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連載Cocotame Series

芸人の笑像

もじゃ:どんなキャラでも演じ切れるし、ウケなくても全然焦らない【前編】

2022.10.20

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第17回は、SMAでは数少ない女性芸人のひとり、もじゃをフィーチャー。真っ赤なスパンコールのボディコンスタイルも、強烈なキャラクターが登場するネタも、一見して“ただ者ではない”と思わせる。この異彩を放つピン芸人はどのようにして生まれたのだろうか。

前編では、シャイだったという幼少期から、やりたいと思ったことにひたすら邁進した芸人前夜の話を聞く。

  • もじゃ

    Moja

    1981年4月19日生まれ。岩手県出身。血液型B型。身長160㎝。体重85㎏。趣味:洗濯、ぶた麺を食べる。特技:マッサージ、生け花、即興コント。

24歳のやす子の次に若い女性ピン芸人

“異彩”という言葉が、これほど似合う人もいないだろう。どっしりとしたダイナマイトボディを覆う真っ赤に輝くボディコンワンピ(ネタ衣装ではなく、芸人・もじゃとしての私服)に、真っ直ぐにカメラを見据える威圧感のある無表情……。SMA芸人のホームページに掲載されている宣材写真(新しいタブで開く)を見るだけでも、「ただ者じゃない!」と感じさせてくれるのが、“もじゃ”だ。個性派の“おっさん芸人”が多く集うSMAにおいて、やす子、あっぱれ婦人会らとともに精力的に活動している、貴重な女性芸人だ。

10月初旬に放送された『ダウンタウンDX』の“入りたいお笑い事務所決定戦SP”では、SMAは若手女性芸人が少ないことを訴えた24歳のやす子が、自身の次に若い女性ピン芸人が40歳オーバーのもじゃだと、例の宣材写真を披露して説明し、他事務所の芸人たちに驚きを与えていた。ここに掲載する写真を見ても、個性派揃いのSMAのなかでも、もじゃがいかに異彩を放つ存在かがわかるのではないだろうか。

もじゃは、1981年、東北屈指の温泉地・花巻温泉があることでも知られる、岩手県花巻市に生まれた。メジャーリーガーの菊池雄星選手、大谷翔平選手の母校、花巻東高等学校があることでも一躍有名になった土地だ。「山と田んぼと花巻空港しかないのどかな田舎で、高校まで過ごしました」と、もじゃは落ち着いた口調で話す。ルックスだけなら一見、グイグイくるタイプのようにも思えるが、素の彼女はいたって穏やかだ。例えば幼稚園の先生とか、患者を手厚く世話する看護師のような温か味を感じる。

実際、子ども時代のもじゃは、本人いわく「人見知りの超シャイガール」。どのくらいシャイだったかというと……。

「家族は父、母と兄で、おじいちゃん、おばあちゃん、あとおじさんとも一緒に住んでいる大所帯だったんです。だけど私は、おじいちゃん、おばあちゃんにすら人見知りをしていて。毎日、一緒にご飯を食べるんですけど、“この人たち誰なんだろう?”くらいの感じで、あんまり話もしない、みたいな(笑)」

そんな性格だったからなのか、外で活発に遊ぶというより、家でおとなしくテレビを見ている、典型的なテレビっ子だったのだそうだ。

「バラエティ番組はすごく好きでした。当時の岩手県は3チャンネルほどしかなかったんですけど、小学校時代は『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を夢中で見ていたのを覚えてます。そこから、ウッチャンナンチャンさんだったり、ダウンタウンさんの『ガキの使いやあらへんで!』なんかを見るようになって、どれも大好きでした」

バラエティを見るのは好きでも、「まさか大人になって自分が芸人になるとは思ってもいなかったです」と回想する、テレビっ子だっただけのもじゃには、実は憧れていた職業があった。それが“声優”だ。きっかけは、名作映画を放送する『金曜ロードショー』。

「中学生のころ、スタジオジブリのアニメを『金曜ロードショー』で見てたんです。特に『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』が好きでした。『魔女の宅急便』の主人公は当時の自分と同じ13歳だったので、“私も魔女になりたい!”って思ってました。そのときに、どうやらアニメの裏側には、キャラクターの声を演じる声優という職業があるらしいというのを知りまして。“すごく面白そうだから、私もなりたい!”って急に思ったんです。それまでは、大人になったら何になりたいとかはなかったんですけどね」

人前に出ていって何かをするというタイプではなかったシャイガールだが、想いはかなり強かった。

「自分の人生ではなることはないだろうな、という人になりたい……やるならそんな役をやりたいという憧れが、ずっとあるんですね。変身願望というか。だから今も、ネタで派手な衣装を着て変わった人を演じるのが好きで。その変身願望は、中学当時にアニメのキャラクターを見たことで、急に湧いてきたんでしょうね」

そこからもじゃは、両親に声優になりたい気持ちを訴えた。

「人見知りのくせに、中学を卒業したらすぐに声優になりたいと親に言いました。きっとビックリしてたんじゃないかなと思いますね。でもさすがに親も、『高校ぐらいは卒業しなさい!』って。仕方なく地元の高校に入った感じですね」

声優のほかにも、変身願望を叶えてくれる職業として、“アイドル”に憧れた時期もあったそうだ。

「『ダウンタウンのごっつええ感じ』に出ていた篠原涼子さんとか、『ASAYAN』で見たモーニング娘。さんとか。私、なっち(安倍なつみ)さんたちと同い年なんで、同年代がアイドルやってる! という憧れはありましたね。でも既に自分は小太リだったし、中学の部活も柔道部で。さすがにアイドルはちょっと無理だなと思いまして(笑)」

なるなら声優が良いと思いつづけていた

変身願望を心に秘めて中高時代を過ごしたもじゃ。当時、将来像として芸人の“げ”の字も思わなかったと言うが、よくよく聞いてみると、気の合う友人同士と面白いことをやるのは好きだったようだ。

「学校では全然目立つ存在じゃなかったですけど、中学時代とかは、ヘンな子が集まって密かに面白いことをやるグループにはいました。友達の写真集を作ったりとか、近所をうろうろしていた『家なき子』のドラマに出てきたのと同じ犬種の野良犬を見付けて、名前を付けたり世話したりして、みんなで飼ったつもりになってみたりとか(笑)。変身願望もそうですけど、私、いろんなことを妄想するのが大好きなので、似たような友達が集まってきて、ヘンな遊びをよくやってましたね」

その“ヘンな遊び”と妄想力が、のちの芸人人生への布石だったのだろう……とは今だから言えることで、親に説得されて仕方なく、地元で普通の高校生になったもじゃは、声優になる夢を3年経っても諦めることはなかった。

「声優熱は冷めなかったんですよ。だからといって、高校の間に演劇をやるとか、ボイストレーニングをやってみるとか、何か特別な勉強をしたわけでもなく、普通に過ごしていたんですけどね(苦笑)。成績は悪くなかったんで、高校の先生からは大学進学も勧められましたけど、それもあんまり興味が湧かなくて。こう見えて、結構、勉強好きだったんですよ(笑)。だけど、大学に行ってまで何かやりたいこともないしなぁと思って、やっぱり、なるなら声優が良いなと思いつづけてはいました」

そこで彼女が選んだ進路が、声優の勉強ができる東京の専門学校。人気声優を多数輩出している東京アナウンス学院の放送声優科(現・声優科)だった。

「……といっても、自分でいろいろ調べてそこに決めました、という感じでもなくて。たまたま東京アナウンス学院に行こうとしていた友達がいて、話を聞いたら、いろんな科があってそのなかに声優科もあった。じゃあ、私もそこにしよう! って感じなんで、本当になんかこう……他人任せというか。資料請求とかも友達任せでしたね(苦笑)」

幸いなことに、もじゃの両親は「いざとなれば東京には親戚もいるし、あなたが好きなことをやりなさい」と、快く娘の上京を許してくれたそうだ。そんなこんなで無事、東京でひとり暮らしを始め、東京アナウンス学院声優科で勉強していたもじゃだったが、1年目の終わり、思わぬ転機が訪れる。

「1年の集大成みたいな発表会があるんですけど、声優も役者なので、舞台で演劇をやらされたんです。それまで授業で声のお芝居は習いましたけど、生まれて初めて生の演劇、舞台でのお芝居を経験して……面白かったんです! “あれ? 今まで声優になるつもりだったけど、お芝居って面白いな!”と思っちゃったんですよ。東京アナウンス学院は、1年から2年にあがるときに、もう一度、学科の選び直しができる仕組みだったんです。そこで私は、演劇がすごく楽しかったという理由だけで、声優科を辞めて演技科に行っちゃいました」

声優になりたい! のときもそうだったが……。

「私、人からは真面目そうに見られるんですけど、結構ノリとパッションで決めちゃうタイプで。そのときに“イイな!”と思ったら、先のことは考えず、ついそっちに行っちゃうんですよね~(笑)」

木魚をポクポク叩きながら歌って合格

わずか1年で、声優から舞台役者志望へと夢を切り替えたもじゃ。そこからは演技の経験を積んでいった。

「学校での勉強のほかに、演劇サークルみたいなのにも入って、野田秀樹さんの作品をやったりしてましたね。演技科の発表会でも、キャラメルボックスさんのちょっとコミカルな作品をやったりして、ますます“お芝居楽しいな”となりまして。いつの間にか、舞台役者になりたいと思うようになりました」

そのころ、東京アナウンス学院の卒業を間近に控えて、学校ではさまざまな劇団やプロダクションが集まる説明会が開かれた。

「そのなかに、三宅裕司さん主宰の劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)があったんです。私、全然世間知らずだったんで、詳しく存じあげなかったんですけど、お笑いの勉強もできるし、ダンスも殺陣も演技も何でもやれる劇団だとわかって、そんなに充実してるんだったらお得だなと思って、SETの養成所のオーディションを受けようと思ったんです」

SETと言えば、その真骨頂はエンタテインメント性の高い“ミュージカル・アクション・コメディ”。養成所のオーディションも、芝居だけでなく歌とダンスも必須項目だった。学生時代に水泳や柔道はやっていたものの、運動神経にさほど自信があるわけでもなく、ダンスは未経験。歌もそれほどうまいわけでもなかったというもじゃだが……。

「なんか……また勢いで行っちゃったんですよね(笑)。歌の試験も課題曲がいくつかあって、そこから1曲歌うんですけど、選んだのがZONEの『secret base ~君がくれたもの~』で。あの曲って、静かなイントロにチッチッチッって感じの伴奏が入るじゃないですか。どう歌ったら良いのかもよくわからなかったから、家から木魚みたいなのを持ってって、ポクポク叩きながら歌ったんですよ(笑)。ダンスも、音楽に合わせて自由に踊れば良いって言われたんですけど、それもよくわからなくて適当にやってたら……なんか受かっちゃって。え? え? え? って感じでした(笑)」

その養成所で、1年間、殺陣やアクション、ダンスに歌と、エンタテインメントに必要なスキルを幅広く学んだもじゃ。

「一生懸命やるということを、そこで初めて覚えた気がしますね。で、1年の終わりにまた発表会があって、そこで何人かが正式な劇団員に選ばれるんですよ。でもそのときに劇団が欲しかった人材が“背の高いイケメン”だったらしく、私なんかもう全然ダメで。結局、劇団には入れず。でもお芝居はつづけたかったから、新宿歌舞伎町のドン・キホーテでアルバイトしながら、フリーで役者を始めたんです」

後編につづく

文・取材:阿部美香

関連サイト

公式サイト
https://sma-owarai.com/s/beachv/artist/n059?ima=1301(新しいタブで開く)
 
Twitter
https://twitter.com/Moja0419(新しいタブで開く)
 
YouTube「もじゃちゃんねる」
https://www.youtube.com/channel/UCtEhWhz_hZkC1ORofqnv4KQ(新しいタブで開く)
 
YouTube「もじゃ&あっぱれ婦人会の【もじゃぱれ婦人会】」
https://www.youtube.com/channel/UC5DiffbDh9i9W9W-yJn-BNA(新しいタブで開く)

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