指していたけど、そういうことなら自分が出演したほうがおいしい。やらしい考えですけど、演者として有名になれば、地道に裏方で努力するよりも早く、自由に作品を作る側にまわれるんじゃないか? とも思ったんですね。でも、憧れているお笑い芸人に僕は向いてない……じゃあ役者だ! とわりと軽い気持ちで、専門学校に行きながら、俳優養成所の週1回クラスにも通いました」

プロを目指し、友達と一緒にシェイクスピア・シアターへ

そうして裏方から演者へとすっかり方向転換した彼は、そのまま役者の道を邁進し、劇団シェイクスピア・シアターに入団することになる。そのきっかけも、些細なことだった。

「俳優養成所で知り合った友達が、劇団シェイクスピア・シアターに入ると言うんですね。当時の僕は、役者にはなりたいけど、どうしたらプロになれるのかまったくわからなかった。だけどそのまま養成所にいたところで、どうすればチャンスがもらえるかもわからない。今、自分がいる環境は何か違う。新しいところには行きたい。じゃあ、俺もそこに行くわ、と」

劇団シェイクスピア・シアターはその名のとおり、古典中の古典であるシェイクスピア全戯曲の上演を目指して、演出家・出口典雄氏が旗揚げした本格的な演劇集団。過去には佐野史郎や、声優としても活躍中の石塚運昇、吉田剛太郎(マツモトクラブは『リア王』で共演を果たしている!)など、錚々たる役者が在籍していたことでも知られる。若い役者志望が気軽に入団するにはかなりハードルが高い劇団だ。そこにマツモトクラブは、本名の松本洋平として30歳を過ぎるまで、約13年間も在籍することになる。

「その頃の僕は、演劇のこともよく知らなくて、シェイクスピア作品をひとつも観たことがなかったんです。でも知らないまま入ったからよかったのかも知れません。シェイクスピアの戯曲が、何百年も前に書かれたものなのに、今現在の人でもわかる人間の愚かさ、かわいらしさを描いていて、素晴らしいと思って好きになれたし、主宰の出口さんの演劇に対する考えも正しいと思えた。だから10年以上も続けられたんだと思います」

しっかり伝えることが大事、と叩き込まれた劇団時代

実際、劇団ではどういった演技指導を受けていたのだろう。さぞや難しい演技論が交わされ、厳しい稽古が続いていたのでは? と尋ねると……

「……と思うかも知れませんが、難しいことは何も言われていないですね。出口さんからは、セリフをしっかり最後まで言い切れ、しっかり伝えることが大事だ、ということだけ言われてました。だから、勝手に自分で役の気持ちを作って演じるしかないんですけど、そんなのも本当はいらないと。なんなら稽古の最中、『お前、今、気持ち作っただろ!』と怒られたりしますからね(笑)。だけどベテランの大先輩からは、『出口さんは気持ちなんてどうでもいいと言ってるだろ。でも、あの人はずっと気持ちのことを言っているんだよ』と言われて。僕は“何言ってるんだろう、わかんないよ”と思いながらも、それが正しいことだと直感的に思えました」

“伝えること”を徹底的に植え付けられたシェイクスピア・シアターでの鍛錬。今、マツモトクラブのコントが、笑いとともに、人間の愚かさやペーソスあふれる哀愁を観る者にしっかりと伝えてくるのは、このときの経験があったからこそではないだろうか。

そして入団から13年後。さまざまな作品で脇役として活躍したマツモトクラブだったが、30歳を過ぎてついに退団を決意する。

「一番の大きな理由は、結局そこにいても何の光も見えないし、生活が変わらないのが辛かったからです。もちろんそれには金銭的な理由も大きかった。劇団は本公演が年に2回くらいあって、そのほかに高校の芸術鑑賞会で演劇を行なう機会が年間を通じてあるんです。それぞれギャラはいただけるんですけど、実家暮らしだったからやっていけたものの、本公演となると本番の1カ月半くらい前からバイトはできないし……30歳を越えて、“どうしよう?”となったときに、周りの若い劇団員もどんどん去っていってたし、これ以上続けるのは無理だなと、辞めることにしたんです」

その決断をしたのが、2006年のこと。舞台役者を細々と続けてきたマツモトクラブに大きな転機が訪れるのは、そこから数年後のことになる──。

後編につづく

文・取材:阿部美香

関連サイト

マツモトクラブ│Sony Music Artists(新しいタブで開く)
公式Twitter@nationaldog(新しいタブで開く)
公式Instagram@matsumotoinstaclub(新しいタブで開く)

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