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連載Cocotame Series

担当者が語る! 洋楽レジェンドのココだけの話

ブルース・スプリングスティーン【前編】「“誠実”という言葉が一番似合うアーティスト」

2020.10.23

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世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。

今回のレジェンドは、10月23日に通算20枚目となるオリジナルアルバム『レター・トゥー・ユー』がリリースされた、“BOSS”ことブルース・スプリングスティーン。“BOSS愛”が入社のきっかけでもあると言う、ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル(以下、SMJI)白木哲也に聞く。

前編では、実際に対面したときのエピソードや、悲願でもある来日の実現を目指しての苦闘を語る。

ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)

1949年9月23日、ニュージャージー州フリーボールド生まれ。アメリカのロック界を代表する国民的アーティスト。1973年、アルバム『アズベリー・バークからの挨拶』でデビュー。1999年に「ロックの殿堂」入り。デビュー時からのバックバンド(一時解散)、Eストリート・バンドと再びタッグを組んだニューアルバム『レター・トゥー・ユー』が、10月23日に世界同時発売された。

 

  • 白木哲也

    Shiroki Tetsuya

    ソニー・ミュージックレーベルズ
    ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
    マーケティング2部 ゼネラルマネージャー

    1993年から洋楽制作本部、2004年からソニー・ミュージックダイレクト、2007年からSMJIに所属。1994年からブルース・スプリングスティーンを担当。

ブルースが拳を突き上げたときに全身鳥肌が立った

――白木さんとブルース・スプリングスティーンの出会いを教えてください。

出会いは「ハングリー・ハート」(1980年)です。音楽評論家の湯川(れい子)さんがDJをやっていた『全米トップ40』だったと思います。ラジオから流れてくる歌声と演奏を聴いたときに、あ、これは良い曲だって思いましたね。「ハングリー・ハート」でブルースが初の全米トップ10入りしたころにジョン・レノンが凶弾に倒れたんです。僕は元々ビートルズの大ファン。だから、ジョンが亡くなった12月8日の翌日に、ブルースが『ザ・リバー』ツアーのフィラデルフィア公演で「ツイスト&シャウト」をカバーして追悼したというニュースは、僕のなかのブルース愛を決定づけた事柄となりました。

アルバム『ザ・リバー』(1980年)

――もしかしてそのときに今現在の仕事を意識していたとか。

いやいや、まだ高校生ですから。そこまでは。そういう意味で本当に今の仕事に就くことを意識したのは、学生のときにアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を引っ提げた1985年の初来日公演を観てからですね(1985年4月10日~23日/東京5公演・大阪1公演・京都1公演)。なかなかチケットが手に入らなくて席も悪かったけれど、何とか東京だけで3回行ったかな。

アルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』(1984年)

――どんな雰囲気でしたか?

待ちに待ったファンによる、渇望の爆発寸前といった空気が漂う異様な雰囲気でしたね。1曲目「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の「ワン、ツー、スリー、フォー」のあのカウントが始まって、ブルースが拳を突き上げたときに全身鳥肌が立ってゾクゾクっとした感覚、あれは今でも忘れないですね。そして会場の全客電がついたなかでの「明日なき暴走」の大合唱。こんなにロックンロールのライブってすごいんだ、スタジアム・ロックって楽しいんだって教えてくれました。

何よりも圧倒的なパワーに、僕は客席で叩きのめされたんです。この熱いものを自分だけじゃなくてもっと多くの人に伝えていきたいと思った気持ちが、今の仕事につながっていることは間違いないですね。

「ついにブルースの担当になったんだ!」っていう喜び

――白木さんはCBS・ソニーレコードに中途入社したと伺いました。

はい。1986年に僕は就職するんですが、レコード会社とは無縁の仕事でした。そんななか、CBS・ソニーの中途採用の広告を見て、書類を提出して、最終までたどり着いて、面接官に「ブルース・スプリングスティーンがいる会社だから受けました」って言いましたね。何とか願いがかなって入社したのが1988年。ちょうどその年の9月27日に、『アムネスティ―・ツアー』の一環で東京ドームで行なわれたブルース・スプリングスティーンのライブ(2度目の来日公演ながら1時間半ほどのステージ)を観て、4日後の10月1日付の入社でした。それから営業職を経て1993年以降はずっと洋楽セクションです。

――ディレクターとして初めて手掛けたブルース・スプリングスティーンの作品は?

映画『フィラデルフィア』(1993年)の主題歌を含む4曲入りミニアルバムの『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』(1994年)です。

ミニアルバム『ストリーツ・オブ・フィラデルフィア』(1994年)

前担当者が体を壊して、途中から代理という形で引き受けて。だからもしかしたらクレジットは僕じゃないかもしれない。

――いずれにしても白木さん初のブルース・スプリングスティーン国内盤は、1990年代以降の活動のなかでもエポックメイキングな作品でした。

結果的にそうなりましたね。翌年3月発表のグラミー賞で最優秀楽曲賞を始め4部門で受賞、アカデミー賞でも歌曲賞を受賞。あれだけ映画と深く関わったブルースの作品は初めてだったし、王道ロックとは一線を画す新しい曲調で、転換期になりましたよね。

――白木さんは、ブルース・スプリングスティーンの7代目ディレクターとなったわけですね。

でも本格的に自分で初めて手掛けたブルースの国内制作盤は、1995年の『グレイテスト・ヒッツ』になりますね。

アルバム『グレイテスト・ヒッツ』(1995年)

本国から届いたアートワークを見たら、あの『明日なき暴走』(1975年)のジャケットの別カットの背中ですからね。思わずガッツポーズしましたよ。あれはメチャクチャ燃えましたね。同時に、「ついにブルースの担当になったんだ!」っていう喜びというか、プレッシャーというか。

開口一番「来ないと思った?」ってニッコリ

――初めての正式担当作品がベスト盤というのもなんだか運命的ですね。

そうですね。良いか悪いかは別にして、過去20年に渡り担当してきた先輩方が残したものを集大成するベストですから、相当プレッシャーはありましたね。販促グッズとしてMA-1ジャンパーを作ったり、見様見真似でいろいろやりましたけど、なにより、この作品でブルース本人が稼働してのプロモーションができたことは今でも忘れられませんね。1985年、1988年の来日のときは取材もできなかったわけで……。正確に言えば、簡単に取材稼働するアーティストではないということですね。

このとき、日本サイドが公にブルースを取材するのは、元『ミュージック・ライフ』編集長の水上はるこさんがインタビューした『jam』創刊号以来、17年ぶりだったんです。『朝日新聞』や『エスクァイア日本版』、『週刊プレイボーイ』などでのインタビューを仕込んだんですが、忘れられないのはテレビ朝日の『ニュースステーション』ですね。

――当時メインキャスターだった久米宏さんとのインタビューですね! 全国のブルース・スプリングスティーンファンが録画したという伝説の生放送。

はい。日本から行った僕らブルース・チーム立ち合いのもとで、当時ニューヨークにあったソニー・スタジオからの衛星生中継でした。番組開始は日本時間の夜10時ですから、アメリカだとリハ時間を含めると始まるのは朝。でもね、ブルースが時間になっても連絡もないし、スタジオに現われないんですよ。みんな焦ってね。ピリピリと張りつめた緊張感のなかで僕はいてもたってもいられなくなり、外に出てきっと乗ってくるであろうリムジンを探していたんです。この車じゃないか、あの車じゃないかなんて右往左往して。

――なんか話を聞くだけでこっちのほうが緊張してきました(笑)。

そしたら向こうのほうから野球帽をかぶったオジさんがトコトコ歩いてこっちに向かって来るんですよ。それがブルース本人でした。後で知ったんですけど、どうやらニュージャージー州の自宅から自分で車を運転してきたようで。開口一番「来ないと思った?」ってニッコリ。「ごめん、ごめん、近くに駐車場が見つからなくて遅れちゃった」って。みんな緊張から解き放たれるように「エエエェェェーー!」って(笑)。そのあとしばらくして、ソニー・スタジオのトイレのなかでもバッタリ遭遇しちゃって。さすがに真横に並ぶのはおこがましいと思ったので、ふたつぐらい横にそぉーとずれて。目が合って「あ、どうも」なんて(笑)。

出社すると毎日手を合わせて来日を懇願していました

――大御所ですが、気さくな方なんでしょうか。

多くのアーティストを担当していると、昔自分が憧れていたミュージシャンがオフのときは近寄りがたい雰囲気を醸し出していたり、想像してたのと違って最悪だったり(笑)という経験があるものなんですが、ブルースに関しては、ブルーカラー層を代弁してきたシンガーというイメージを裏切ることなく、ますます惹かれていくだけでしたね。僕はこの人の担当なんだって噛みしめながら、自分にできること、日本のファンにできることをいろいろ考えました。そのひとつが2000年代に入ってからの“来日懇願キャンペーン”です。

――来日懇願キャンペーンを展開したのは、アルバム『ザ・ライジング』(2002年)の直後ぐらいでしたよね。

1999年に一度解散したEストリート・バンドが再結成して欧米をツアーしているのになかなか来日してくれないので、日本のファンが待っていることをブルースに伝えようということで、まずはファンの皆さまの想いをメールで募集しました。

ブルース・スプリングスティーンとEストリート・バンド

一人ひとりの熱いメッセージを英訳して手作りの本にまとめて、「これを直にブルースに渡すことができないかなぁ」と思っていたら、その日はいきなり来た。マネジメントから招待される形で、2002年11月に『ザ・ライジング』全米ツアーのダラス公演の会場に行って、ライブが始まる直前のバックステージでブルースに会うことができたんです。日本から持ってきた本を渡しながら、僕らがどれだけブルースを必要としているかを、つたない英語で伝えました。彼はニコニコとしながら、「わかっているよ」といった感じでうんうんとうなずきながら握手を返してくれて、客席でファンが待つステージに消えていきました。

――来日懇願キャンペーン自体は、その後もしばらく続きましたよね。

そうでした。さらに大きなムーブメントにしていこうと、キャンペーンをみんなの目に見える形にできればと思い、会社の総務担当者に相談して、ソニーミュージックグループの本社ビルの受付横に『明日なき暴走』のジャケット絵柄の大垂れ幕を設置しました。現在はデジタルモニターになっている場所ですね。それから来日懇願ボードも設置しました。1985年の来日公演を見た方は懐かしむこと必至の日本公演時の写真と最新ライブ写真とともに、全長約3mで3面の光るボードを設置して。ボードには「WE WANT BOSS!」の大きな文字の周りにメッセージや名前などが書けるスペースを空けて、来社された方が誰でも好きなことを書き込めるようにしました。

アルバム『明日なき暴走』(2005年)

――巨大で真っ赤な鳥居の「ボス神社」もありましたよね?

あれは置くところに困って、洋楽制作フロアの自分のデスクの後ろにドーンと。僕は出社すると毎日手を合わせて来日を懇願していました(笑)。一連の仕掛けを撮影した模様はビデオ映像に編集して、アメリカのソニーミュージックのヘッドにも見せることができました。彼らも感動して、これをマネージャーと本人に見せると約束してくれたんです。残念ながらいまだに再結成以降のブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドの来日は実現していませんが……。こればっかりは自分の力だけではどうしようもできないですが、これからも懇願しつづけますよ。

来日が実現すれば、もう思い残すことはない

――もうこれはライフワークですね。

サラリーマン人生も、もうそう長くはないんですが、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドの来日が実現すれば、もう思い残すことはないですね。来日公演が実現したらもうその夜に退職してもいいくらい。この前も、日本発の海外向けマーケット・プランを提出するにあたり、最初のほうに重要項目として、「ブルース・スプリングスティーンの来日」としっかり書いて出してますからね。こんなに日本ではブルースの人気が高いのに、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドとしてのフルセット・ツアーは、1985年から35年間も実現していないのはおかしい! って。 向こうの担当者も僕が来日を望んでいるのは知っているから、「あ、またこの人書いてる」って思ってるはずです(笑)。

――えっ、もしかして、英語でも情で訴えるわけですか?

情だね(笑)。まともに言っても通用しないから。英語圏でも何となく想いだけは届いている実感はあるんです。言いつづけることも大事だと思っているんで。それこそブルースのアルバム『ワーキング・オン・ア・ドリーム』(2009年)に引っ掛けて、僕も先が長くないから夢をかなえてくれと訴えています(笑)。

洋楽ファンから届く叱咤激励の25年のなかでも一番多い声が「ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドの来日」なんで、担当としてはその声にもしっかり応えていかなくてはいけないんですよ。実際に呼ぶのは僕じゃなくてプロモーターさんだったりするわけですけど、一緒になって想いを伝えていきたいと思ってます。

アルバム『ワーキング・オン・ア・ドリーム』(2009年)

――ところで白木さんがブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドでの来日にこだわるのは?

“誠実”という言葉が一番似合うアーティストがブルース・スプリングスティーンです。そしてブルースの作品の重要なテーマでもある“友情”“信頼”“絆”というものを体現してくれる唯一無二の存在なのがEストリート・バンドだからです。まったく彼の音楽に触れたことがない若い世代のリスナーでも、ライブを体験すれば一生忘れられない時間を共有してもらえると今でも確信しているからです。1997年にソロアコースティック・ツアーで来日して素晴らしいステージを見せてくれましたが、やはり僕が全世代に届けたいのはEストリート・バンドとのステージですね!

後編につづく

文・取材:安川達也

関連サイト

オフィシャルサイト
http://www.sonymusic.co.jp/artist/BruceSpringsteen/(新しいタブで開く)

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