デヴィッド・ボウイ【後編】「ボウイが帰ってきた! ソニーミュージックから出せるんだ! という喜びがありました」
2021.01.29
2021.01.28
世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。
今回のレジェンドは、1月10日が5周忌だったデヴィッド・ボウイ。27枚のオリジナルアルバム(内、4枚をソニーミュージックよりリリース)を残し、69歳という年齢でこの世を去った真のレジェンドアーティストの痕跡を辿っていく。ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル(以下、SMJI)白木哲也が、自身の視点と経験を交えて語る。
前編では、1970年代のグラムロック期から、1980年代に爆発的ヒットを飛ばすまでのデヴィッド・ボウイの変遷を追う。
デヴィッド・ボウイ (David Bowie)
1947年1月8日生まれ。2016年1月10日没。イギリス出身。1967年、アルバム『デヴィッド・ボウイ』でデビュー。グラミー賞5回受賞、1996年にロックの殿堂入り。ミュージシャンとしてだけではなく、大島渚監督映画『戦場のメリークリスマス』(1983年)などで俳優としても活躍した。2016年に発売されたアルバム『★(ブラックスター)』が遺作となった。
白木哲也
Shiroki Tetsuya
ソニー・ミュージックレーベルズ
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
マーケティング2部 ゼネラルマネージャー
1993年から洋楽制作本部、2004年からソニー・ミュージックダイレクト、2007年からSMJIに所属。2002年から担当部門でデヴィッド・ボウイに関わる。
──デヴィッド・ボウイが亡くなってから今年の1月10日で5年となりました。今回は改めて彼のアーティストとしての魅力を聞いていきたいと思います。白木さんがリアルタイムでデヴィッド・ボウイを知ったのはいつごろですか。
一番最初にボウイの存在に触れたのは、NHKの『ヤング・ミュージック・ショー』で1978年の来日公演のライブ映像を見たときです。当時の僕は、伊豆大島の丸坊主の野球少年だったんですよ(笑)。事前にボウイが何者かも知らずに偶然見て、お化粧したような男の人が不思議な音楽やってる、なんじゃこりゃ? ってすごく驚いた記憶があります。
その後東京に出てきていろいろな音楽を聴くようになってくなかで、改めてデヴィッド・ボウイを知り、後追いでアルバム『ジギー・スターダスト』(1972年)とかを聴いてボウイにはまったんです。アルバム『スケアリー・モンスターズ』(1980年)からリアルタイムで聴いてきた感じですね。
──では、さまざまな変遷を辿ってきたデヴィッド・ボウイの音楽を時代ごとに区切って語ってもらいたいです。まずは、彼が最初に注目を集めた1970年代前半のグラムロック期についてお願いします。
もともとはフォーク、サイケ的なところからキャリアをスタートして、1969年『スペース・オディティ』がヒット。グラムロック期はその後の1970年あたりからですね。グラムロックって、今聴くと実にシンプルなロックンロールですよね。1950年代、1960年代のロックンロールをベースにして、奇抜なメイクをして、ド派手な衣装を着たり、そのサウンドとビジュアルの融合は当時は衝撃的だったと思います。今でもこの時期のボウイが好きな人が多いですよね。
『スペース・オディティ』
──しかも、音楽を表現する上でキャラクターになりきるという発想も面白いですよね。
ペルソナという言葉でも語られますが、自分をキャラクター化して、演じて歌うというのは斬新だったと思います。グラム期のなかでも、『ジギー・スターダスト』はサウンド的にも誰が聴いてもかっこ良いアルバムですが、設定として、異星からやってきたジギーがスパイダーズ・フロム・マーズ(火星からやってくた蜘蛛たち)を従えて、地球で活動してあっという間に去っていくというストーリーがあって、ボウイ自身が架空のキャラクターのジギーを演じていました。音楽、キャラクター、ファッションを融合した形で表現する手法なんてそれまでにはなかったわけですから、ある種の発明とも言えますね。
「ジギー・スターダスト」
──山本寛斎さんが手掛けた衣装もそうですし、ボウイは日本のカルチャーとの結びつきが深いですよね。
山本寛斎さんの衣装は、グラムロック期のボウイのイメージを最も印象づけています。あの時代に世界に飛び出し、海外でボウイと関わっていった寛斎さん、カメラマンの鋤田正義さん、スタイリストの高橋靖子さんといった方々がいたからこそ、ボウイと日本のカルチャーとの親密な関係性につながっていくんですね。ボウイ自身がもともと日本に興味を持っていたということもあるんですが、日本人がデザインした服を着て日本人が写真を撮影し、歌舞伎をステージに取り入れたり、日本の古い文化や京都を愛し……日本人としてはうれしい限りですよね。
彼の初来日は、まさにグラムロック期だった1973年4月なんですけど、ものすごいインパクトを日本のファンに残したと思います。その後『アラジン・セイン』をリリースし、7月3日に開催したロンドン公演でいきなり彼はジギーを封印。1974年のアルバム『ダイアモンドの犬』あたりまでがグラムロック期になりますね。
──グラムロック期を終えたデヴィッド・ボウイは一気に雰囲気を変えて、アメリカのフィラデルフィアでソウル寄りのサウンドをやることになりました。
プラスティックソウルって呼ばれたころですね。1975年のアルバム『ヤング・アメリカンズ』、1976年の『ステイション・トゥ・ステイション』では、アメリカのソウルミュージックに傾倒し、それまでとは音楽そのものが変わり、まったく違うファッションとルックスにもなっちゃって。当時のファンは相当驚いたと思いますよ。
──宇宙人だった人が一体どうした!? って感覚になりますよね(笑)。
ですよね(笑)。『ジギー・スターダスト』で星へ帰っちゃった人が“シン・ホワイト・デューク(痩せこけた青白き公爵)”ってまったく正反対とも言える新たなペルソナで帰ってきちゃったわけですから。
『ヤング・アメリカンズ』は、ジョン・レノンと共作した収録曲『フェイム』(1975年)が初の全米チャート1位を獲得し、アルバムも大成功を収めます。このころにジョンと深い友人関係を築いたのも歴史的に興味深いんです。
その後、ジョン&ヨーコとは同じニューヨークの住人として友情を育んでいくんですね。ジョンの死後にはショーン・レノンの父親代わりのようになってあげるほど。(参考:「ジョンとヨーコとデヴィッド・ボウイ」)
時系列で言うと、『ヤング・アメリカンズ』リリース後、俳優として映画『地球に落ちて来た男』に出演し、その後『ステイション・トゥ・ステイション』で新たなペルソナ“シン・ホワイト・デューク”が生まれ、そして今度はベルリンへ向かいます。
──1977年の『ロウ』『英雄夢語り(ヒーローズ)』、1979年の『ロジャー(間借人)』の、ベルリンに住んでいた時期にブライアン・イーノ(元ロキシー・ミュージック)と作った3枚のアルバムですね。これまた一気に音楽性が変わりました。
ジョン・レノンが“お化粧したロックンロール”と称したグラムロックをやってた人が、アメリカへ渡って黒人音楽から影響を受けたソウルミュージックをやり、今度は冷戦時代のベルリンでジャーマンロックから影響を受けた独創的で実験的な音楽の世界に行っちゃった(笑)。『ロウ』は今でこそ名盤と呼ばれていますが、当時聴いた人はこれまた本当に驚いたと思いますよ。僕も最初はよくわからなかったし、すごく冷たい、荒涼とした感じを受けたのを覚えてます。理解するまで時間がかかりましたけど、今はこの時代のアルバムが一番魅力的に感じますね。
──音楽性がこれだけ変わっちゃったらまずくないか? という躊躇がまったくないのが面白いですね。
僕らも、何か仕事で成功するとそれをなぞってやるじゃないですか。でも彼は延長戦みたいなことを一切しない。しかも一筋縄じゃいかない一番新しいところ、誰もやっていないところに突き進んでいくのが魅力的ですよね。
──恐れずに進んでいく姿勢は、まさにデヴィッド・ボウイの真骨頂と言えますね。
よくボウイに影響を受けた人が、普通じゃなくて良いんだ、まともじゃなくても良いんだってことを教わったって言うんです。彼は自らの活動を通じてそれを実践してくれた。それって、世間の片隅で孤独に生きてるような人や、なかなか周りから理解されない方たちに勇気を与えたのは間違いないですよね。
──確かに。では、ベルリン三部作の魅力を語ってもらえますか。
ロックの新しい可能性を広げた、ある種売れ線とはまったく真逆のアプローチで、自身のクリエイティブを追求した革新的作品。インストも多く、現在のテクノやサンプリングにもつながっていると思いますし、音楽的にも普通じゃなくて良いんだ、ロックの可能性はなんでもありなんだってことを示したというか、ボウイ美学の完成形って気もしますね。マスコミなどの雑音のない、東西に分断されたベルリンという街もクリエイティブに一役買ったんでしょう。ベルリン三部作は、芸術的というか、絵画と向き合うのと同じように、パッと聴いただけじゃわからないけど、ずっと聴きつづけるとすごく惹かれてしまう作品というか。異様な光を放ってる3枚ですよ。
3枚のなかでは『ヒーローズ』が一番わかりやすいアルバムだと思いますね。タイトルトラックは今もなお歌い継がれている代表曲です。ジャケットは鋤田さんが日本で撮影したものですし、収録曲の『モス・ガーデン』には日本のファンからプレゼントされたオモチャの琴の音が入っていたりと、そんな日本との関わり合いがあることを知ると、より魅力的に思える作品でもあります。
キャリアを通して変化しつづけてきたボウイにとって、この3枚が非常に重要な位置づけになるんですよね。年齢もちょうど30代へ突入するところ。ある意味、自分の感性を一番研ぎ澄ませて音楽性を追求し、彼自身の言葉によると「誰も耳にしたことのない音楽を生み出すこと」にトライしたアーティストとしての限界に挑んだ時期でもあったと思うんです。さらに、当時はまだ東西に分断されていたベルリンという街で斬新なサウンドが作られ、時代の音になった。それが以降のさまざまな世代のアーティストたちに勇気と希望、影響を与えた、ということが重要な3枚だと言われる要因でしょうね。
──このベルリン時代には、友人であるイギー・ポップをプロデュースして当時ボロボロだったイギーを助けています。その前のグラム期には友人のバンド、モット・ザ・フープルを手助けしたりもしていましたし、結構友人思いなんですよね。
そうなんですよね。ベルリン時代にはイギーと一緒に住んで、『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』(ともに1977年)という素晴らしいアルバムをプロデュースしています。こういった話がいろいろあるんです。ブルース・スプリングスティーンがまだ全然売れてないときに彼の曲を取り上げたり、『レッツ・ダンス』(1983年)では、まだ無名に近かったスティーヴィー・レイ・ヴォーンをギターで起用したり、新しい音楽を聴いていくなかで見つけた新しい才能を世の中に広めるのも、自分の役割のひとつと思っていたのかもしれないですね。
──そして、1980年に『スケアリー・モンスターズ』をリリースします。
ここからが僕はリアルタイムですね。1曲目の『イッツ・ノー・ゲーム(パート1)』にいきなり日本語が入ってたときはびっくりしましたが、タイトル曲や『ファッション』という曲含め、一つひとつの楽曲が当時の自分にぴったりはまった。特に『アッシュズ・トゥ・アッシュズ』がたまらなかったですね。ミュージックビデオがとにかく不思議な世界観で、当時テレビで見たときは怖かったです(笑)。この曲の歌詞に、『スペース・オディティ』(1969年)の架空のキャラクター、メイジャー・トム(トム少佐)が再登場するんですよね。
──歌詞のキャラクターが続編的に出てくるのも面白いですよね。映画的でもあります。
ビジュアル面もそうですけど、すべてが映像的なんですよね。リンゼイ・ケンプからパントマイムを学んでいたり、俳優としても活動していたし、演じるということがすべてにつながっていますよね。
──こうして1980年代に突入していったわけですが、ここからデヴィッド・ボウイはまた大きな変化を遂げていきますよね。
『スケアリー・モンスターズ』はニューウェーブ的な作品で、ここまではなんだかんだ言っても超メジャー路線ではないんですよね。ちょっと外れたところにいるカルトなロックスター然としたところがかっこ良かった。それが次のアルバム『レッツ・ダンス』ですべてが変わるんですね。
──タイトル曲の『レッツ・ダンス』は世界的な大ヒットを記録しました。
これはすごかったですね。正直驚きました。当時、MTVができてミュージックビデオが音楽業界を席捲していたし、映画『戦場のメリークリスマス』に出演した直後でもあったので、映像からボウイを知った人も多かったと思います。ここでも容姿がまた一気に変わっちゃったんですよね。ひとつ前の『スケアリー・モンスターズ』で不思議な人形みたいな格好をしてた人が、いきなりモードなスーツ姿になるっていう(笑)。
本人も、メジャーなところを目指したアルバムだったと思いますが、信じられないくらい全世界でバカ売れした。ただ、僕がそうだったんですけど、若いときって好きなアーティストが売れちゃうと嫌いになるって感覚あるじゃないですか(笑)。
──売れ線行っちゃったなって思っちゃいますよね(笑)。
なので、髪型もファッションもアルバムも正直それまで聴いてきたボウイとなんか違う! なんて思っちゃって、自分のなかでは初めて売れ線狙っちゃったアルバムとしてあまり印象が良くなかったんです。でも、ボウイが亡くなったあとに久々に聴き直したらめちゃくちゃかっこ良い! 『モダン・ラヴ』『チャイナ・ガール』『レッツ・ダンス』とつづく冒頭3曲の流れは完璧ですし、アルバム全体にまったく隙がない。
『レッツ・ダンス』
それに、今にして思うと『レッツ・ダンス』も超売れ線かと言われたら、そこまでじゃないんですよね。でもそれがああいうふうにドカーンと売れたのは、音が映像と一緒にお茶の間に入ってくる時代をボウイが先読みしていたってことだと思うんです。『レッツ・ダンス』のビデオ、あのファッション、そしてライブ、すべてが“メインストリーム”につながっていた。好みを超えて、万人に愛されるキャラクターを作り上げていたんですね。
──当時のレコードの帯に“時代がボウイに追いついた”って書いてあったのをすごく覚えてます。
実際そうだったかもしれないですね。ファンの人はすごい先を行ってるボウイを追っかけてたら、本人もこっちを見てて、すべてが同じ地点に集約される瞬間をうかがってたっていうか。ただ、これもボウイが“メインストリーム”というものを演じていたということなのかもしれませんね。今までボウイを知らなかった人もこのアルバムで彼の音楽を聴き、一気に裾野が広がった。
──当時のライブをご覧になってどんな感想がありましたか。
1983年10月に日本武道館でボウイ初ライブを体験しましたが、まあとにかくめちゃくちゃかっこ良かったですね。売れ線行っちゃったな~なんて斜に構えてた僕も、ライブで完全にノックアウトされちゃいました(笑)。『レッツ・ダンス』の収録曲はもちろんですが、これまでの各アルバムからもまんべんなくやってくれて、初めて彼のライブを観る人たちにとってもわかりやすいグレイテストヒッツ的な内容と、ファッション的にも白いスーツで身を固めた素敵な大人な雰囲気で、こりゃみんなボウイのこと大好きになっちゃうだろうなあって感じです。まだこのときで36歳なんですよね。
まあ、ボウイの生涯のなかでも一番売れたのは『レッツ・ダンス』でしょうし、ミュージックシーンも1980年代で一気に変わったじゃないですか。MTVから始まって『ライブエイド』あたりまでつながる、黄金の1980年代のど真ん中に彼が位置づけられた。いまだに1980年代を代表するアーティストとしてボウイが語られて、もちろんそれは間違いないですけど、ただこれも変化していくボウイのほんのちょっとの時期なんですよね。
文・取材:土屋恵介
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