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担当者が語る! 洋楽レジェンドのココだけの話

ビリー・ジョエル【後編】「市井の人たちのことを歌うビリーの名曲は、時代を超えて生きつづける」

2021.02.25

世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。

今回のレジェンドは、今年ソロデビュー50周年を迎えたビリー・ジョエル。日本ではメロディアスなバラード曲で人気の巨匠がこれまでに世に出した作品群を振り返りながら、彼のアーティストとしての神髄を探る。制作担当を経験し、本人とも対面しているソニー・ミュージックジャパンインターナショナル(以下、SMJI)白木哲也に聞く。

後編では、1986年以降の音楽性と、実際に対面したときの印象やプライベートでの素顔について語る。

ビリー・ジョエル (Billy Joel)

1949年5月9日生まれ。アメリカ・ニューヨーク州出身。1971年、アルバム『コールド・スプリング・ハーバー~ピアノの詩人』でソロデビュー。以降、12枚のオリジナルアルバムを発表している。「ピアノ・マン」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」など、代表曲多数。現在はライブを中心とした活動を行なっている。
 

  • 白木哲也

    Shiroki Tetsuya

    ソニー・ミュージックレーベルズ
    ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
    マーケティング2部 ゼネラルマネージャー

    1993年から洋楽制作本部、2004年からソニー・ミュージックダイレクト、2007年からSMJIに所属。1999~2008年に制作ディレクター、2004年にはアルバム紙ジャケシリーズ制作を担当する。

CDが世の中に広がっていく上で、ビリーはかなり貢献した

Photo by Joji Sawa

──『ビリー・ザ・ベスト』(1985年)のころが、ちょうどアナログレコードからCDに替わる時期でしたね。

そもそも、洋楽アーティストの商業用CD世界第1号作品が『ニューヨーク52番街』で、これが1982年に出ているんです。『ビリー・ザ・ベスト』はまだアナログのLPがメインでしたけど、CDも同時に発売されました。CDが世の中に広がっていく上で、ビリーはかなり貢献したのではないかと思います。日本人ってもともとベスト盤が大好きですし、ここからファンになった方も多いと思いますね。

──そのあと、1986年にアルバム『ザ・ブリッジ』が発売されました。

1980年代に入ってからのアルバムは全体のイメージが一貫していたのですが、このアルバムは、なんでもありの“ごった煮”的な印象でしたね。「ディス・イズ・ザ・タイム」「マター・オブ・トラスト」など良い曲もあるんですが、かつての大ヒットシングルとまではいかなかった。でもレイ・チャールズやシンディ・ローパーなどゲストが豪華で、アルバムとしては大ヒットしました。“ゴージャス”って感じのアルバムです。

アルバム『ザ・ブリッジ』(1986年)

──今聴き直すと、サウンドが1980年代の音なんですよね。

まさに、ドラムの音とか、ザ・80’sですね。当時ビリーは40歳手前でしたが、ちょっと落ち着いてきた感じもあります。“大人のアルバム”というか。この時期のハイライトは、ワールドツアーの最後に行なった19877~8月のソ連でのライブです。そのときの模様を収めたライブ盤も出ました。

ソ連でのツアーより。Photo by Neal Preston

──1987年の『コンツェルト-ライヴ・イン・U.S.S.R.-』ですね。ゴルバチョフがソ連の大統領になって、まさに時代が変わるときでした。ザ・ビートルズの「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」も演奏しました。

モスクワとレニングラードを回る大規模なツアーで、ロックの歴史的にも政治的にも画期的な出来事でした。冷戦時代のソ連なのでさまざまな困難があったようですが、そんななかで15万人を動員し、ビリー自身も誇りに思っているのではないでしょうか。その大変さは『マター・オブ・トラスト:ブリッジ・トゥ・ロシア<デラックス・エディション>』(2014年)に収められているドキュメンタリー映像を見ると、ひしひしと伝わってきます。

ソ連でのツアーより。Photo by Neal Preston

──そして、1989年に『ストーム・フロント』が発売されます。

ソ連でのライブは彼のキャリアの集大成でもあり、またひとつの章の完結でもあったようですね。ツアーのあと長年連れ添ったバンドを解散し、『ストーム・フロント』では、数々の名盤をともに作り上げてきたフィル・ラモーンが離れて、プロデューサーがフォリナーのミック・ジョーンズに変わります。

──彼が手掛けただけあって、パワフルな作品という印象が強いです。

そうですね。大ヒットした「ハートにファイア」は、歌詞が世界の歴史的出来事の羅列なんですよね。ちょうどベルリンの壁が崩壊し、ソ連も崩壊して、世界は激動の時代。ソ連での経験から「レニングラード」という名曲も生まれました。日本はバブルど真ん中でしたけど(笑)。

アルバム『ストーム・フロント』(1989年)

──そうですね(笑)。そのころの日本での人気はどのような感じでしたか。

ビリーの日本での人気は相変わらず健在で、このころから“ライブをやるならドーム公演”といった感じになるほどでした。1991年の『ストーム・フロント・ツアー』での来日公演は東京ドームで2公演やってますし、その前の1988年には、複数のアーティストによるイベントですが、『KIRIN DRY GIGS』でも東京ドームで演奏しています。このアルバムのとき、初めて日本の音楽番組でもパフォーマンスを行ないました。

──確固たるアーティストパワーがあったわけですね。そして、1993年に『リヴァー・オブ・ドリームス』をリリースしました。

ビリーは、もう新作アルバムは作らないと宣言していて、実際にこれが今のところラストのオリジナルアルバムです。これは前作から4年ぶりの作品だったので、「ついにビリーが帰ってきた!」って世の中的には待ってました感がありましたね。僕もちょうどSMJIに所属になった年だったので印象に残っています。

大々的な宣伝展開もあり、アメリカで1位、日本でもチャート3位までいきました。アルバムの最後が、「ラスト・ワーズ」という曲で終わるのも意味深というか、考えさせられるものがありますね。

アルバム『リヴァー・オブ・ドリームス』(1993年)

──新作を作らないというのは、作家で言うところの断筆宣言に近いものがありますが、理由はなんでしょうか。

理由は正確にはわかりませんが、思い通りの曲が書けなくなったのかもしれません。ただ、今も曲は作っているとは言っていますし、もし歌詞の部分だけのことなら、エルトン・ジョンがバーニー・トーピンと組んだみたいに、誰かと一緒にやれば良いのにと思っちゃうんですけどね。

本作以降は、ソロピアノ集の『ファンタジー・アンド・デリュージョン~ミュージック・フォー・ソロ・ピアノ』と、「オール・マイ・ライフ」という曲を発表したくらいで、あとは頑なにライブをつづけています。作曲ということで言えば、イラク従軍兵士からの手紙をもとにほかの歌手のために作った「クリスマス・イン・ファルージャ」という曲があります。

──大抵のアーティストは引退宣言してもだいたい戻ってくるじゃないですか。でも、ビリー・ジョエルは本当に新作アルバムを出さないことに驚かされます。

だから、ほんと1枚だけで良いですから最後に作ってほしいですよね。2007年に14年ぶりの新曲として発表された「オール・マイ・ライフ」は妻に捧げた曲ですが、そのように家族のためだとか、もしくはソ連でのライブを行なったときのような情熱だとか、ビリー自身を突き動かす何かがあれば可能性はあるかも? って思いたいですけどね。

紙ジャケを渡したらまじまじと見始めて……

2006年12月6日 京セラドーム大阪公演より。Photo by Tomohiro Akutsu

──白木さんがビリー・ジョエルの担当になったのはどのタイミングだったんですか。

僕が担当になったのが1999年で、2000年に『ビリー・ザ・ライヴ〜ミレニアム・コンサート』を出したのが最初です。その後ソニー・ミュージックダイレクトに異動になって、2004年に旧作全16タイトルの紙ジャケシリーズを手掛けました。それから2006年に来日公演があって、東京、札幌、大阪、福岡、名古屋を回る5大ドームツアーをやったんです。

──かなり大規模ですね。

そのタイミングで久々にビリーが取材に応じてくれることになって、ニューヨークに行って初めて会いました。取材場所で待っていたら、当時結婚したばかりの女性と一緒に、リムジンとかじゃなく普通の車で来たんです。降りてきたら想像よりも背が低くて。

取材は、良い天気だったのでホテルのバルコニーで行ないました。スーパースターだし、取材もあまりやらないし、インタビュー嫌いなのかな? ってちょっと心配だったんですけど、話し出したら、すごく気の良い、普通のおっちゃんって感じで(笑)。ちょっとギャグを挟んだり、センシティブな質問にも機嫌良く答えてくれましたね。

そのときはキャップを被っていて、たぶんそこら辺を歩いていても気づかないと思いますよ(笑)。ただ、あの大きな目を近くで見るとすごく優しい目で、とても印象的でした。

ニューヨークでの取材時より。Photo by Tomohiro Akutsu

──2006年のツアーには同行されたんですか。

はい。どのライブも素晴らしかったです。福岡公演が行なわれた日の前日がちょうどジョン・レノンの命日だったので、彼に捧げる「イマジン」をその日だけやってくれました。実はそのときに、2004年に発売した紙ジャケシリーズを直接本人に渡そうと思って持ち歩いていたんですが、渡すかどうか迷っていたんです。

というのも、もちろん海外の許可は取ってはいますし、権利的にも問題はないのですが、紙ジャケの存在がアーティスト本人にまで伝わっているのかどうかは定かじゃなかったんですよ。渡したことでトラブルになっても嫌だし、どうしようかなあと……。でも、僕もビリーのファンですし、しっかりしたものを作ったという自負もあったので、最終日に思い切って渡してみようと決心しました。

──本人はどんな反応でしたか。

「実はこういうのを作りました」って紙ジャケを差し出したら、「ふ~ん」という感じだったので、「うわ~、こりゃヤバイかも?」と……。そこで、「これはあなたのLPを細かいところまでこだわって復刻したもので、日本では紙ジャケが好きなファンが多いんですよ」なんてことを焦りながらいろいろ説明したところ、まじまじと見始めて。そのあと、ひと言「グッド・ワーク!」って言ってくれたんです。「いやー良かったー」って思いましたね(笑)。

──それは良かったですね。

あの様子は、絶対紙ジャケの存在は知らなかったと思いますね(笑)。だけど、あの「グッド・ワーク!」って言葉がすごくうれしかったです。

2006年12月9日 福岡Yahoo!Japanドーム公演より。Photo by Tomohiro Akutsu

──そのあと2008年にも来日公演がありました。

2008年11月に東京ドームで1公演やりましたね。今のところ、それが最後の来日です。前の来日から2年しか間がないし、「ドーム、大丈夫かな?」ってちょっと心配してたんですけど、なんのなんの、即完でした。

初来日から30周年を記念した一夜限りのコンサートっていう打ち出しだったんです。そのときに、中野サンプラザでの初来日公演のチケットの半券を持ってるファンとビリーが対面するという企画もあったんです。

──ビリー・ジョエルがミートアンドグリート的なことをやったんですか。

そうなんです。良い企画でした。ビリー・ファンの皆さんは、ビリーの作った曲や歌が自分の人生のサウンドトラックになっていると思うので、彼の歌を聴くことで当時の自分を思い出せる。だからビリーのライブは、会場中がなにかとても温かい雰囲気で包まれている感じがするんです。僕もそうですが、日本でライブがあったら必ず行くし、海外にまで観に行っちゃう方も多いみたいですね。

──リスナーの心に寄り添うアーティストなのかもしれないですね。良い人そうなんですが、私生活では浮き沈みがありますよね。かなり結婚と離婚が多いですし。

申し訳ないですけど、結婚運がない感じはしますよね。アーティストとしてあれだけ成功すると、周りのほうが変わってしまったりっていうこともあるでしょうし、そういう部分でかわいそうな感じはありますけど。

最初は下積み時代を支えた女性と結婚して、2度目はモデルと結婚して、彼女の浮気が原因で別れてしまう。3度目はかなり年の離れている女性と結婚して、また離婚。その後、4度目の結婚と……。

──かなりバイタリティがあります(笑)。

すごいですよね。今71歳で、孫みたいな年齢の子どもがふたりいるんですよ(笑)。

──あとバイクの事故で怪我したことなどもありました。

20th Century Cyclesっていう自分の店を持っているくらいバイクが好きなんです。昔からバイクに乗っていて、結構な事故にもあってますね。こうして見ると、プライベートは波乱万丈なところがありますね。

ニューヨークで見るビリー・ジョエルはスペシャル

──取材に同席した際に繊細な印象はありましたか。

最初は神経質な感じも見受けられましたが、だんだん打ち解けてくると、陽気でちょっと自虐的なギャグを言う、すごく優しい目をしたおっちゃんになるって感じでしょうか。変に近寄り難い雰囲気はあまりないし、初めて会ったときはとても親近感が湧きましたね。当然ライブのときはピリピリしてましたけど、それは誰でもそうでしょうし。

──もしかすると、自分がスーパースターとして扱われることにずっと違和感を抱いたままで、一般の人と近い感覚を持った人なのかもしれないですね。

そうかもしれないですね。ずっと市井の人たちのことを歌ってきたけど、自分はスーパースターになっちゃって、そのギャップがどんどん大きくなってしまった。だから曲を書けなくなっちゃったのかもしれないです。すごく誠実で真面目で優しい人だからこそ、それが逆に強く出過ぎちゃうことがあるのかも。でも、近年はマジソン・スクエア・ガーデンで公演数の記録を作るくらいライブをやっていますし、音楽に対する情熱は失われてはいない。なにより、ライブをやることを本人が楽しんでいるんだと思いますよ。

マジソン・スクエア・ガーデンでのライブより。

──新型コロナウイルスが蔓延する前は、マジソン・スクエア・ガーデンで定期公演をやっていたんですよね。

はい、僕も観に行きました。ニューヨークで見るビリー・ジョエルはちょっと雰囲気が違うんですよね。自身のホームグランドで馴染みのミュージシャンとゆったりとやっているからかもしれないですが、すごくリラックスした空気感の居心地が良いライブで、かつ地元ですから、観客の盛り上がりも尋常じゃなく、どの曲でも大合唱。究極の一体感を感じるスペシャルな一夜でした。

ビリーもバンドメンバーもお客さんも、その場にいる全員が楽しそうにしていて、演奏される曲にまつわる一人ひとりの思い出、ストーリーがライブの空間で共有されている。これって、アーティストとしては究極の幸せなのかなと思いました。あとはお子さんの存在も大きいと思います。それが今の彼の原動力になっているんじゃないですかね。

──アットホームなライブとお子さんがモチベーション。まだまだ元気そうですし、いつかまた日本でのライブも観たいです。

ぜひ来ていただきたいですね。ライブも、最近はマジソン・スクエア・ガーデン以外でもやっているんですよ。こちらとしてはいつでもウエルカムなので、いつかの来日に期待を込めて、ビリーの勇姿を見る日を待ちたいと思います。

「ピアノ・マン」をモチーフにしたNHKドラマ『六畳間のピアノマン』でも描かれていましたが、傷ついた心に効く処方箋のようなビリー・ジョエルの名曲は、どんな世代の人々にも響くと思うんですよね。名曲は時代を超えて生きつづけますから、ぜひこれからも多くの方々に聴いてほしいです。

Photo by Art Maillett

文・取材:土屋恵介

<最新情報>

2021年3月4日まで、ビリー・ジョエル ソロデビュー50周年記念ハイレゾアルバムのプライス・オフ・キャンペーンを実施中。
【対象作品】
<スタジオアルバム>『コールド・スプリング・ハーバー ~ピアノの詩人~』(1971年)/『ピアノ・マン』(1973年)/『ストリートライフ・セレナーデ』(1974年)/『ニューヨーク物語』(1976年)/『ストレンジャー』(1977年)/『ニューヨーク52番街』(1978年)/『グラス・ハウス』(1980年)/『ナイロン・カーテン』(1982年)/『イノセント・マン』(1983年)/『ザ・ブリッジ』(1986年)/『ストーム・フロント』(1989年)/『リヴァー・オブ・ドリームス』(1993年)
<ライブアルバム>『ソングズ・イン・ジ・アティック』(1981年)
<ベスト・アルバム>『エッセンシャル・ビリー・ジョエル』(2001年)/『ピアノ・マン:ザ・ベリー・ベスト・オブ・ビリー・ジョエル』(2004年)
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楽曲「ピアノ・マン」をモチーフにしたドラマ『六畳間のピアノマン』(NHK総合)放映中。
くわしくはこちら

関連サイト

公式サイト
https://www.sonymusic.co.jp/artist/BillyJoel/

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