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連載Cocotame Series

芸人の笑像

しゃばぞう:おじさん、おばさん、コバナシアキラ。変幻自在のキャラをライブで磨きあげる【前編】

2022.11.30

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第18回は、現在48歳、世間に定着しつつある“SMA芸人”のイメージに合致するおじさん芸人のひとり、しゃばぞう。自身が生んだいくつもの個性的なキャラクターで、ライブ会場を沸かせつづけているベテラン芸人だ。2021年は、マツモトクラブ、もじゃとのユニット、マンプクトリオで『キングオブコント』の準決勝にも進出。芸歴20年を超えた孤高のピン芸人のこれまでと、現在の心境を聞く。

前編では、お笑い界に足を踏み入れたきっかけからSMA所属前夜までの紆余曲折を語る。

  • しゃばぞう

    Shabazou

    1974年7月7日生まれ。埼玉県出身。血液型B型。身長177㎝。体重98㎏。趣味:オートレース、読書。特技:料理、オートレース予想。

高2で中退して、ずっとフラフラしてた

SMAのピン芸人は、個性派の宝庫だ。ハリウッドザコシショウ、コウメ太夫、マツモトクラブ、野田ちゃん、AMEMIYA、アキラ100%、SAKURAI、やす子、もじゃ……などなど、これまで本連載に登場したピン芸人は、誰もが強烈な個性を放っている。そんななかで、“おやじキャラ”を追求し、精力的にライブに出演しつづけている芸人がいる。その名は、しゃばぞう。2022年11月だけを見ても、事務所ライブを含めたイベントライブへの出演は11本。少なくとも3日に一度は舞台に立っている計算になる。25年を超える芸歴があり、ピン芸人になってからも約15年が経つベテランおやじ芸人だが、そのバイタリティは尽きることがない。

そんなしゃばぞうは、1974年生まれ、埼玉県出身の現在48歳だ。

「僕が育ったのは埼玉県なんですけど、隣はすぐ群馬県で、すごい田舎なんです。美里町(みさとまち)っていうんですけどね。埼玉には同じ“みさと”って読む三郷市ってのがありまして、そっちは栄えてる。出身地を言うとみんな三郷と勘違いするから、ここでちゃんと言っておきたいですね(笑)」

男兄弟3人の次男として生まれた彼は、「田舎だから遊ぶと言ってもそんなにやることがないから」と、子どものころからテレビでザ・ドリフターズのバラエティを見て育ち、当時、新世代の笑いを提供していたとんねるず、ダウンタウンを見て「お笑い、カッコ良い!」と憧れを抱いていたという。だが、芸人を目指そうと思ったのは22歳のときと、意外に遅い。それまで何をしていたのかと聞くと、「フラフラしてましたね~、ガハハ!」と、自身のネタのおやじキャラ、“横山一郎”そのままのクシャッとした笑顔を向ける。

「学生時代は、なりたいものとか、全然なかったんですよ。勉強もしたくないから、高校も1年行ってもう全然通わなくなりましたしね。担任がすごく理解のある先生だったんで2年生にはあげてくれたんですけど、友達もみんな高校を辞めちゃうし、僕もつまんなくなっちゃって、高2で中退しました。だからといって、家でひきこもっていたわけでもなく、ほんと“ずっとフラフラしてた”としか言いようがない。それでも家族や親戚も何も言わなくてね。兄弟の上と下はしっかりしてたけど、俺だけちゃんとしてなくて。出来の悪い子ほどかわいいって言いますけど、相当甘やかされて育ってきました。この年でいまだに、おばあちゃんや親戚のおばちゃんが、お小遣いくれますからね(笑)」

高校中退後、実家暮らしでずっとフラフラしていたしゃばぞうが、一念発起したのは22歳のとき。中学時代のお笑い好きの同級生に誘われて「コンビのようなもの」を組み、芸人になろう! と東京に出て、ふたりで暮らし始めた。

「芸人には、ずっと憧れはあったんです。当時は『ボキャブラ天国』とか有吉(弘行)さんが猿岩石でヒッチハイクしてた『進め!電波少年』とかが流行ってたのかな? そういう番組ももちろん見ててカッコ良いなと思っていたし。そもそも、人を笑わせることは、小学生のころからずっとやってましたから。

今でも覚えてるんですよ。僕が人を笑わせたいと思ったきっかけが、小学2年生のときにあるんです。社会の授業中に、教科書にみかん工場の作業ラインでおばさんが働いている写真が載ってまして。で、隣の席のユウイチ君に、こそっと『このおばさん、みかん食べちゃってんじゃないの?』みたいなことを言ったら、ユウイチくんが大声でクラス中にそれを伝えて、大爆笑がドカーン! と。そっからもう、面白スターでしたし、その快感がずっと忘れられなくて、結局、芸人やってみようと思ったんですよね」

『女子高生に人気のあるヤツなんてくだらねぇ!』と思ってた

芸人になった人は、ふたつのタイプに分かれるというのは、よく聞く話だ。ひとつは、友達同士の仲間ウチだけを密かに笑わせてきたタイプ。もうひとつは、最初からクラスの人気者として、集団の中心で人を笑わせてきたタイプだ。しゃばぞうは、まさに後者だったそうだ。

「芸人仲間でも、よくクラスの隅っこで笑いを取ってたっていう人がいるけど、俺は全然、ど真ん中でした。“Aクラス”ですよね。よく平井(精一/SMA芸人部門・部長)さんが言うんですよ。お笑い芸人に、昔からAクラスだったヤツはいないって。みんなBクラスのヤツらだって。だからね、今さら平井さんには言えないんです、僕、実はAクラスでした! って(笑)。そういや、一緒に上京した最初の相方は、僕とは正反対のBクラスの面白いヤツ。だからコンビを組んだらもっと面白くなると思ったんですよね」

だが、そのBクラスの相方と本格的にネタを作って、どこかの事務所に売り込みに行こうとしていた矢先、相方がお笑いよりほかにやりたいことがあると言い出し、活動スタート前にコンビは解散の憂き目を見る。

「コンビでやっていくつもりだったのに、いきなりピンになっちゃったんですよね。もう東京に出てきちゃってるし、さてどうしようと。今思えば、そこでお笑い養成所とかに入って少しは勉強すれば良かったんですけど、当時は吉本興業の養成所・NSCも、人力舎の養成所も、数十万の入学金が必要だった。しかも僕なんかは、ダウンタウンさんのような尖ったお笑いに憧れていたから、『学校なんて行ったって意味ないだろ!』とも思ってましたしね」

養成所に入るのはダサイという気持ちと、入所金がないという理由が重なり、進路に悩んでいたしゃばぞうは、ある日、情報誌『ぴあ』を読んでいて、あるお笑い事務所の名前を見付ける。それが石井光三オフィスだった。

「石井光三オフィスでは、ひと月500円でお笑いの勉強会をやっていると書いてあったんですよ。500円なら払えるぞ! と応募して、作家さんにネタ見せのようなことをやっていたら、なんかわからないけど石井光三オフィスの“預かり”ということで、なんとなく事務所に入れてもらえた。それが23歳ぐらいのことで、そこから36歳ごろまでの13年ぐらい、石井光三オフィスにお世話になりました。そのうちの7年間ぐらいは、いろいろコンビを組んでは漫才をやったりコントをやったりしてました。そう言えば石井光三オフィス時代に、ひとつビックリしたことがあって。最初は“預かり”だったけど、長くいれば自然に正式な所属になっていくもんだと思ってたんですね。そしたら、10年くらい経ったころかな? マネージャーが急に『正所属になって良かったね』って言ってきて。俺、10年間も正規の所属じゃなかったんだと(笑)。預かりって便利な言葉ですよ!」

石井光三オフィス時代は、数組のコンビを経験したという。

「上京したときの最初の相方と、のちにもう一度コンビを組んだりもしましたけど、それもダメで。それで事務所に、もともとヘビメタ歌手になりたくて九州から上京してたマツモトさんという人とコンビを組まされたりしてました(笑)。一番長くつづいた相方は、今、吉本興業にいるアイパー滝沢(元・えんにち)ですかね。彼はもともと地元が一緒。僕と同じようにフラフラしてたんで、僕が東京に呼び寄せてふたりで漫才をやってたんですけど、まぁネタの内容も尖っていて、テレビに出してもらえるようなものではなかった。昔は、『テレビに出たり、女子高生に人気あるヤツなんてくだらねえ!』くらいに思ってましたから(笑)、当然、箸にも棒にもかからず、4~5年で解散したんです。そしたらアイパーが、芸歴も年も隠して、ゼロからNSCに入りたいと言い出して。だからコンビでやってたことも絶対言わないでくれって言うし、一緒にライブに出てた人たちにも口止めして、第二の人生を始めちゃったんですよ。まぁ、そのウソも最近やっと解禁されたからしゃべっちゃいますけど……ちょっと頭おかしいですよね(笑)」

石井社長が『お前、ピンでええやないか!』

その後しゃばぞうは、30歳でピン芸人になるのだが、それも本当に、ある偶然から生まれた転身だった。

「アイパーのあとにもうひと組、コンビを組みまして。組んで初めての事務所ライブに出ることになったんですが、その相方が家族の事情で、急に実家に帰ることになったんですよ、芸人辞めて。それがライブの1週間前ぐらい。でも、もうチラシに僕らの写真も載ってるし、事務所から『出ないとはどういうことだ』と、関係ない俺がめちゃめちゃ怒られたんですよ。で、なんかすごく腹立ってきたんで、言っちゃったんですね、『ピンで出ます!』って。そのライブで急遽考えてやったネタが、今の原型ですね。おじさんのひとりコントみたいなのを初めてやったら、まぁウケちゃった。そしたら、当時まだご健在だった石井(光三)社長が楽屋にすっ飛んできて、『お前、ピンでええやないか!』と。そこでウケたのがやっぱり快感で、そこからずっとピンでやるようになったんです」

「俺の人生、要所要所でバカみたいにウケる時期があるんです、だからお笑いは辞められない」と、しゃばぞうは笑って語る。ちなみに、現芸名の“しゃばぞう”は、そのライブ直前で消滅したコンビ名を、そのまま受け継いだものだ。由来はヤンキー用語。根性ナシで冴えない様子を、“娑婆(しゃば)い小僧”=“娑婆僧”と呼んだことから名付けられた。

「いなくなった相方と、よく『ビー・バップ・ハイスクール』ごっこをしていて、そこから付けたコンビ名でした。別にピンになっても、その名前を使おうとは思ってなかったんですけど、ピン芸人になってすぐ、本名の中島靖吾で2009年の『R-1ぐらんぷり』に出たら、すげースベったんです。ピンで本名でスベるのはさすがに嫌だなと思って、しゃばぞうを名乗ることにしました。そんなこんなで、6年くらいして石井光三オフィスを辞めて、フリーになりました。自分で単独ライブを企画したり、フリーライブに出たりしてましたね」

石井光三オフィス時代、フリー時代と、しゃばぞうは数々のライブを経験してきた。当時、一緒にライブに出ていた芸人たちとは、今でも繋がりがあると言う。

「今、アマレス兄弟をやってる竹岡(和範)さんが前に組んでいたハイエナというコンビとかと一緒に出てました。あとWコロンとはよく一緒になりましたね。だいたい、フリーのお笑いライブって若手が多いから、同じおっさんのWコロンと一緒だと、お互いホッとするんですよ(笑)。Wコロンのねづっちさんは僕より先輩ですけど、今も仲が良くてふたりで飲んだりしてます。あと、昔からよくライブに一緒に出てたのは、チャンス大城さん。大城さんは、今も昔も芸風がまったく変わってないところがすごい。漫才コンビ、米粒写経の居島一平さんが毎月29日に恒例でやっている『苦肉祭』というライブがあるんですけど、それにもう10年以上出てまして。そこでよく大城さんと一緒になるんです。俺と大城さんは出番が近いことが多くて、こっちがウケて大城さんがウケないと、夜中にすげー、訳のわからないLINEが来ますね、『悔しい!』って(笑)」

大川興業の主宰ライブにも、とても縁が深いそうだ。

「大川興業には、昔から本当にお世話になってますね。石井光三オフィス時代に、よくネタ見せに行ってて、それに受かると毎月のライブに出られるんですよ。(大川豊)総裁はずーっとなんか僕のことを面白いってほめてくれてて。石井光三オフィスを辞めたあとも、大川興業だったら出してくれるかなと思ったら、すぐライブに出してくれて。総裁が言ってくれたんですよ、『お前の立つ板だけは用意しといてやるから』って。カッコ良いですよね! 年末に、下北沢のザ・スズナリで年越しライブがあるんですけど、そこにももう10年以上出させてもらってますね。それこそ、大城さんとも一緒に」

後編につづく

文・取材:阿部美香

ライブ情報


 
「しゃばたん」
 
12月7日(水)
新宿ハイジア V1
予約・購入はこちら(新しいタブで開く)

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