エルヴィス・プレスリー【後編】「歌詞で言わずとも、彼の魂が歌で語りかけてくる」
2020.08.15
ソニー・ミュージックレーベルズ 他
2020.08.14
世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。
第2回は、8月16日が命日であるエルヴィス・プレスリー。ギネス世界記録が認定した世界史上最も売れたソロアーティストであり、ザ・ビートルズ、マイケル・ジャクソン、ボブ・ディランらがその影響を受けたと公言する“キング・オブ・ロックンロール”だ。「ラヴ・ミー・テンダー」や「監獄ロック」といった楽曲を、誰しもが一度は耳にしたことがあるはず。
国内屈指のエルヴィス知識王とも言われるソニー・ミュージックアクシス(以下、AXIS)の松山卓哉と、現在ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル(以下、SMJI)で担当を務める関口茂に、没後43年の今も色あせないエルヴィス・プレスリーの魅力を語ってもらった。
前編では、彼らが実際に手がけたプロジェクトを含め、エルヴィス・プレスリー関連のさまざまな活動を振り返る。
目次
エルヴィス・プレスリー
Elvis Presley
1935年1月8日生まれ、1977年8月16日没。アメリカ・ミシシッピー州イースト・テュぺロ出身。ロックンロールの魅力を世界中に広めたと言われる“キング・オブ・ロックンロール”。また後世のポップ・ミュージックにも多くの影響を与えた存在。長いもみあげに白のジャンプスーツというスタイルでも知られている。1954年にレコード・デビュー後、「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「ラヴ・ミー・テンダー」(すべて1956年)などの楽曲が大ヒット。以降、シンガーとしてだけでなく、俳優としても多くの映画に主演した、エンタテインメント界のビッグスター。
松山卓哉
Matsuyama Takuya
ソニー・ミュージックアクシス
ビクター音楽産業株式会社、BMGビクター株式会社などを経てソニーミュージック入社。2002〜2009年まで、BMG JAPANにて洋楽ディレクターとしてエルヴィス・プレスリーを担当。小学生のときにエルヴィス・プレスリーに魅せられ、所属レコード会社への憧れから音楽業界へ。
関口 茂
Sekiguchi Shigeru
ソニー・ミュージックレーベルズ
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
株式会社BMG JAPANより、2009年にSMJIに転籍。松山卓哉の後任としてエルヴィス・プレスリーの担当に。現在、11月にリリース予定の4枚組CD『フロム・エルヴィス・イン・ナッシュヴィル』を制作中。
エルヴィス・プレスリーが1973年1月にハワイのホノルル・インターナショナル・センターで開催した慈善コンサート『アロハ・フロム・ハワイ』より。
――今回はエルヴィス・プレスリーの歴代ディレクターおふたりにお話しいただきます。まずは、2009年まで担当された松山さんに、エルヴィス・プレスリー観を伺いたいのですが。
松山:実は、小学校4年のころからファンなんです。当時ソロアーティストとしては世界初だった衛星中継ライブ『アロハ・フロム・ハワイ』が日本テレビで放送されまして、エルヴィスを知っていた兄ふたりから、「今から、世界一の歌手が歌うから黙って見ろ」と言われまして(笑)。
それを見たときから、僕のヒーローは仮面ライダーでもウルトラマンでもなく、エルヴィスになってしまいました。
――では長年の思いが通じてのエルヴィス・プレスリー担当就任だったわけですね。
松山:最初はビクター音楽産業(現・株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に就職しましたが、数年後、エルヴィスが所属するRCAレーベルを持つBMGビクターに移ることができました。
それが、RCAレコードの運命とともにライセンスする日本での会社名もどんどん変わり、気がつけばソニーミュージックに籍が移っていました。そして、現場の洋楽ディレクターとして、BMG時代の最後の最後にエルヴィスの担当になれました。
――その興奮とか責任感はどんなものでしたか?
松山:舞い上がりましたね。担当する直前に、チャート1位になった曲だけを収録したベストアルバム『ELV1S〜30ナンバー・ワン・ヒッツ』(2002年)のリリースという世界的プロジェクトがあって、担当後にはその第2弾『ELVIS 2ND TO NONE〜エルヴィス・オンリー・ワン』(2003年)があったので、第2弾というのは間違いなく売り上げは落ちるんですけど、「担当が松山になって落ちた」と言われたくはなかったので、相当頑張りました。
日本独自の企画モノとしては、『とくダネ!』の司会者、小倉智昭さん選曲のベスト盤や、小西康陽さんによる、ベスト盤とは異なる選曲のアルバムなども作りました。通好みの紙ジャケを手がけたり、さまざまなDVDを出したりと、携わっている間はもう楽しくてたまりませんでした(笑)。
――関口さんは、そんな松山さんから引き継がれて。
関口:はい。前任者が小学生のころからのファン、一方僕は、音楽体験としてはザ・ビートルズ以降なので、“務まるのかな?”と相当なプレッシャーがありました。松山さんには今でもよきアドバイザーとして、相談に乗っていただいてます。
松山:いやいや、僕のほうから首を突っ込んでる感じです(笑)。
――お仕事の内容としては、エルヴィス・プレスリーのいわゆる音楽遺産を後世に伝えていくということが大きなところだと思いますが。
関口:エルヴィスのファンクラブが催すイベントなどに足を運ぶと、リアルなファン層が60歳以上であることを目の当たりにするんです。その度に、なんとか若い層にもエルヴィスの魅力を伝えたいと思いますね。もうこれは長年の課題。そういう意味で良い動きになったのが、2018年に、ドラマ『高嶺の花』の主題歌に「ラヴ・ミー・テンダー」が起用されたことでした。
――石原さとみさん主演で話題となっていました。
関口:絶好の機会だったので、それこそ松山さんや日本のファンクラブの皆さんにもご協力いただきながら、今の若い洋楽ファンに聴いてほしい曲を選んで、『ラヴ・ミー・テンダー〜グレイテスト・ヒッツ』(2018年)というアルバムを出しました。若い層への訴求ということで、それまでやっていなかった配信やTwitterなど、デジタルの施策にも取り組みましたね。
『ラヴ・ミー・テンダー〜グレイテスト・ヒッツ』
松山:次世代への訴求という意味では、世界的に成功した例が僕が担当する直前にありました。オランダ人のミュージシャンで、音楽プロデューサーでもあるジャンキーXLがリミックスしてElvis vs JXL名義で出した「ア・リトル・レス・カンヴァセーション」(2002年)が、ナイキのCM曲になって世界的にヒットしたんです。前述の『ELVIS 2ND TO NONE〜』のタイミングで「ラバーネッキン」も国際的DJのポール・オークンフォールドによってリミックスされて、クラブなどで盛んにかけられるといった現象が起こりました。
面白いのは、その2曲が、エルヴィス・ファンに「好きな100曲を選べ」と言っても選ばない曲であること。先進のクリエイターは、長年のファンとは違う目線でエルヴィスの魅力を見出すものなんだなと感心しましたね。
先ほど言った、エルヴィスに造詣が深いと知った小西康陽さんに選曲をお願いしたのは、その流れがあったからなんです。
――2007年リリースの『レディメイド・ディグズ・エルヴィス ~小西康陽プレゼンツ』ですね。
松山:本当にファンも見逃していたような曲ばかりですが、ものすごくグルーヴ感のある1枚になりました。考えてみれば、エルヴィスの曲って正式に録音されたものだけでも700曲以上ある。まだまだダイアモンドの原石はゴロゴロ転がっているんです。
『アロハ・フロム・ハワイ』より
――ベスト盤ってひとつ作れば終わり、じゃないんですね。
松山:「2年前にも出たじゃん」と言われるかもしれないけど、聴く人たちはどんどん新しくなっていく。だから何度でも「ラヴ・ミー・テンダー」を出す意味があるわけです。一方で、ベスト盤から漏れていた曲たちの魅力も伝えていきたい。本当にどれも捨てられないですね。僕自身もかつてはあまり馴染みがなかった60年代の映画のサントラに入っている主題歌じゃない曲なども、改めて聴くと魅力的なものが多いし。
――時代、時代に何を提示すべきかを考えるというのは、ある意味の音源発掘でもありますよね。
関口:定期的に定番のものを出すことはキチッとやり続けなければいけないけど、それとともに、隠れた名曲や、再発売の機会がなかったオリジナル・アルバムなどにもスポットを当てて、今一度世に問うことも重要ですね。実際、廉価盤のシリーズなどではそういう取り組みもしています。
――世のなかとタイミングが合わなかった、という例もありますか?
関口:生誕75周年のときに『Viva エルヴィス』(2010年)というリミックス・アルバムが出たんです。当時、同名のミュージカルをやっていたシルク・ドゥ・ソレイユのプロデューサーが、“21歳のエルヴィスが21世紀にアルバムを作ったらこんな音なんじゃないか”というコンセプトで作ったもの。でも、日本では思うようには受け入れられなかったですね。
松山:そうそう。時間と労力をかけて、ちゃんとした知識のもとで作られていたんですけど、どこかやりすぎ感が否めず。
関口:「あ、こことここが繋がってる」みたいなマニアが喜ぶ面白さはあるんですけど、どう頑張っても難しかった(苦笑)。
――ブーム再燃みたいなことは世界的に繰り返されてはいますが、火がつかない場合もあるんですね。
関口:その辺は、エルヴィスに携わる世界中の人たちが試行錯誤してると思います。近年での一番の成功例は、生誕80周年記念としてリリースした『イフ・アイ・キャン・ドリーム:エルヴィス・プレスリー・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』(2015年)ですね。エルヴィスのボーカル・トラックだけを抜いて、ロイヤル・フィルがアビイ・ロード・スタジオで演奏を録り下ろすという企画で、これは全世界で150万枚、イギリスだけでも100万枚に及ぶ大ヒットとなりました。
『イフ・アイ・キャン・ドリーム:エルヴィス・プレスリー・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』
日本ではそこまでリーチはしなかったんですけど、昔からのファンにとっては、エルヴィスのボーカルのすばらしさを再確認できる良い企画だったと思います。
『アロハ・フロム・ハワイ』より
――おふたりは、実際にエルヴィス・プレスリーの身近な方に会ったことは?
関口:その『イフ・アイ・キャン・ドリーム〜』は元奥さんのプリシラさんのプロデュース作品で、アビイ・ロード・スタジオに各国の担当を呼んでのリスニング・セッションが催されたんです。もちろん、僕もこの機会を逃すまいと参加させていただきました。リスニング・セッションは第3スタジオで行なわれましたが、ビートルズがレコーディングしたことで有名な第2スタジオものぞきつつ(笑)。
翌日ホテルで各国の担当者が15分ずつプリシラさんにインタビューしたんですけど、なんとも言えないピリピリとしたムードのなかで直接お話しさせていただきました。緊張してたのであまり覚えてないんですけど、「私は彼の一番の良き理解者だった」とおっしゃってたのが印象的でしたね。
松山:「だったらなんで別れたんだよ」と言いたいよね(笑)。
関口:そうそう、ロンドンではちょうどその時期、O2アリーナで“エルヴィス・プレスリー展”が開催されていたんです。小学校時代の成績表から車、衣装など、エルヴィスのゆかりの品々を見られたのは、担当として貴重な体験でした。
松山:僕は、エルヴィスの娘で、後にマイケル・ジャクソンと結婚するリサ・マリー・プレスリーの来日公演を観たくらいで、親族にお会いしたことはないんですけど、後期のバック・ミュージシャンに、エルヴィスが最も信頼を置いたジェームス・バートンという伝説のギタリストがいまして、彼が2003年に来日したときにお会いしました。
ギターを嗜む僕にとって、もう憧れの人。だから、その機を逃してはなるまいと、ジェームス・バートンが関係する音源のCDを日本独自に出したりもしたんです。そしたら、契約上のことで僕がミスをしまして、来日中毎日会いに行っては怒られるという展開に。でも、面と向かって怒られるのが、反省している反面、内心ではすごくうれしかったんですけどね(笑)。
そんな出会いでしたが、その後も来日時には声をかけてくださいます。握手すると手がふにゃふにゃなんですよ。普通のギタリストのように指が硬くならないのは、必要以上に力を入れずに弾いているからなんだな、だからああいう軽やかなフレーズなんだな、と、思ったりしました。
文・取材:藤井美保
『フロム・エルヴィス・イン・ナッシュヴィル』の再生とプレオーダーはこちら
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