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連載Cocotame Series

芸人の笑像

野田ちゃん:明るい自虐ネタで笑いと元気を届ける根っからのポジティブ気質【前編】

2021.12.01

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第10回は、白スーツに蝶ネクタイで独特な動きを見せながら「野田ちゃんっすわ!」と、明るく自虐ネタを繰り広げる野田ちゃん。現在46歳、芸歴20年以上の彼が、2021年元旦に放映された『おもしろ荘』で注目されるまでの道のりと今の心境を語る。

前編では、ピン芸人になるまでのコンビ結成と解消の歴史を振り返る。

  • 野田ちゃん

    Noda-chan

    1975年8月31日生まれ。東京都出身。血液型AB型。身長173㎝。趣味:特になし。特技:特になし。

「電線音頭」をみんなの前で披露するひょうきん者

“来る者拒まず”をポリシーとするSMAのお笑い部門には、他のお笑い事務所から移籍してきた者、他ジャンルで長く活動しながらもなかなか芽が出ずお笑いに転身した者、フリーライブを渡り歩いた果てにたどり着いた者など、華やかなスポットライトには縁遠く、長い下積みを経てきたベテラン芸人が多い。

これまで本連載に登場したハリウッドザコシショウ、コウメ太夫、錦鯉らを筆頭に、その多くはさまざまな挫折を経験して、波瀾万丈、紆余曲折の人生を歩んでいるうちに年齢を重ね、「もう若くもないし、夢を追いかけたいがこのままでいいのか? いっそ芸人を辞めてしまおうか?」と悩んだことが、一度や二度はあったと語る。だが、彼らと同じように挫折つづきの人生を送り、アルバイト生活に明け暮れながらも「僕、一度も芸人を辞めようと思ったことないんですよ」とニコニコしながら語る芸人が、ここにいる。

野田ちゃん、46歳。蝶ネクタイを締めた白シャツ、白スーツに身を包み、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、なぜか話すたびに深々とスクワットをして、「野田ちゃんっすわ! 芸だけじゃ食っていけず、いまだに水道メーターを歩き回って見るっていうバイトやってますわ!」と大声でネタに入る野田ちゃん。同じバイトをしている25歳の後輩芸人に「このバイト10年やってたら地獄っすね」と言われるが、「野田ちゃん、23年やってますわ!」「20年目のときに表彰されましたわ!」と表彰状を高々と掲げ、満面の笑みで客席を見回す彼に、爆笑と大きな拍手が贈られる。

自らの売れない芸人人生をネタにする芸人は多いが、こんなに堂々と、晴れ晴れとした表情で、楽しそうに自虐を語る芸人は珍しい。ネガティブな事柄も、そうとは感じさせないポジティブなマインドへと一気に引き込んでしまうから、自然と笑いが生まれてくる。そんな個性的な野田ちゃんワールドは、人々に笑いとともに元気をも与えてくれる。

その独特のポジティブ自虐芸が花開いたのは、2021年元日に放送された『ぐるナイ「おもしろ荘」お笑い第7世代NEXTスター発掘スペシャル』。同じSMAの後輩、元自衛官芸人・やす子も注目されたこの番組で、野田ちゃんの爆発力ある芸風が話題となり、「野田ちゃん」のワードはTwitterのトレンド3位に。一躍、彼の名前がお茶の間に広まった。

野田ちゃんは、母親が里帰り出産をした福岡県で生まれ、2、3歳からはずっと東京育ち。幼少期からお笑い番組が大好きで、1975年生まれの彼は、当時一世を風靡していたバラエティ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』で、伊東四朗演じるデンセンマンが小松政夫らと歌い踊っていた「電線音頭」をクラスのみんなの前で披露するような、元気でひょうきんな人気者だった。中学、高校時代には、自然に「テレビに出てみんなを笑わせる人になりたい」という夢を抱くようになっていたと言う。

「でも、高校を卒業して芸人になる勇気はさすがになかったんですよ。僕の年だと、行こうと思えば吉本興業の育成機関、東京NSC1期生になる道もあったんです。あのころはダウンタウンさんやナイナイ(ナインティナイン)さん、千原兄弟さんとか、関西のお笑いが好きで憧れていましたからね。でも親にそんなこと言えないし、周りでお笑いをやりたい人に会ったこともなかった。だけどこのまま東京の大学に進学するのはつまらない。何か普通じゃないことできないかな……と迷っていたところ、親が、地方の国立大学なら行っても良いと。僕、こう見えて結構成績は良いほうだったんで(笑)、大分大学工学部に進んだんです」

でもその選択は失敗だった……と、あとから野田ちゃんは気付くことになる。

「NSCに入らないまでも、今思えば、東京の大学でお笑いサークルに入って経験を積んだほうが、本当は良かったんですよね。大学に通いながら、お笑いライブに出たりもできただろうし。でもそんな道があることも知らなかった。実際、大分大学に行ってからわかったんですけど、地方の大学なのでお笑いサークルすらなかったんです(苦笑)。結局、大学時代は芸人になりたいなと思ってるだけで何もせず、真面目に4年間勉強して終わっちゃいました」

逃げるように始めた風呂なしアパート暮らし

それでも芸人への夢だけは持ちつづけていた彼は、大分大学の同級生でひとりだけお笑い芸人を目指す同志を見付け、ふたりで東京に戻ることを決意する。

「でも、せっかくちゃんとした会社に入れる経歴を得たのに、芸人になるなんて親が認めてくれるわけがないじゃないですか。なので、こっそり東京で住むところを見付けて、逃げるみたいに北区・十条の家賃2万くらいの風呂なしアパートで、その彼と隣同士の部屋を借りて暮らし始めたんです。だけどやっぱり、どうやって芸人になれば良いのかも知らないし、ネタの書き方も全然わかってなくて。とにかく生活費を稼がなきゃと、ふたりでずっとバイト探しをしてたんですよ。そのとき始めたのが、今、自分のネタにもしている水道メーターの検針のアルバイト。23年経った今もつづけてはいるんで、芸歴よりバイト歴のほうが少し長いんです(笑)」

以前、本連載でや団に話を聞いたとき、「SMA芸人の間では伝統的に水道メーター検診のアルバイトが受け継がれてて、僕らもやってるんです」と言っていたが、それは野田ちゃんから始まった伝統だ。そして、せっかく上京したものの、アルバイト生活に明け暮れていた彼らに、1998年、野田ちゃん23歳の夏、ようやく転機が訪れる。

「雑誌で、吉本興業がやっていた“渋谷公園通り劇場”のオーディションを見付けたんです。養成所に入らなくても舞台に出れるんだ! と喜んでオーディションを受けに行きましたね。ネタは僕が書いたんですが、ティンカー・ベルっていう妖精がいるじゃないですか。そのティンカー・ベルになるための学校の入学試験という設定で。僕が教官で、相方がティンカー・ベルになりたいヤツになってドタバタをするんですが、ティンカー・ベルという響きが面白いだけの、何も内容のないコントだったので、もちろんウケない。公園通り劇場のオーディションライブは、ウケてないとネタを中断させられるんです。結局、1回も完走したことないまま2、3回出させてもらっているうちに、その年で劇場が閉まっちゃいました。

その後も、友達とは出演料を払って出るフリーライブに1、2回出たんですけど、相方が『金払ってライブに出るなんて嫌だ!』と言い出して、結局コンビとしては自然消滅しちゃいました。彼とは今も仲良くしてますけど」

初代コンビ解散後、お笑いを諦められない野田ちゃんは、相方探しの旅に出る。同じ渋谷公園通り劇場に出ていたヘリコプターというコンビと仲良くなり、解散したヘリコプターのメンバーのひとりと、ふたつ目のコンビを組んだ。

「その相方だった人が、のちに“ラーメン荘 夢を語れ”という有名なラーメンチェーンの創設者となる西岡津世志くん。途中、もうひとりメンバーを追加して3人組になったりしながら、1、2年一緒にコントをやってました。グループ名は西岡くんがつけた“トンコツ荘”。ラーメン屋さんになるだけのことはある名前ですよね(笑)。

西岡くんは当時からビジネスマンとしての才能があって、単独ライブをやると彼が50枚以上のチケットを売ってくれて、助かりましたけどね。最近も西岡くんとお酒を飲みましたけど、全部奢ってくれました(笑)」

ザコシショウに言われた「ボケとツッコミが逆だろ!」

そんなトンコツ荘も、西岡がラーメン屋修行に入るなどの理由で長つづきはせず、消滅。次に野田ちゃんは、同じく公園通り劇場出身の仲間が集まって結成した7人組のコントユニット“NOVCO(ノブコ)”の一員となる。そこで仲良くなったのが、のちに “チャーミング”を結成する井上二郎だった。

「二郎さんも、当時はハッピーマンデーというコンビを組んで公園通り劇場に出ていたんですが、最初に見たときは驚きましたね。二郎さんは僕よりふたつ年下で福岡県出身なんですけど、僕が大分で大学生をやってたときによく見ていた、博多華丸・大吉さんやナイツの塙(宣之)さんが出ていた『激辛!?お笑いめんたい子』というローカル局のお笑いコンテスト番組に、高校生で出ていたんですよ。そんな人と東京で出会ったことにも驚いたし、九州ではすごかったのに、東京の劇場では全然ウケてないことにも驚いた。最初は別人かと思ったくらいです。でも、話してみたら意気投合して、ハッピーマンデーのふたりともお笑いをやるようになり、チャーミングという名前のコントトリオを組んだんです」

3人組として1、2年活動したチャーミングだったが、もうひとりのメンバーが芸人を辞めるという理由で、2004年、野田ちゃんと井上二郎のコンビとして再始動。同じころに立ち上がったSMAのお笑い部門に、チャーミングは所属を決める。

「最初はフリーでやってたんですけど、SMAは履歴書さえ出せば誰でも入れると聞いて、コレだ! と思ったんですよね(笑)。でも、そういう芸人がSMAに詰めかけていたんで、入った当初は芸人が多すぎて事務所ライブにも出られなくて。当時は二郎さんがネタを書いてて僕がツッコミ役だったんですけど、正直ネタも、そのころ流行っていたウケそうな要素をただ寄せ集めただけの感じで、イマイチだったんです」

そんな“イマイチ”だったチャーミングに変革を起こしたのが、SMA芸人の良き兄貴分であるハリウッドザコシショウだった。

「シショウにネタを見てもらったら、『全部想定内だな、どっかで見たことあるぞ。しかもボケとツッコミが逆だろ!』と言われたんです」

本連載でも語られていたように、錦鯉が今ブレイクしている芸風にたどり着いたのも、「長谷川雅紀はもっとバカになるべき」というハリウッドザコシショウのアドバイスがあったからだ。お笑いに厳しく、洞察力のあるハリウッドザコシショウの言葉に従い、チャーミングもネタの作り方から見直した。

「僕が嫌がらせをして二郎さんが大騒ぎをする内容に変えたんです。そしたら、事務所の“SMAトライアウトライブ(笑)”で一番ランクの高い“金のタマゴ”に出られるようになったんです。『爆笑オンエアバトル』にも出られたし、2010年代半ばには『キングオブコント』でも準決勝に行けるようになった。僕がボケ役になってネタを書くようになってから、波に乗ってきたんです」

 
後編につづく

文・取材:阿部美香
撮影協力:東急プラザ蒲田 屋上「かまたえん」(衣装カット)

関連サイト

公式サイト
https://sma-owarai.com/s/beachv/artist/n044?ima=0142(新しいタブで開く)
 
公式Twitter
https://twitter.com/nodakazuyasu(新しいタブで開く)
 
公式YouTubeチャンネル
「野田ちゃんっすわ!」
https://www.youtube.com/channel/UC9GKiB0MEUwBaHADiinshiQ(新しいタブで開く)

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