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連載Cocotame Series

Tech Stories~技術でエンタメを支える人々~

良い音でなければ世に出さない――覚悟を決めて挑んだ『MDR-M1ST』開発秘話【前編】

2019.09.09

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レコーディングスタジオをはじめ、音作りのプロたちが自らの仕事を磨き、音楽を仕上げるために使用するモニターヘッドホン。そんなプロ御用達のヘッドホンに、新たなモデルが加わった。それがソニーとソニー・ミュージックスタジオが共同で開発した『MDR-M1ST』だ。

ハイレゾ音源にも対応し、これからの音楽制作に必須の新世代ツール。その誕生の裏側には約4年半もの歳月をかけて音を作り込んでいったエンジニアたちの姿があった――。

テクノロジーでエンタテインメントを支える人々を追う連載企画「Tech Stories」では、『MDR-M1ST』の企画・開発から製品化に至るまで、携わった者たちの証言から新時代のリファレンスサウンドに求められた音の輪郭を明確にする。

連載2回目は『MDR-M1ST』の開発中心メンバーに集まってもらい、モニターヘッドホンというプロの仕事道具であるからこその特殊な開発フローや、関係者たちの飽くなき音へのこだわりを紐解いていく。

    • 投野耕治氏

      Nageno Koji

      ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ

    • 潮見俊輔氏

      Shiomi Syunsuke

      ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ

    • 松尾伴大氏

      Matsuo Tomohiro

      ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ

    • 松尾順二

      Matsuo Junji

      ソニー・ミュージックソリューションズ
      ソニー・ミュージックスタジオ レコーディングエンジニア

ソニーには、こんなにマニアックでおもしろい仕事があった

誕生から30年以上が経過した今も、プロの現場で愛用されているモニターヘッドホン『MDR-CD900ST』。この銘機を開発したソニーの投野耕治は、「後進たちに『MDR-CD900ST』の次のモニターヘッドホンにチャレンジしてみたら? とずっと言い続けていました」と語る。

レコーディングにおける技術の進歩だけでなく、ストリーミングやハイレゾなどフォーマットの拡張にも対応するモニターヘッドホンの開発は、すなわちソニーの音の技術の進化と継承でもある。モニターヘッドホンと言えば『MDR-CD900ST』という時代が長年続いてきたわけだが、実はその間にもソニー内で新しいモニターヘッドホンの開発企画は何度か浮上していたという。しかし、そのどれもが製品化には至らなかった。理由は明快で『MDR-CD900ST』は、現在においてもプロたちの要望に応える音響性能を有しており、その耳に馴染んだ仕事道具を変えるだけの理由が見つからなかったからだ。

つまり、求められていたのは『MDR-CD900ST』の後継モデルではなく、ハイレゾを軸とした次世代フォーマットへの対応をベースに、新たな音のベクトルを指し示すまったく新しいモニターヘッドホンだった――。

スタジオエンジニアをはじめとしたプロの耳を納得させる音を、業界ではレジェンドと謳われるようなモニターヘッドホン開発の先駆者の傍で作る。このなかなか大きな壁に対峙した、何度目かの挑戦者が『MDR-M1ST』の音響設計を担当した潮見俊輔である。

潮見は学生時代、大学院で電化製品をはじめとしたさまざま工業製品に使われる微細な電気機械システム「MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)」を研究していたが、あるTV番組を観たことがきっかけになってソニーのヘッドホン開発者を志すようになる。潮見は当時を振り返りつつ、その志望動機のひとつとして“耳型職人”という特異な仕事を挙げた。

「こんなにマニアックで、おもしろい仕事がソニーにはあるんだと驚きました。」(潮見)

ヘッドホンの性能を大きく左右する音質と装着性。互いに密接な関係にあり、装着性が変われば音質も変化する。その装着性を向上させるために、ソニーでは多くの人たちの耳型を利用して製品開発を行なうのだが、この耳型を採取するのが耳型職人だ。

『MDR-CD900ST』の開発者である投野は耳型職人の2代目であり、潮見がソニーを志したときは5代目となる松尾伴大が務めていた。松尾(伴)はライブやポータブルユースでの使用を想定して、2011年に発売されたインイヤーモニター『MDR-EX800ST』の音響設計を担当した人物でもある。彼が耳型の採取に勤しみ、ヘッドホン開発に心血を注いでいる様を取り上げた番組を潮見は目にしたのだった。
 

ソニーのヘッドホン開発者の間で代々受け継がれてきた“耳型職人”とは?

耳型職人は、ソニーのヘッドホン開発者の間で代々受け継がれてきた活動。人によって千差万別である耳の形をシリコンでかたどり、ヘッドホンの快適な装着性を実現するためにデータを取って資料化を行なう。耳型採取の伝統は40年も継承されており、採取技術もその活用法も進化し続けているという。『MDR-M1ST』の開発者である潮見が6代目を襲名し、現在もその活動は続けられている。

音楽を愛するエンジニアが新モニターヘッドホンに挑む

「自分の仕事がソニーでヘッドホンを開発したいという彼の動機のひとつになったのは、気恥ずかしさもありますが、単純にうれしかったですね」と語る松尾(伴)。そんな彼に、潮見のエンジニアとしての気質を聞いてみた。

「僕はクラブでDJをやるくらい音楽が好きなんですが、潮見もものすごく音楽が好きで、そういう人間が理想のヘッドホンを作りたいと言っていることに共感しました。ただ、エンジニアとしてのタイプはちょっと違っていて、彼は周囲の空気に合わせず、しっかりと自分の意志を貫く強さがありますね。」

大学院でMEMSの研究をしていた学生が、たまたま目にしたテレビ番組に触発されてソニーのヘッドホン開発者を志し、それを貫徹させてしまうのだから松尾(伴)の指摘もうなずける。そして、松尾(伴)はエンジニアにはその気質こそが大事だと語る。

「自分の意志を貫くというのはエンジニアにとって非常に大事な資質だと思っていて、彼自身が自分のやりたいことを突き進める姿勢を見せていることがすばらしいと思いますし、そういう強さは自分にはないところなので、うらやましいなとも感じます。そして、それくらい肝が据わっていなければ『MDR-CD900ST』の横に並べられる新しいモニターヘッドホンは手がけられなかったのではないかと思います。」(松尾伴大)

31年間、後進にモニターヘッドホンへのチャレンジを奨め続け、新しいモニターヘッドホンの誕生を心待ちにしていた投野にも潮見の人物像を聞いてみた。

「彼は開発も含めて、物事を直感力で進めていくタイプだと思います。そしてそれが『MDR-M1ST』の開発では功を奏したと感じます。彼の野生の勘とも言える感性が推進力となって、結果的に完成まで辿り着いたのではないでしょうか。」(投野)

新世代の音に対応したツールを選択肢に加える

理想とする音に向かってまっすぐに突き進んでいくタイプのエンジニア。潮見に改めて『MDR-M1ST』の開発に手を挙げた理由を聞いてみた。

「励まされたり、救われたり、音楽はいつも僕の人生の傍にありました。その音楽に対して、自分の力が何らかの形で還元できるならチャレンジしてみたいなと。」(潮見)

今回の一連の取材で、3種のモニターヘッドホンの開発者、それぞれに話を聞くことができた。振り返ってみれば『MDR-CD900ST』の投野は管楽器の奏者、『MDR-EX800ST』の松尾はクラブDJというバックグラウンドを持ち、『MDR-M1ST』を開発した潮見も自ら作った楽曲で弾き語りをする音楽活動を行なっているという。エンジニアである前に、純粋な音楽好きであり、音楽をどう楽しく聴くことができるかという感覚を彼らは共有している。

「ソニーは、2013年にヘッドホンにおけるハイレゾへの本格対応を標榜しました。当時ハイレゾに対応したヘッドホン『MDR-1A』(2014年発売)の音響設計を私が担当させてもらったのですが、ハイレゾの高音質フォーマットが普及し、ハイレゾに対応するコンシューマー向けのハードも多く発売されているにも関わらず、音楽を生み出す現場、レコーディング・スタジオで使われているのは、いまだに『MDR-CD900ST』一択という状況。ハイレゾ音源の制作が当たり前になっているのだから、選択肢を増やす意味でも、今の技術から新しいモニターヘッドホンが作れないかという想いが浮かびました。」(潮見)

音楽が生まれる瞬間に立ち会うヘッドホンを自分が開発すると意気込んで潮見が向かった先は、『MDR-CD900ST』のときと同じく、ソニー・ミュージックスタジオだった――。
 

ソニーとソニー・ミュージックスタジオが共同開発したモニターヘッドホンシリーズ

MDR-CD900ST(1988年)
音響設計者:投野耕治

ソニーとソニー・ミュージックスタジオが共同で開発したモニターヘッドホン。1988年に、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の六本木スタジオと信濃町スタジオで使用されることを目的として『MDR-CD900CBS』という型番で登場。その後、スタジオ業務用専売機として1989年に『MDR-CD900ST』に改番して発売された。一般販売は、1995年から開始されている。
 
MDR-EX800ST(2011年)
音響設計者:松尾伴大

2011年に発売されたインイヤータイプのモニターヘッドホン。DTM(デスク・トップ・ミュージック)など、音楽の制作環境がどんどん変化していくなかで、より手軽に、ポータブル環境においてもモニターヘッドホンを求める声に応じて松尾伴大が企画。ほかのモデルと同様、ソニー・ミュージックスタジオのエンジニアとの共同開発で、3年半の月日をかけて完成された。
 
MDR-M1ST(2019年)
音響設計者:潮見俊輔

圧倒的な音の情報量で楽曲に込められた細部の情感まで表現するハイレゾ音源。一般的にも注目度が高まったころから、潮見とソニー・ミュージックスタジオの松尾順二たちの間で開発がスタート。4年半の歳月をかけて完成した。一般への発売は2019年8月23日からだが、ソニー・ミュージックスタジオでは先行して6月末より導入され、すでに複数のアーティストがレコーディングなどで活用している。現場での評価は上々とのことだ。

「良いものでなければ世には出さない」という覚悟

“ハイレゾ音源もしっかりと鳴らし切る新しいモニターヘッドホンを作りたい”。

潮見のこの想いを受け止めたのは、ソニー・ミュージックスタジオでレコーディングエンジニアを務める松尾順二だった。ソニー・ミュージックエンタテインメントの前身、CBS・ソニー時代から稼働していた六本木スタジオ、信濃町スタジオでキャリアをスタートさせ、40年近く音楽が生み出される現場に立ち会ってきたスタジオエンジニアのプロフェッショナルである。

「近年、ヘッドホンの性能がどんどん良くなっていることは我々もわかっていました。だから、これから先の音楽制作を見据えた新しいモニターヘッドホンができるなら、ぜひ聴いてみたいと思っていたんです。ただ同時に、『MDR-CD900ST』という30年以上耳に馴染んだものがあるなかで、これに比肩するようなものが簡単に作れるとも思っていませんでした。なので、最初に潮見さんからお話をいただいたときも、実用化や商品化はさておき、とりあえずやってみようかという軽い感じで、定期的なミーティングをスタートさせました。」(松尾順二)

こうして『MDR-CD900ST』とは異なる音の志向で、新世代を担うモニターヘッドホンの開発が始まった。この時点では、最終的に形になるかどうかもわからない状態でありながら、互いにスケジュールの合間を縫って理想とするモニターヘッドホン像について膝を突き合わせながら語り合ったという。その上で、松尾(順)が潮見に最初から伝えていた覚悟がある。

「良いものができなかったら、どういう状況であれ出すのはやめよう。」(松尾順二)

今回の新世代モニターヘッドホンの開発ミッションで重要なのは、最新の音源フォーマットであるハイレゾ音源に対応すること。つまり、従来の『MDR-CD900ST』ではスペック上対応できていない、超高音域の周波数帯域を含めた音域の拡張が重要なポイントになる。ただ数値を拡げるだけならば、素材も技術も進化した現在ならたやすいこと。『MDR-CD900ST』というお手本もあるのだから、これをベースに音響特性を深化させればいいのではないかと素人考えが浮かぶ。そして、実際にそれは開発初期段階で行なわれていたという。

「『MDR-CD900ST』を改造することから始めてみました。スペック上は対応してない『MDR-CD900ST』をハイレゾ対応にさせてみたんです。」(潮見)

「『MDR-CD900ST』を無理やりにでもハイレゾ対応にしたら、どうなるかを確かめてみたくて僕が頼んだんです。でも、一聴してこれは我々が目指す音じゃないということがわかりました。我々が求めているのは、ただハイレゾに対応したモニターヘッドホンじゃない。それなら作る必要がないという話を潮見さんとしましたね。」(松尾順二)

スタジオエンジニアが求めた音のニュアンスとは?

お互いが納得できる音ができなければ世には出さない。『MDR-CD900ST』とは異なるアプローチで、ハイレゾにも対応した新世代モニターヘッドホンを作る。両者にふたつの共通認識ができたことで、徐々に開発の熱が高まっていった。

「手探りの試作を何度か行ないましたが、なかなかうまくいきませんでしたね。そこで当時私が開発に携わり、既に発売されていたハイレゾ対応リスニング用ヘッドホン『MDR-1A』で得たノウハウを元に、ゼロベースで音を作り直したほうが良いのではないかということになりました。そこからは試作して松尾さんに聴いてもらって、インプレッションをもらい、調整してまた聴いてもらうということを繰り返していきました。そうこうするうちに乃木坂のソニー・ミュージックスタジオとオフィスを行き来する時間がもったいなくなって、工具一式を持参してフィードバックをもらったその場で加工や調整をするようになりましたね。」(潮見)

『MDR-CD900ST』の開発で投野が切り拓いた道を、30年以上の時を経て潮見が辿る。『MDR-CD900ST』を開発していた投野もまた工具を片手にスタジオに居座り、調整しては聴いてもらって、どんどん音を磨き上げていった。

「私はレコーディングエンジニアでメカのプロではないので、聴いた上での印象を感覚的に表現することしかできません。こういった音の感じにして、ここは伸ばして、ここは引っ込めてといった具合でリクエストをたくさん出しましたが、正直、潮見さんは苦労したと思いますよ。」(松尾順二)

当初は松尾(順)が伝える音のイメージを具現化するのが難しかったと語る潮見だが、理想の音を求める想いは同じ。コミュニケーションを重ねれば重ねるほど相互理解が深まっていったという。また、松尾(順)は潮見に当初から必ず実現してほしい音響特性を伝えていた。

「音がひずまないこと、一つひとつの音が団子にならずに聴き分けられる分離感、そして音が瞬時に耳に届くレスポンスの高さについては、しつこく言っていましたね。それが全て高いレベルでクリアできて、初めて開発の基準になる音ができると。」(松尾順二)

プロ同士が一切の妥協を許さず、理想の音を突き詰めていく日々。気づけば、潮見が乃木坂のソニー・ミュージックスタジオに通うようになってから2年の月日が経過していた。

そして、ついにふたりが同意できる新世代モニターヘッドホンのベースとなる音が完成したのだった――。

後編につづく
文・取材:油納将志
撮影:篠田麦也

ソニーとソニー・ミュージックスタジオが共同で開発した新たなモニターヘッドホン『MDR-M1ST』

ハイレゾ音源にも対応する、新たなモニターヘッドホン。音作りのプロたちの技術の粋を結集して開発され、新世代の音作りに欠かせないツールとなる。

価格:オープン(2019年8月23日発売)

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