The Orchardの創設者、リチャード・ゴッテラーの音楽人生に学ぶ時代の乗り越え方【後編】
2024.07.19


デジタル配信時代に重要な役割を果たしている音楽ディストリビューション、アーティストサービスを提供するThe Orchard(ジ・オーチャード)の共同創設者、リチャード・ゴッテラーのインタビュー。
ミュージシャンとしてキャリアをスタートし、レーベル設立、プロデュース業などを経て、1997年にThe Orchardを設立。インターネットを介して音楽が配信される時代の到来をいち早く予見し、グローバルヒットを生み出す会社へと成長させていった道のりを聞いた。
目次

リチャード・ゴッテラー
Richard Gottehrer
The Orchard
共同創設者兼チーフ・クリエイティブ・オフィサー
1997年設立、アメリカ・ニューヨークに本社を置く音楽ディストリビューションとアーティストサービスを提供する会社。インディペンデントアーティストやレーベルから楽曲を預かり、サブスクリプションサービスにデジタル配信を行なっている。2015年にアメリカのSony Music Entertainmentの完全子会社となった。現在は全世界に約50カ所の拠点を持ち、データ分析や広告、マーケティングサポート、権利管理、デジタルだけでなくフィジカルのサポートなど、幅広い音楽ビジネスサービスを、最新テクノロジーを用いて提供している。
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──リチャードさんは1940年にニューヨークで生まれ、音楽業界でのキャリアはミュージシャンとしてスタートしていますね。
私は5歳のときからクラシックのピアノを学んでいたんですが、あるときトランジスタラジオで初めてロックンロールやブルースを聴いて夢中になったんです。それでピアノのスタイルもブギウギやブルースに変わっていき、14歳のころから曲づくりを始めました。
その後、大学に進学したものの、学校に行くよりもニューヨークのブロードウェイにあるブリル・ビルディングへ通うようになって。
──そのビルから生まれた音楽は“ブリル・ビルディング・サウンド”と言われました。バート・バカラック&ハル・デヴィッド、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィンのような作曲家&作詞家のコンビをはじめ、多くのミュージシャンがこのビルに入居していた音楽出版会社や宣伝会社に足繁く通い、デモ音源を制作していたことで知られています。
ブリル・ビルディングには音楽に関わるたくさんの会社が、それこそ100以上も入居していたので、オフィスからオフィスへ渡り歩き、ドアをノックして、自分が作った曲を聴いてもらっていました。当時はアーティスト自身が曲を書くということはあまりなく、音楽出版社と契約していた職業作曲家や職業作詞家が曲を書いていたんです。
そのうちに私はボブ・フェルドマン、ジェリー・ゴールドスタインとともに作曲チームとして活動するようになり、ガールグループのジ・エンジェルスに提供した「マイ・ボーイフレンズ・バック」と、リック・デリンジャ―が率いるザ・マッコイズが歌った「ハング・オン・スルーピー」がヒットし、どちらも全米1位となりました。
そこで作曲とプロデュースを仕事にするいっぽうで、私たち3人はバンドを結成し、自分たちでも歌って演奏するようになったんです。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』の主人公であるストレンジラヴ博士にちなんで、ザ・ストレンジラヴズと名乗った私たちは「アイ・ウォント・キャンディ」というシングルを1965年にリリースし、全米11位になりました。
──「アイ・ウォント・キャンディ」は、1982年にバウ・ワウ・ワウ(1980年代に活躍したイギリスのニューウェイヴ・バンド)がカバーしてリバイバルヒットしましたね。
私たちのバージョンをうまく当時のサウンドに仕立て上げて、素晴らしい出来栄えだと感じましたよ。プロデューサーのケニー・ラグーナが、「歌詞のこの部分がよく聴き取れないから教えてほしい」と電話をかけてきたのは面白い出来事でした(笑)。
その後、バウ・ワウ・ワウのギタリストだったマシュー・アッシュマンが結成したチーフス・オブ・リリーフのアルバムを私がプロデュースすることになって。映画やCMで使われる「アイ・ウォント・キャンディ」は、ほとんどバウ・ワウ・ワウのバージョンですが、それでも自分が作った楽曲が世の中に受け入れられるのは、うれしいものですね。
──その後、ザ・ストレンジラヴズは1968年に活動を停止。あなたはシーモア・スタインとともにサイアー・レコードを設立します。表舞台に立つミュージシャンから、裏方であるレコードマンへと転身を図ったのはどうしてですか。
当時、ザ・ビートルズがイギリスやアメリカだけでなく世界中を席巻していました。そして、ザ・ビートルズの登場は音楽ビジネスの転換点でもありましたね。
それまで楽曲というものは職業作家が手がけて、音楽出版社を通してアーティストに供給されていました。しかし、アーティストが自ら曲を書き始めたのです。アーティストは曲が出来上がるのを待つ必要がなくなりましたし、そして何より自己表現ができるようになったんです。現在の感覚からすると当たり前のことのように聞こえますが、その当時は驚天動地の出来事でしたね。
そこで私たちが目をつけたのが、イギリスをはじめとするヨーロッパの良質な音楽をアメリカに紹介するビジネスでした。だから、シーモア・スタインとともにサイアー・レコードを立ち上げたのです。
1966年にリチャード・ゴッテラーとシーモア・スタインによって設立された。当初はイギリスのアンダーグラウンドなプログレッシブロック・バンドをアメリカの市場に紹介していた。1970年代後半にはラモーンズをはじめとするパンクロックやニューウェイヴのアーティストと契約を結び、インディペンデントレーベルとして成功を収めた。1976年よりワーナーミュージック・グループの傘下に入り、1980年代にはマドンナやアイス-Tの作品が大きなセールスを生んだ。
──そこからディストリビューターとしてのキャリアがスタートしたんですね。
私たちはロンドンなどヨーロッパの各都市をまわり、デッカ・レコードやEMIといった大手レコード会社の輸出部門を訪れて、音楽のライセンスについて学んでいきました。
デッカ・レコードやEMIはアメリカにも支社がありましたが、彼らは既にヒットした曲だけをアメリカで発売していたので、まだまだ知られていないヨーロッパのアーティストや作品がたくさんあったのです。
そこで私たちは手ぶらで彼らを訪ねるのではなく、ニューヨークの名物であるチーズケーキをお土産に持って行きました。最初の訪問はただチーズケーキを渡しただけで終わりましたが、次に訪れたときは「またチーズケーキを持ってきてくれたの?」と尋ねられました。そこでまたチーズケーキを渡すと、彼らは「今、売り出そうとしているアルバムがあるんだけど、聴いてみる? これも聴いてみたら」と次々と勧めてくれるようになったんです(笑)。
新しいビジネスに参入したいのであれば、状況と変化を認識し、人々とどのように付き合うのかを理解し、そこで何が起こっているのかを理解しなければなりません。
まさにそのタイミングで、アメリカではFMラジオの放送が始まりました。それまでAMラジオのモノラル放送だったのが、FMラジオの出現によりステレオで聴けるようになったんです。
そして、私たちがライセンスを取得したイギリスの音楽は既にステレオ録音であり、しかもアメリカでは誰も権利を持っていないものでしたから、FMラジオ局から喜ばれ、ヒットのきっかけにもなりました。
──現在のThe Orchardがサブスクリプションサービスに対して果たしている役割と通じるところがありますね。
そう、フィジカルからデジタルになっただけで、やっていることはあまり変わりませんね(笑)。そうしてサイアー・レコードがディストリビューターとして成長をつづけるなか、再び音楽業界、音楽シーンに大きな転換点がやってきました。それがパンクロックの台頭です。
ラモーンズはサイアー・レコードが契約した最初のパンクバンドでした。私はその新しい波に刺激されて、新しい才能を発掘し、彼らと一緒にレコードを作りたいという気持ちが沸き起こりました。そしてサイアー・レコードを去り、再び音楽制作の道に戻ることになったのです。
私はCBGB(ニューヨークのマンハッタンにあった伝統的なライブハウス。ラモーンズなどのパンクバンドが多く出演したことで知られる。2006年に閉店)などのライブハウスに通い、見込みのあるパンク、ニューウェイヴのバンドを探し始めました。
そのうちにブロンディと出会い、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズやロバート・ゴードン、リンク・レイらを手がけるようになったんです。その過程でプロデュースを依頼されるようになっていき、ゴーゴーズのデビュー作と2作目を手がけて、大きな成功に導きました。1990年代に入ってもプロデュース業をつづけていましたが、また変化の時代がやってきます。今度はインターネットです。
──インターネットとの出会いは、リチャードさんに何をもたらしたのでしょうか。
インターネットが普及する数年前、私はスコット・コーエンという人物に出会いました。彼はスクラブというバンドのマネージメントをしていて、私はスクラブを気に入って彼らのプロデュースを手がけようとしていたんです。
さらに、プロデュースだけではなく、彼らを大きく売り出すために、スクラブやそのほかのバンドの作品をリリースするインディペンデントなレコード会社を立ち上げようと考えて、ニューヨークのローワー・イーストサイドのオーチャード・ストリートで、私たちはソル3というレーベルをスタートさせました。
──The Orchardという名前はその通りに由来していたんですね。
そうです。ただ、メジャーレーベルではないのでCDを大型店に仕入れてもらったり、影響力のあるラジオ局でオンエアしてもらったりするのは困難なことで、スコットと別のやり方を考えることにしました。そこでインターネットを使うことにしたんです。
最初は、スクラブや彼らと似た傾向のバンドについて投稿している人を探して、連絡を取り始めたんです。さらに、彼らとのコミュニケーションからマーケティングやプロモーションのプランを考えるなかで、あるときインターネット上にレコード店があることを知ったんです。
レコード店というのはお店があって、CDやレコードがズラッと並んでいて、音楽好きのスタッフが応対してくれるという固定観念を持っていた私には衝撃でした。しかも、お店のスペースに限りはなく、ありとあらゆるジャンルのCDが数十万枚と売られていました。
これだ! と思って、私たちはインディペンデントなアーティストをインターネット上のレコード店に売り込むことを考えて、会社を設立しました。それがThe Orchardの始まりです。
後編では、激動の音楽業界で一歩先の未来を予感し、変化をチャンスに変えてきた彼が音楽ビジネスに抱く理念を聞いた。
文・取材:油納将志
撮影:干川 修
通訳:長谷川友美
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