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アーティスト・プロファイル

湧き上がる衝動を“SYO”で表現し続けるアーティスト・吉川壽一【後編】

2020.02.10

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気鋭のアーティストに密着し、その作品性や人間性を深掘りする連載企画「Artist Profile」。今回は、約1年にわたり取材を行なってきた、唯一無二のSYO ARTIST、吉川壽一の後編をお届けする。

日本から世界へ。“書家”の枠組みにとらわれず、“書”を絵画のように描きながらアートへと昇華する吉川壽一。彼がSYO ARTISTと名乗ることになるきっかけと作品にかける想い、そしてニューヨークでの個展開催を次なるミッションとするビジョンについて、取材から得た言葉を交えながら、紐解いていきたい。

“書く”ことだけを信じて……吉川壽一が“SYO ARTIST”になるまで

この連載で何度も触れてきた吉川壽一の創作活動である“SYO”。その最大の魅力はやはり、彼の独創性にある。しかし、それは紛れもなく“正統”から生まれてくるものだと言える。

絵画の世界で独創を極め、新しい美術の潮流を創り上げた芸術家のパブロ・ピカソが、少年時代に巧みな技法で超写実的な絵画を極めたからこそキュビスムに辿り着いたように、正統を知らぬ芸術家には、真の独創を生み出すことはできない。

それは、吉川壽一も同じだ。彼の独創性と枯れることのない創作意欲は、幼少期~青年時代に学び極めた、正統的な“書”の体験があってこそなのだ。

吉川壽一が初めて筆を手にしたのは、幼稚園の頃だったという。当家の一人っ子として生まれ、兄弟がなく、ひとり遊びにふける姿を不憫に感じた母親が、近所にあった書道塾に吉川壽一を通わせる。そこで彼は、最初の師であり、古典の書も極める前衛書家で、後に大学教授、毎日書道会の最高顧問にもなった故 稲村雲洞氏と出会い、その基本を学んだ。

「墨摺りからしっかりやらされ、いわゆる英才教育というものを受けました。思い返すと、稲村雲洞先生も相当破天荒な人だった。朝の6時くらいに家にやってきて、両親が先生をもてなしている間、僕は必死になって2時間、3時間と書き続ける。10時頃になると、書いたものを先生が見て“こんなものダメだ”と自ら手本を書く。そして僕はまた2時間、3時間と書き続ける。おそらく、1日400枚以上は書いていたんじゃないかな(笑)」

書の基礎を体得するための指導により、吉川壽一はその才能を開花させる。小学校高学年には地元・福井の有名な書道賞を総なめにし、中学生になると、稲村雲洞氏の紹介で故 宇野雪村氏に教えを乞うことに。大東文化大学の教授だった宇野雪村氏とは、郵送で書をやりとりしながら、正統的な書の古典を学び、さらなる研鑽を積んでいった。

「宇野先生から古典を学びながら、高校卒業後は一時期、東京で暮らしていたこともあったね。でも、実家の都合もあって、結局、20代前半で福井に戻ることになりました。ただ、福井に戻っても僕には書しかなかったから、いきなり個展を開いたんですね。しかし、当然ながら観に来てくれる人は、身内を含めても数えるほどしかいない。当時、自分のなかでやりきったという晴れやかさはあったけど、“さて、次はどうするか?”というのは、全く見えていませんでした」

そこで吉川壽一は、宇野雪村氏の師であり書道界の常識を覆す活躍で知られた孤高の前衛書家、故 上田桑鳩氏のもとに、アポイントもなく、おしかけで弟子入りを申し出る。

「朝の6時に福井を出て、東京の成城にある上田桑鳩先生の家を訪ね、いきなり呼び鈴を鳴らすわけです。すると家にはすんなり入れてもらえたのですが、先生から石をひとつ渡されて、何の説明もなく“これを磨け”と……。訳がわかりませんでしたが、こっちも必死で磨きますよね、師と仰ごうとする人の言うことだから。そこから3時間くらいかな、一心不乱に石を磨き続けていると、“よし、弟子になれ!”と言われました。ただ、弟子にはしてもらえたものの、福井に戻って書いたものを何度送っても、上田先生からはいっこうに返事が来ないんですよ。半年くらいしてから改めて聞いてみると、先生は“全部捨てた”と。僕が送った表書きを見ただけで、これでは全然ダメだと判断されていたみたいです」

吉川壽一の自信のなさや迷いを、表書きを見ただけで見抜いた上田桑鳩氏は、意気消沈する彼の前で、ただ1本、線をしたためたという。その書が、吉川壽一に衝撃をもたらすことになる。

「その1本線を見たときに、僕の身体に電気が走りました。そしてすぐに先生の書家としての技量、先生が自分に何を伝えたいのかが理解できました。上田先生は一本の線を書いただけなのに、そこに陰と陽が表わされていて、しかもそれが見事に一体化して立体を形作っていたんです。でも、当時の僕には、線一本でそれを表現できる気はまったくしなかった。そして、いつか自分も上田先生のように書き分けられるようになれねばならない、ということがよく分かりました」

そこから上田桑鳩氏のもとで「六朝楷書」を代表する「龍門二十品」など、優れた古典の書蹟を手本に指導を受けるが、その修練の半ばで上田桑鳩氏が他界。その後、国際的に活躍していた宇野雪村氏に改めて付いて、中国、ヨーロッパ諸国を中心に、世界中を飛び回ったという。

稲村雲洞氏、宇野雪村氏、上田桑鳩氏……吉川壽一はこの3人の師から、書における古典の真髄とたしかな技術を学び、そこから現在に至る前衛の表現を自身のなかで開花させたのであった。




取材中には、吉川壽一の創作現場に遭遇。このときは、話の流れから「土」という字がテーマとなる。テーマが決まると吉川壽一は、黙々と和紙を丸や三角などさまざまな形状に切り始め、その形に合わせた「土」という文字を描く。また、別日の取材では「楽」という字を吉川壽一流に書いてもらった。どちらの作品も写真を見てもらうと一目瞭然だが、学校で習った漢字は存在せず、いろいろな表情を持った文字のアートが浮かび上がってくる。

<吉川壽一が書く『土』>

<吉川壽一が書く『楽』>

吉川壽一の作品を福井で見る

吉川壽一が“SYO ARTIST”になった原点は、彼の故郷である福井にある。ここでは、福井に数多く残されている吉川壽一の作品を映像でご紹介しよう。

吉川壽一の“SYO”がアートである理由

自らを“SYO ARTIST”と称し、周りの人間も既存の書家とは一線を画す芸術家であると評する吉川壽一。

では、書と“SYO”では具体的に何が異なるのか。その答えを吉川壽一本人の声からも改めて紐解いていきたい。

我々取材班が、初めて吉川壽一に話を聞いたのは2018年の年末。彼が京都の世界遺産「下鴨神社」舞殿で『舞殿ぐるっと四周囲トリコロール十二支~幸運をもたらす八咫烏~迎新展』の展示を行なったときのことだ。




そのとき吉川壽一は我々に、既存の“書”と“SYO”との違いを、さまざまな言葉で教えてくれた。

「一般的な書の展覧会は、素人の方には読むことすらできない漢字が並んでいるだけに見えてしまいます。それはきっとジャンルの異なる芸術家の方々からしたら、不思議な光景だと思うんです。見る人が理解できないものを並べて何を伝えるのかと……。だから僕は、書を“もっと開かれたもの”にしたくて、わかりやすい形で書の美しさや表現、面白さを伝える方法論として“SYO”と言うようになりました」

そうした想いから放たれる吉川壽一の作品の一番の魅力は、文字がまるで絵のようにデザインされる空間構成にある。ただ文字を書くのではない。文字そのものが意匠化され、平面の上に記されたものではない奥行きを持った“何か”として浮き出してくるように見えるのだ。

吉川壽一は“SYO”を、自身の閃きと熟練によって練り込まれた空間把握能力を駆使して、スペースを絶妙に活かしながら、紙の上に吉川流の宇宙を作る。そして自身の“気”と“魂”を集中して筆にのせる。まるで息をするように滑らかな筆使いでサラサラとしたためていたかと思うと、時折ガッと気を放ち、書を“打つ”。

「心拍がこもっていれば、自然と筆で紙を打ち付ける書き方になる」と吉川壽一は言う。彼の“SYO”は空間とともに、描くときのリズムが大切だ。そのリズムと気によるグルーヴを、誰の目にも明らかにして書の面白さを伝えたいから、ライブパフォーマンス=SYOINGにもこだわるのだとも語ってくれた。

吉川壽一にとって、そこかしこが表現の場。撮影スタジオでの取材時には、撮影用に敷いていたバック紙と呼ばれる紙に揮毫を行なうパフォーマンスを見せてくれた。このときは撮影用にセットしていたライトの形に合わせて、多数の「福」という字と大きな「龍」をSYOING!

完成した作品がこちら。直径1m以上の大作である。

吉川壽一が次に目指す場所“ニューヨーク”と、そこで“勝ちにいく”ことの真意

取材中、ニューヨークをテーマに書いてもらった作品。

吉川壽一が作品を発表する場として想いを馳せているのが、アメリカのニューヨークだ。世界中に“SYO”を届けることも吉川壽一が長年続けてきたライフワークのひとつだが、なぜ今ニューヨークなのだろうか。

「ニューヨークは、ずっとパフォーマンスをやってみたかった場所です。そして、こういう時代だからこそ、自分がやりたいことなら、何が何でもがむしゃらにやればいいんじゃないかと思っています。そして、がむしゃらになるためには、がむしゃらをやれる場所と、がむしゃらにやる人たちが周りにいなければいけない。それは日本ではダメかもしれないとずっと感じていました。なんだかんだ言っても、ニューヨークは世界の中心で、人も芸術も集まる場所。だから僕は、ニューヨークで“勝ち”に行きたいんです」

吉川壽一の言う“勝つ”は、“己に勝つ”という意味であると同時に、指標とする相手もいる。そこが、日本の書の世界を破天荒に突き破る、アーティストとしてのスケールの大きさだ。

「勝ちたいものは、それこそいくらでもありますよ。ラスコーの洞窟壁画にだって勝ちたい(笑)。芸術というのは、今生きている人間がやることだし、そうじゃなければやる意味がない。だから死んだ人間が残した作品とはいくらでも戦えるんです。その“勝つ”をどこで出すのかというのが、今、僕のなかではニューヨーク。時代を代表するあらゆるものが集まる場所、その人たちの面前で戦ってみたいんですよね。だから、もう“勝ち”にいく以外ない。ニューヨークでそういう場が、作れそうになっているんだったら、もうやる以外ないよね。結局僕は、誰もやっていないことをやってみたいんです」

吉川壽一が海外に“SYO”を広めたい動機のひとつには、体感するアートとして純粋に楽しんでもらいたいという想いもある。ただ、日本人には、漢字や仮名で形作られる書は、それだけで意味がついてしまうので、書そのものを純粋に芸術として捉え、楽しむことは難しい。加えて、難解な漢字が書かれているだけで、「意味が分からないからつまらない、難しいものだ」という固定概念も常につきまとう。

「だから日本語が読めない外国の人達に、“書とは何だろう?”という問いごと持って行ったほうがいいんですよ。それと日本人でも、書というものをまったく意識したことがない、若い人達に見てもらうのもいいかもしれないね。だって僕もずっと、書とは何かが分からないから書き続けているんだから」

吉川壽一の目線は、常に今あるものの先へ先へと向けられている。新しい知見が、ニューヨークをはじめとした新しい世界への挑戦が、吉川の作品にどんな影響を与え、どんな新しい発想へと繋がっていくのか。今後も興味は尽きない。

文・取材:阿部美香
撮影:篠田麦也(スタジオ・取材撮影)/冨田 望(取材撮影)

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