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Artist Profile(アーティストプロファイル)

“コントラバスヒーロー”地代所 悠は、どこから来て何を目指すのか【前編】

2020.03.30

気鋭のアーティストの実像に迫る連載企画「Artist Profile」。

今回は、注目を集めるオーケストラやアンサンブルに次々と参加し、いわゆるクラシック音楽の演奏家というステレオタイプにはおさまらない若きコントラバス奏者、地代所 悠(じだいしょ ゆう)をクローズアップする。

クラシック、吹奏楽、ジャズ、ポップスといったジャンル間を自由自在に行き来し、SNSを駆使して自己表現を楽しむ新世代型コントラバス奏者はどのようにして生まれたのか? その生い立ちから現在、今後の野望まで、たっぷり語ってもらったロングインタビュー。前編と後編にわけてお届けしよう。

  • 地代所 悠

    Jidaisho Yu

    高校入学と同時に吹奏楽部でコントラバスを始める。東京藝術大学卒業、同大学院修士課程修了。ぱんだウインドオーケストラ首席コントラバス奏者、ミュージカル「レ・ミゼラブル」2019年のレギュラー奏者を務める。第8回横浜国際音楽コンクール弦楽部門第2位、第86回日本音楽コンクールではアンサンブルリームの奏者として委員会特別賞を受賞し、第21回宮崎国際音楽祭に参加。「出れんの!?サマソニ2019」ではファイナリストに選ばれている。また、2018年5月より若手音楽家が集ってさまざまな音楽活動を行なっている『STAND UP! ORCHESTRA』(運営・ソニー・ミュージックエンタテインメント)に所属。

“好き!”の根っこを育てた小学生時代

「今回の取材のために自分の過去を振り返ってみたら、意外と“小学生時代の僕”と“今の僕”が直結しているような気がしてきたんですよ。その間を飛び越えて」

東京の柴又生まれで、神奈川の葉山育ち。海をこよなく愛するがゆえに現在も葉山在住。そんな地代所 悠は両親の影響で子どものころから洋画や洋楽にどっぷり浸かっていたという。

「小学生のころの夢は映画監督。映画や音楽を通して英語圏の文化で育った感じがあって、あまり日本のドラマやアニメなどは観ていませんでした。当然、クラスの友だちとは話が合わないのですが、たまに『マトリックス』とか『スパイダーマン』が好きな子を見つけると、すかさず“一緒に遊ぼう!”と誘って。父のお下がりのビデオカメラを回しながら、ヒーローごっこ遊びを撮影したりしてました」

ピアノも小学校3年から2年間ほど習ったことはあったが、音楽よりも映像への興味が先にあったという。現在では自身のYouTubeチャンネルに、ドラマ主題歌のコントラバスカヴァーから、コントラバス奏者の日常、映画の解説から筋トレ動画まで、大量の動画をアップしているが、彼の映像制作のキャリアは年季ものだ。

コントラバスでドラマ主題歌をカバーしたり、コントラバス奏者の日常を収めた動画が見られる、地代所 悠のYouTubeチャンネル。

「ひとつの世界観を作り上げることが好きだったんでしょうね。映画は音楽との結びつきが強いですし、音楽への興味もその延長線上にあって、主題歌やサントラをひたすら聴いて耳コピしたりもしてました。あとは小学校の音楽の先生がすごく良い先生で。楽器が好きな子たちでアンサンブルチームを作らせてくれて、みんなの前で発表させてもらったのも、楽しくて強く印象に残ってます。結局、人前でパフォーマンスをするのは子どもの頃から好きだったんですね」

現在の地代所 悠を形成している要素が、既に小学生時代に彼のなかに根を下ろしていたことが、話を聞いているとよくわかる。

「いろいろなことに興味を持って、全部を“好き!”っていうエネルギーで動いているのは、小学生のときも今も同じだなと。中学から高校、大学までの間に世の中の仕組みとか、お金の使い方とか、社会性というのも身に付けたとは思いますが、僕自身の根っこは小学生のときからまったく変わっていないように感じます」

自分をカテゴライズされたくない

地代所悠のなかで音楽が生活の主軸になり始めたのは、中学校で吹奏楽部に入ってからだったという。

「中学の吹奏楽部では打楽器をやっていました。トランペット奏者が“パーッ”と派手に演奏する姿に憧れて吹奏楽部に入ろうと思ったんですが、希望の楽器ができるとは限らなかったので、第1希望がトランペット、第2希望がトロンボーン、第3希望がサックス、第4希望が打楽器という順で紙に書いて提出したんです。そうしたら顧問の先生との面談で“君は運動が好きかい?”と聞かれたので、元気良く“はい!”って答えたら打楽器になっていました(笑)」

この打楽器との出会いは、今から振り返ると必然性のあるめぐり合わせだった。もしここでトランペットになっていたら、のちに地代所はコントラバスと出会っていなかったかもしれないのだ。

「打楽器と聞いて最初はちょっと落ち込みましたが、やり始めてみたら、じつはすごく自分に合っていることに気付きました。パーカッションだけでなくドラムも叩けるし、楽しかったですね。ここで音楽における“リズム”について真剣に考えるようになりました。その経験は今、コントラバスの演奏にもすごく役立っています」

楽しい部活動生活を送る一方で、中学生は暗黒時代、自分のネガティブな部分が溜まった時期でもあったと語る。

「小学生のときは好きなものを好きと言い続けて、周りの友だちや先生もそれを認めてくれていました。でも、中学生になると、カテゴライズの主が部活になるんですよ。“〇〇部の〇〇君”みたいな。そうやって自分がカテゴライズされるのが、すごく嫌だったんですね。部活とは別に、ギターの上手い友だちと一緒に、ロックバンドも組んでいたのですが、“文化部のくせに調子に乗ってる”と思われたらしく、因縁をつけられたこともありました(苦笑)。自分のなかには反骨心みたいなのがあって、“この野郎!”という気持ちが常にあふれてましたね」

「カテゴライズされるのがイヤ」というのは、地代所 悠の多面性を理解する上で重要なポイントかもしれない。ともあれ、そんな暗黒の中学生時代も、最後はハッピーエンドで幕を閉じることができたという。

「中学3年生の卒業間際に、学年全体の合唱イベントがあって、そこで指揮者に選ばれたんです。喧嘩をすると仲良くなると言われますが本当にその通りで、“地代所なら男子も女子もまとめられる”と言われて、気が付くと周りから頼りにされていました。そこで初めて認めてもらえたような気がして、ようやく自分のなかでの闘いが終結しましたね」

コントラバスと出会うもモヤモヤ

高校でも引き続き吹奏楽部を選んだ地代所 悠は、ここでようやくコントラバスとめぐり会う。

「高校に入って、最初は吹奏楽部に入る気はなかったんです。ダンス部を見学して“ブレイクダンスやりたいな”とか。でも自分がやってきたことをゼロにしてしまうのは、やっぱりもったいないという気持ちが芽生えてきて、また吹奏楽部に入ることにしました。とは言え、打楽器はある程度やり尽くしたし、ドラムとして参加しているバンドも続けていたので、次は違う楽器にしようと。いろいろな楽器をひと通り試してみて、いちばん面白かったのがコントラバスでした。低音が身体に響く感覚、その振動がすごく心地良くて。理論とか、言葉では説明できない“衝動”でコントラバスに決めました」

コントラバスという楽器は、クラシックのオーケストラはもちろん、ジャズバンド、吹奏楽など幅広いジャンルで活躍し、アンサンブルの低音を支える縁の下の力持ち。必要不可欠な存在だ。だが地代所 悠は、コントラバスにはもっと多くの可能性があると考え、その魅力を開拓し、伝えるべく日々活動している。そうした考えは、吹奏楽部でコントラバスを始めた当初から抱いていたものだったと当時を振り返る。

「当時、ちょっとがっかりしたことがあって。惚れ込んで始めたのに、コントラバスは吹奏楽のなかでは本当に地味な存在なんです。楽譜では“白玉”と呼ばれる長く伸ばす音符ばかりだし、派手なパフォーマンスもできなくて、全部の楽器が同時に演奏すると埋もれてしまう。もちろん、とても大事なパートではあるのですが、僕自身はモヤモヤとしたフラストレーションを抱えながら演奏していました。すごく良い楽器なのに、魅力が伝わりづらいなあと」

そんなとき、ひとつの出会いが訪れる。

「吹奏楽部のコントラバスパートの卒業生が、ときどき高校に指導に来てくれていたんです。東京藝術大学(以下、藝大)の大学院を出て、テレビ局で働いているという異色の経歴の人で、とにかく上手いんですよ。自分が知らないコントラバスの音がする。どうやったらこんな音が出せるんだろう? と思いました。そして単純だった僕は“藝大に行くとこうなれるのか”と……。アホですよね(笑)」

折しも高校2年生で進路を考えなければならない時期。自分の強みを活かせる分野に進みたいと考えた地代所 悠にとって、これまで音楽で経験してきたことは進路の手掛かりになった。とくに印象に残っていた経験は、中学の最後に合唱の指揮でクラスの全員をまとめたこと。そこから彼は音楽の道を選ぶ、覚悟を決める。

「やっぱり自分は音楽で認められてきたから、それを続けたいと思いました。それで音大を目指すことにしたんです。とは言え、藝大に入るための知識を何も持っていなかったので、ただ漠然と“先輩と同じ大学を目指そう!”って。その選択によって大変な苦難が待ち受けていることも知らずに……」

修行僧になりきった浪人生活

こうして音大受験の道へと踏み出したが、目指した藝大は並大抵の才能と努力では入ることができない狭き門。最初にぶち当たったのが、親の反対という壁だった。

「父は昔、サックスを演奏する仕事をしていたことがあって、音楽で食べていく道の厳しさをよく知っていたこともあり、最初はものすごく反対されました。ようやく音大を目指すことにOKが出たあとも、自分の経験からいろいろアドバイスをくれるのですが、僕にとっては逆にそれがプレッシャーだったりもして……。“もっと練習しろ”“そんなんじゃダメだ”とか言われると、どうしても反発してしまい、関係を断絶してしまった時期もありました」

次に立ちはだかったのは音楽的な技術の壁。藝大をはじめとする音大受験を決めてからは、日本を代表するコントラバス奏者であり、指導者である永島義男氏について勉強していたが、現役での受験を前にした高校3年の時期がもっとも辛かったと語る。

「受験ではクラシックのソロ曲を弾くわけですが、僕は吹奏楽しかやってこなかったので、めちゃくちゃ大変でした。ソロ曲どころか、メロディを弾くことさえ未経験でしたから。クラシックの素養がないので、弦楽器を勉強してきた人なら当たり前に心得ているフレーズの歌い方がわからないし、正確な音程も取れない。もう、すべてがダメダメという状態で……それまで持っていた自信がガラガラと全て崩れていきました。でも、部活もバンドも続けたいし、親からはワーワー言われるわで、もうパニックになっちゃって。そんな状態で受けたので、まあ、案の定、落ちますよね……。それが最初の受験でした」

しかし、地代所 悠は落ち込む間もなく起死回生の一案を講じる。そして、そこからの充実した浪人生活が、彼の音楽家としての基礎を固めるスタート地点となる。

「とりあえず、坊主頭にしました(笑)。そしてクラシック以外の曲を聴くのを一切やめました。傍から見たら修行僧のようだったと思います。1日単位、1週間単位、1カ月単位で全部の練習メニューを作って、その通りに淡々とルーティンをこなす生活。午前中はイタリアン・レストランでバイトもしていましたが、これは朝、きちんと起きて1日のリズムを作るためです。あとは師である永島先生を徹底的に真似しましたね。喋り方、歩き方、1日の過ごし方、食事の内容など全部です。とにかく先生から学べるものを全て学ぼうと思って。そんなことをしていたら、先生から“地代所、最近なんか変わったなあ”なんて言われましたが(笑)」

ストイックな日々を送るうち、そうした生活がだんだんと楽しくなっていったという。努力すればするだけ、結果が目に見えて自分に返ってくる。その喜びは、現在の彼のいちばんの趣味であるフィジカル・トレーニングで得られる快感にも通じているという。

「自分を律すること、管理すること、継続することを徹底したら、すべてがうまくいくことがわかりました。それが浪人時代に得たもっとも大きな収穫でしたね。それと、人の言うことにも左右されなくなりました。もちろん、アドバイスを聞かないとかそういうことではなく、自分が信じたスタイルとか、良いと思ったことに対して自信が持てるようになりました」

そして1年後――地代所 悠は見事、藝大合格を勝ち取る。そしていよいよ音楽一筋の大学生活を迎えることになるのだった。

後編につづく

文・取材:原 典子
撮影:篠田麦也

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