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連載Cocotame Series

芸人の笑像

ロビンフット:コントにこだわりつづけて四半世紀。今年こそ勝負をかける【前編】

2022.04.21

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第14回は、四半世紀の芸歴を持ち、SMAのお笑い部門創成期から所属するロビンフット。彼らの作り込まれたコントと、コント職人としてのこだわりの源泉とは。結成当時から現在までの活動歴からひも解く。

前編では、大阪での出会いから、マー坊の巧みな誘導でおぐが上京してコンビを組み、順風満帆のスタートを切るまでのストーリーを追う。

  • ロビンフット

    Robinfutto

    (写真左より)おぐ/1976年5月5日生まれ。滋賀県出身。血液型A型。身長172㎝。趣味:野球観戦。特技:野球(高校まで野球部所属)。マー坊/1975年6月5日生まれ。大阪府出身。身長173㎝。趣味:野球、スノーボード。特技:遠投

面白さには自信があった

開口一番、「連載、見てますよ! 写真がね、みんなほんまカッコ良く撮られてますよねぇ」「いつになったら僕らを取材してくれるのか。遅いなぁ、まだかなぁと待ってました!」とフレンドリーに笑うのは、四半世紀を超える芸歴を持つ40代コンビ“おぐ”と “マー坊”。彼らの名はロビンフット。

2004年のSMA NEET Projectの立ち上げから、長年、SMAのお笑いを仲間とともに支えてきたコント芸人コンビだ。

ファイナルへの初進出を果たした『キングオブコント2018』の紹介VTRで、アキラ100%が「馴染みがすごくある、芳醇な、熟したコント」と表現したように、彼らのコントは破天荒で奇抜な設定に頼ることのない日常的な光景をベースに、ボケ役・おぐのちょっとズレた発想に常識人のツッコミ役・マー坊が翻弄される、会話の妙で見せていく王道のお笑いだ。

40代半ばに差し掛かっているふたりが、芸人に憧れたきっかけはやはり、これまで本連載で話を聞いてきた同世代の芸人が、等しく名前を挙げるダウンタウンだ。同年代のおぐとマー坊は、小学生のときに1980年代に一世を風靡した“ドリフ”や“ひょうきん族”に夢中になり、小学校高学年で、『4時ですよ~だ』で爆発的人気を獲得したダウンタウンに出会っている。

おぐは滋賀県生まれ、マー坊は大阪府生まれと、生まれた土地こそ違えど、笑いのセンスのベースは同じ。しかもふたりとも、「芸人になろう!」という明確な将来設計をしていたわけでもなく、気が付いたらお笑い芸人の門を自然と叩いていたというのも、芸人やお笑いが身近な存在である、関西地方特有の空気感があったから。

「まぁ、小学生の時分からずっと、“目立ちたがり”ではありましたよね。学校で何か出し物をやる機会があれば、友達と漫才やって、ウケてましたね」(おぐ)

「僕も何か特別なきっかけがあって、お笑いを目指したというわけでもない。中学、高校、大学と学生時代はずっとクラスで一番、学年で一番、俺っておもろいやん! と思っていただけだし。ただ、僕はおぐのように漫才をやるまでの勇気はなくて(笑)、文化祭なんかでお芝居をやってました。脚本を書いてキャスティングをして、自分もチョイ役で出て演出して……みたいな。人前で何かやるのは、当時から好きやったと思います」(マー坊)

そんなふたりが出会ったのは高校卒業後。2000年のロビンフットの結成より、5年ほど遡ったころのことだ。

おぐは、浪人時代を経て近畿大学に進学。同時に、高校時代に組んだ漫才コンビ、“ちゃわんむし”の相方と一緒に、芸人を目指して吉本興業のお笑い養成所NSC大阪校(17期)に入る。だが、大学には親に内緒で3日ほどで行かなくなり、3年ほど籍だけは置いていたものの、結局退学。NSCも半年ほどで通わなくなったという。

「当時、大阪の若手は二丁目劇場に出るのが目標だったんですけど、最初のころはNSC生じゃないと出してもらえなかったんです。でも途中から、オーディションに合格すれば誰でも出れるようになった。じゃあNSCに行く必要ないなと思って、通わなくなりましたね。素人参加のお笑い大会で、“ちゃわんむし”で優勝もできてましたから、面白さには自信がありましたしね」(おぐ)

いっぽう、マー坊は地元大阪の高校を卒業したあと、関西大学に進学。大学在学中にスキー場の住み込みのアルバイト先で知り合った大学生とフリーのお笑いコンビ“やおひら”を結成。ちゃわんむしが優勝したお笑い大会などにも出場していたり、二丁目劇場のオーディションを受けたり、吉本にネタ見せをしに通うようになったりして、当時、2丁拳銃や陣内智則らが活躍していた二丁目劇場にも出演するようになっていった。

「そこでおぐたちとも仲良くなって、別コンビ同士で一緒にコントユニットを組んだりしてたんですよ。そのユニットには、今、吉本新喜劇の座長をしている“すっちー”もいて、仲良くやってたんです。一緒に海に行ったり、旅行に行ったり、ナガシマスパーランドに遊びに行ったり、学生サークルみたいなノリでワイワイやってました。そのころは、まさか5年後に、おぐとコンビを組むことになるとは思ってもみませんでしたけどね(笑)」(マー坊)

ラジオで泰造さんが「僕の運転手がコンビを組んだ」

そんな関係が数年つづいたあと、お笑いのプロとして活動していくために、ふたりは別々の進路を歩むことになる。おぐは大阪に残り、ちゃわんむしで活動をつづけていったが、フリーだったマー坊は、大学卒業を機に、やおひらの相方と上京を決意。ワタナベエンターテインメントに所属して、東京での活動をスタートさせた。大手芸能事務所にも入り、旅立ちは順風満帆かと思われたが……。

「東京に出てきて、やおひらで活動したのは2、3年ですね。ジャニーズみたいなイケメンやった相方が、芸人を辞めて俳優になると言い出したんですよ。当然、けんか別れです(笑)。結果、お互いナベプロには残るんですけど、彼は俳優、タレント活動にシフト。僕は会社から、『お前はネプチューンの原田泰造さんの専属運転手をやれ!』と言われて、泰造さんの運転手を始めました。でも泰造さんの運転手をやりながら、次の相方探しはしていて。実は、前回この連載に出ていたTOKYO COOLの前すすむとも、一瞬だけコンビを組んだことがあったんですよ。そんなころ……1999年ですね、ちゃわんむしが解散したんです。大阪で一緒に劇場に出てたころから、おぐが面白いことは知っていたので、これはチャンスやなと思って、上京してみないか? と声を掛けて呼び寄せました」(マー坊)

「それが、1度目の上京でしたね。でも、東京に骨をうずめる気はほとんどなくて(笑)。マー坊が、『来てみないか?』って言うし、ナベプロの名前は知ってたから、どんなところかな? というくらいの、興味本位な気持ちでした。実際行ってみても、東京があまり好きに思えなかったし、当時は大阪で彼女と同棲してて、もう結婚しようかくらいに思ってて。大阪のたこ焼き屋で修行のつもりで働いてもいたんですよ。なので、東京にはほんとに旅行がてら行った感じで、1週間くらいで大阪に帰りましたね(笑)」(おぐ)

こんなふうにふたりの間には、お笑いに対する温度差があった。それゆえマー坊の目論見はここで一度立ち消えたように見えたが、彼は決して諦めなかった。

「1度目は失敗しましたけど、おぐとのコンビを諦めるつもりはありませんでしたね。もう自分もあとがなかったし、おぐの才能にも惚れてた。クオリティは、まぁ置いといたとしても(笑)、おぐはボケるスピードがとにかく速いんですよ。やおひらでは僕がボケをやってたんですけど、おぐと一緒にやれるなら、自分がツッコミに回っても良い。ふたりで組めば絶対面白いという自信はあったんで、虎視眈々と次のチャンスを狙って、おぐをもう一度東京に来させようと、作戦を立てて根回しを始めたんです」(マー坊)

そこでマー坊が立てた“おぐ上京作戦”。先輩であるネプチューンの力を借り、ほぼドッキリとも言える、“おぐをその気にさせて、コンビ結成を断れない状況に追い込む”シナリオを考えた。

「まず大阪から来たおぐを、泰造さんにも乗ってもらって車で迎えに行ったんですよ。そしてそのまま、泰造さんに高級な天ぷら屋さんに連れて行ってもらって、美味しいものを食べさせて良い気にさせた。その足で、ネプチューンさんがレギュラーを担当していたニッポン放送の生放送ラジオ『ネプチューンのallnightnippon SUPER!』の見学に連れて行き、番組中に泰造さんに『僕の運転手がコンビを組んだので、コンビ名を募集します!』とやってもらったんですよ。生放送で既成事実を作ってしまえば、なんとかなるだろう、と。おぐもあとには引けないだろうし、と無言の圧をかけました(笑)」(マー坊)

「いきなりラジオの放送ブースに呼ばれてビックリしましたね。“コンビを組むよ”と返事もしてなかったのに、もう組むことになってる。まぁ僕はもともと流れに身を任せるタイプなんで、マー坊はやる気満々だけど僕はそこでもやる気半分くらいで。まぁ、やってみてダメなら辞めればいいや、くらいに思ってました(笑)」(おぐ)

ライブをやればキャーキャー騒がれた

そうやって番組内で募集したコンビ名の最終候補は、“原田鉄琴・木琴”と“ロビンフット”。「まだどうなるかわからないコンビに、いくらお世話になっているとは言え、泰造さんの苗字である原田をコンビ名に使うわけにはいかない」という理由から、ロビンフットに決定。しかし、おぐはまだ大阪に彼女を残したままだった。

「ロビンフットをやることになってからも、しょっちゅう大阪には帰ってましたね。事務所ライブが月に1回あって、それが終わったら大阪に帰って、また1週間くらいしたら東京に来て……という感じで、しばらくは遠距離恋愛みたいな形だったんです。彼女も一緒に上京してくれれば問題なかったんですけど、向こうにはそんな気は全然なかった。4、5年一緒に暮らしてた彼女だったんですけど、結局、それから1年くらいして別れてしまいました。そこからですかね、ちゃんとロビンフットをやっていこうと思ったのは」(おぐ)

「組んだ当時は、おぐが大阪に行くとき、いつも下駄箱にある靴の量を確認してたんですよ。なんせ彼女がものすごい美人さんだったんで、油断するとまた大阪に帰ってしまいそうで。靴を持って帰る量が多いと、東京に戻ってけぇへん可能性があるから、めちゃめちゃチェックしてましたね(笑)」(マー坊)

そんなドラマティックな結成劇を経て、2000年、20代半ばを迎えていたふたりはついにお笑いコンビ・ロビンフットとしての一歩をワタナベエンターテインメントで踏み出した。

「いちおう、ちゃんとネタ見せもして、実力を認めてもらった上で事務所所属にはなったんですけど、まぁちょっと横入りした感じで。3年くらい前からワタナベにいた人らと同期という形になったんで、飛び級したみたいなね」(おぐ)

その同期の若手というのが、パラシュート部隊、スパローズ、ザブングル(現在は解散)、現SMA所属のAMEMIYAがいたノンストップバスの4組。そこにロビンフットが加わり、5組が一緒にチーム的な存在としてお笑いライブを賑わせていた。

「まぁ全員コントをやってたからというのもあるんでしょうね、5組をまとめて推していこう! と事務所が考えたみたいで。AMEMIYAもこの連載のインタビューで言ってましたけど、あのころはとにかくお笑いライブが人気あったんです。僕らも20代で若かったですし、ライブをやれば気持ち悪いくらい(笑)、キャーキャー騒がれてました」(マー坊)

「単独ライブもチケットがすぐ売り切れになるし、劇場前には出待ちの女の子がたくさんいて、駅まで芸人の後ろをついてきた。どこのお笑いライブもそんな感じでしたよね。とにかく自分のところのライブにお客さんを集めたいから、ほかのライブには出るなという禁止令が事務所から出てたくらいです。当時のナベプロ芸人は、シャカがトップで。そう言えば、僕らのことを最初に面白いと言ってくれたのは、シャカの植松(俊介)さんでした。最初にできた事務所の友達でしたね」(おぐ)

後編につづく

文・取材:阿部美香

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