イメージ画像
イメージ画像
連載Cocotame Series

芸人の笑像

宮武ぜんた:2023年『おもしろ荘』から羽ばたく新世代ピン芸人【前編】

2022.12.30

  • Twitterでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Facebookでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • LINEでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • はてなブックマークでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Pocketでこのページをシェアする(新しいタブで開く)

ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第19 回は、2023年の年明け直後、深夜0:30から放送される『おもしろ荘』で、独特のキャラネタを披露する宮武ぜんた。所属となって約8年半。コウメ太夫、ハリウッドザコシショウ、アキラ100%ら、SMAが誇る人気ピン芸人のあとにつづくべく、飛躍が期待される33歳だ。

前編では、お笑い好きだった少年がお笑い養成所の門を叩くまでの、一風変わった道のりを聞く。

  • 宮武ぜんた

    Miyatake Zenta

    1989年5月26日生まれ。埼玉県出身。血液型AB型。身長173㎝。体重83㎏。趣味:アイドル鑑賞、オシャレな写真を撮りに行く、神社めぐり、散歩。

バラエティなら『ウリナリ!!』、コント番組なら『笑う犬』

おかずクラブ、ブルゾンちえみ(現:藤原しおり)、ぺこぱ、宮下草薙、ぱーてぃーちゃんら、お茶の間には知られていなかった若手個性派芸人を次々と世に送り出すブレイク芸人の登竜門的TV番組と言えば、『ぐるぐるナインティナイン』の年末年始恒例企画としてすっかり定着した『おもしろ荘』。今年、2022年12月31日の深夜、つまり、1月1日に日付が変わってすぐの元旦、2023年最初のネクストブレイク芸人が、ここから羽ばたくことになる。

『おもしろ荘』で発掘されたSMA芸人も少なくない。2021年に第3位を獲得したやす子は、今やバラエティ番組のドッキリ企画や体当たり企画には欠かせない芸人としてブレイク。賞にはもれたが、野田ちゃんは白スーツと明るい自虐芸で注目され、2022年の『おもしろ荘 ネクストスター発掘SP』では、あっぱれ婦人会が破天荒なパフォーマンス漫才で存在感を見せつけた。

そして、2023年の『おもしろ荘』にもまたひとり、SMA芸人が出演を果たす。それが1989年生まれ、埼玉県朝霞市出身、現在33歳のピン芸人“宮武ぜんた”だ。お笑い通のなかには、約5年前、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の名物企画“大新年会 山-1グランプリ2018”で、あのダウンタウン相手に即興トークで「浜田雅功、台風来るとすぐはしゃぐ」と絶妙な毒を投げかけた“妄想悪口”ネタが話題になったことを覚えている人もいるだろう。

そんな宮武ぜんたが、お笑い芸人になることを意識したのは、小学生のころだったそうだ。

「芸人には、ずっと憧れはありましたね。小学校の卒業文集って、自分の夢みたいなのを書くじゃないですか。普通は、「僕は〇〇になりたいです!」って何か夢をひとつと、それになりたい理由を書くけど、それがイヤだったんですね。今もですけど、先生や他人から型にはめられるのが嫌いで。なので、当時思い付いたなりたいものを、ただただ羅列して。TVのディレクターとか、なんだかんだと。その結構最初のほうに“お笑い芸人”を入れてました」

当時、幼い宮武少年の心を掴んでいたお笑い芸人の筆頭は、ウッチャンナンチャン。彼が7歳のころにスタートした『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』は、宮武ぜんたのお笑いのルーツとなったバラエティ番組だ。

「うちの母親がいわゆる“教育ママ”で、とにかく子どもを良い大学に行かせたい! という人だったんですよ。だからゲームをする時間も決められていたし、夜も早く寝ろと言われて、テレビもそんなに見させてもらえなかった。ただ、ウッチャンナンチャンの番組だけはOKだったので、バラエティなら『ウリナリ!!』、コント番組なら『笑う犬』を毎週楽しみにしてました。そのうち、高学年になって『爆笑オンエアバトル』を偶然見る機会があって、そこで、コントとは違う、“漫才”というものを初めて知るんです。それが飛石連休さんのネタで、テレビの前で母親と『この面白いのは何?』『これは漫才って言うんだよ』という会話をしたのを、今でも覚えてます」

娯楽の少ない少年時代を過ごしていた宮武ぜんたにとって、テレビを通じたお笑いとの出会いは鮮烈な印象となり、どんどんハマっていったという。小学校高学年になると、2000年からスタートした『内村プロデュース』や、親の目を盗んで見ていた深夜のお笑い番組を通じて、若手芸人がブレイクしていくさまを目の当たりにした。そして彼が当時さらにハマったのが、同時期に衛星放送で始まった『ヨシモトファンダンゴTV』だった。

「うちはスカパー!にもケーブルテレビにも入ってなかったんですけど、吉本さんはいち早く、いくつかの番組をサブスク配信していたんです。無料で見られる番組もちょっとあって、そこには吉本の若手芸人がたくさん出てて、それがすごく面白くて夢中になりました。なんせうちは母親が厳しいんで、ゲームやおもちゃもあまり買ってもらえなかったし、子どもだからお小遣いも少ない。でも『ヨシモトファンダンゴTV』だけはどうしても見たくて、1年間だけという条件で加入させてもらったんです」

なかでも宮武が夢中になったのは、2003年から始まった、平日昼の生放送バラエティ『ワイ!ワイ!ワイ!』。タカアンドトシ、インパルス、ロバート、チュートリアル、笑い飯、麒麟、千鳥など、今となっては錚々たる吉本芸人が賑やかな掛け合いを繰り広げていた番組だ。そのころには、作り込んだコントや漫才の面白さは知っていた宮武だったが……。

「若手芸人たちがファンからのメールを読んだり、ゲームをやったり、ワチャワチャしているのを見て、『あっ、芸人さんってこういうものなんだ』というのがわかって、ますます面白くなりました。しかも『ワイ!ワイ!ワイ!』は時間帯が『笑っていいとも!』の真裏で、そこも良かった。収録場所が新宿のルミネtheよしもとのロビーで、タダで観覧できたんで、たまたま学校が休みの平日に、2、3回、観に行ったことがあります。当時、一番好きだったのは、曜日MCをやってたチャイルドマシーンさん。残念ながら、2004年に解散しちゃいましたけど、初めて買ったお笑いDVDもチャイルドマシーンさんの解散ライブ『ぜろ』でした。そこから、芸人の深夜ラジオとかも聴くようになり、基本的に1日中、お笑いを見たり聞いたりする生活がつづいてました」

芸人以外にもやりたいことがいっぱいあった

お笑い大好き少年で、芸人にも憧れていた宮武ぜんた。そういうことであれば、通常、高校卒業後にお笑い養成所の門を叩いて……となりそうなものだが、その進路は選ばなかった。母親の期待に応える気持ちもあったのか、高校は全国でも有数の進学校として知られる川越東高校の理数コースに進み、その後、明治大学経営学部に進学する。

「芸人以外にも、とにかくやりたいことがいっぱいあったんです。例の卒業文集に羅列したように、なりたいものがたくさんあって。大学で経営学部を選んだのも、それに関係していて」

夢多き18歳の宮武が、当時一番なりたかったもの。それは……。

「“社長”です(笑)。基本的に、あくせく働かないでお金がもらえるようになりたかったんですよね(苦笑)。それがあったから、経営学部に行けば起業だとか会社経営のノウハウが学べるんじゃないかと思ったんですけど……途中でどうやらそうじゃないと気付きました(笑)。でも在学中に、僕と同じように『社長になりたい』って言っていた高校時代の友人と一緒に起業して、当時流行っていたパシュミナ(インド、ネパール地方の伝統的なストール/ショール織物)を輸入販売する小さな通販会社を2、3年やったりしました。まぁ、それが長つづきしなかったのは、僕の力が足りなかったせいもあったんですけど。結局、収支はトントンかちょいマイナスくらいで終われたので、良い勉強にはなったかな」

そんなプチ起業で社長業の難しさも痛感。ビジネス関係のNPO法人にも参加していた宮武は、自分と同じように起業家を目指す学生たちと交流するうちに「社長はちょっと無理かな」と思うようになった。そうこうするうちに大学生活も終わりが近づく。卒業後の進路として、起業という選択肢を諦めた宮武は、就職活動を始めた。

「社長がダメなら、やっぱり昔から好きだったエンタメ業界を目指すかなと。そこで悩んだのが、芸人のように“人前に出る側”になるか、裏に回って“作る側”になるか。出る側には夢を持ってましたけど、子ども時代に夢中になったような面白いテレビ番組を作る側にも、すごく憧れてました。なので、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビ、テレビ東京の在京キー局5社は受けたんですよ。まぁ、結局全部落ちましたけどね。日テレの面接では、間違えてテレビ朝日って言っちゃったし(笑)、TBSのグループ面接では面接官の方の意向と僕の考えの方向性が明らかに合わなかったりして(苦笑)」

テレビ局の就職試験が全滅したのは、大学3年の秋のこと。

「“作る側”がダメだとわかったので、“出る側”=芸人になるしかないなと、そこで決めました。高校から大学時代も東京吉本芸人好きに変わりはなくて、勝ちあがりコンテスト形式の『AGE AGE LIVE』というシリーズライブのネット無料配信を全部見てたり、なんだかんだお笑いは好きで。でも、大学の勉強はちゃんとやってなかったんで、単位はギリギリ。まずは卒業が先決だと、4年生のときはすごく真面目に大学に通いましたね」

イキリがちなところは今も変わらない

昨今のお笑い業界には、同じSMA所属で宮武の友人でもあるスタミナパン・トシダタカヒデのように、大学のお笑いサークル出身の芸人も増えている。お笑い好きなら、明治大学のお笑いサークルに入る手もあったのでは? と聞いてみると……。

「あ、はいはい。確かにお笑いサークルに入ることも最初は考えました。新入生は大学を歩いてるといろんなサークルから『新歓コンパに来てみないか?』と勧誘されるんですけど、そのなかにお笑いサークルもあって。大学で僕の1年先輩の芸人に、今、ケイダッシュステージに所属しているサツマカワRPGさんがいるんですけど、たぶん、そのサツマカワさんがいたお笑いサークルだと思います。ただ、ノリがちょっと苦手だったんで、お笑いサークルに入るのはやめました。それで、いわゆるあんまりテニスはやらないテニスサークルに入ったり、自分でも、建物のなかを暗くして鬼ごっこをするっていう“忍者サークル”というものを立ちあげたりして。鬼ごっこは1回もやらなかったですけど、まぁ飲み会は盛りあがりましたよね(笑)」

学生起業、サークルコンパ、就活はテレビ局……と聞くと、ちょっとチャラくて“いかにも”な陽キャ大学生がイメージされる。

「いや~、陽キャでもないし、テニスサークルにも結局馴染めなかったし、あんまり上手に大学生活を送れたわけでもなかったですよ。基本的には陰キャだけど、ポイントポイントで何かやらかしてるっていうだけ。ただ小さいころから、みんなと同じことをしたり、押し付けられるのが嫌いなので、ついイキっちゃう(苦笑)。そういう、ちょっとイキリがちなところは、今も変わらないです(笑)」

留年ギリギリだった単位も大学4年で取りきり、なんとか明治大学を卒業できた宮武は、ようやくここで、子ども時代からの夢のひとつだった“芸人になる!”を実現すべく、アクセルを踏み込んだ。まず手始めに実行したのは、お笑い養成所の門を叩くこと。選んだのは、宮下草薙や青色1号、ストレッチーズなどを輩出する、太田プロダクションが運営する、太田プロエンタテイメント学院(現:太田プロエンターテインメントカレッジ)。東京吉本好きを自認していた宮武なのに、吉本興業の養成所・NSCではなく、選んだのは太田プロダクションの養成所だった。

「吉本が好きすぎたんですね。大学生になっても好きな人のライブは観に行ってましたけど……正直、僕が好きな芸人は、すごく上の人ってわけでもないから、ここで自分が吉本に入ってしまったら、会えちゃうじゃないですか。実際、僕が中学生時代に大好きだった『ワイ!ワイ!ワイ!』にアシスタントとして出演していて、すごく憧れていたピースさんやノブコブ(平成ノブシコブシ)さんらは若手のライブにまだ全然出てたんで。ここでNSCを選んで憧れの芸人さんに会えちゃったら、満足して、芸人辞めちゃう可能性すらある。だから養成所は絶対に、吉本以外にしたかったんです」

後編につづく

文・取材:阿部美香

連載芸人の笑像

  • Sony Music | Tech Blogバナー

公式SNSをフォロー

ソニーミュージック公式SNSをフォローして
Cocotameの最新情報をチェック!