熱い演奏を聴かせる松下奈緒の音楽家としての顔【前編】
2022.04.12
気鋭のアーティストの実像に迫る連載企画「アーティスト・プロファイル」。
今回は、クラシック界で熱い注目を浴びているピアニスト、藤田真央をフィーチャーする。2019年に第16回チャイコフスキー国際コンクールで第2位を獲得し、世界を舞台に目覚ましい活躍を見せている天才。類稀なる音楽性と唯一無二の音色、そして誰からも愛されるキャラクターで巨匠指揮者をも魅了する藤田真央とは、一体どんなアーティストなのか? 生い立ちから師との出会い、最新のレコーディングまで、たっぷり語ってもらった。
後編は、藤田真央を育てた師である野島稔と、あたたかな家族についての話を中心にお届けする。
藤田真央 Fujita Mao
1998年、東京生まれ。東京音楽大学卒業。2019年6月、チャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞。審査員や聴衆から熱狂的に支持され、世界中に注目された。2017年には18歳で、第27回クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール優勝。併せて「青年批評家賞」「聴衆賞」「現代曲賞」の特別賞を受賞。2016年には浜松国際ピアノアカデミーコンクールで第1位に輝くなど、国内外での受賞を重ねている。これまでにヴェルビエ音楽祭、ルール音楽祭、ナントのラ・フォル・ジュルネ、ジョージアのツィナンダリ音楽祭、リガのユールマラ音楽祭などに参加。2020年、有望な若手に贈られる「第21回ホテルオークラ音楽賞」「第30回出光音楽賞」を受賞した。
(前編からつづく)モーツァルトの演奏における藤田真央の音の美しさは格別だが、彼はどの作品の演奏においても、単に“美しい音”というだけではない、内面の心の働きをつぶさに反映するかのような意志のある響きを紡ぎ出す。この“響きへのあくなき探求心”という根本的な姿勢は、ある師との出会いによるものだという。
「高校生のときから師事していた野島稔先生は、ショパン国際ピアノ・コンクールの第1回優勝者であるレフ・オボーリンというロシア人ピアニストの直弟子で、私も十代から自然にロシア奏法を学びました」
野島稔と言えば、1990年代ごろまでピアニストとして第一線で活躍していたが、その後は教育者として後進の育成に尽力している伝説のピアニストだ。その演奏スタイルや風貌からも“孤高のピアニスト”“音の求道者”と呼ぶにふさわしい独特のスタイルを貫き、現在は藤田真央が学んだ東京音楽大学で学長を務めている。
「野島稔先生は『こう弾きなさい』とは絶対に言わないのですが、音、ことに“響き”に関してだけは、『こういう音にしなさい』と強く指摘されます。ときに『右と左の響きを合わせて』といった表現を使われるのですが、そう言われても最初は『どういうことだろう?』と思うわけです。『パンと音を出したときに浮き出てくるハーモニーを合わせるんだよ』と言われて、一つひとつの音を丹念に探っていきました。先生の影響で、音に対して常に深く追求する姿勢が身に付きました。
ある日、用事があって先生の部屋に行ったのですが、『今、これを練習しているから3時間後にまた来て』と言われました。その後、もう1度行きましたら、3時間前に練習していたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番の同じ箇所をずっと練習されているんです。そういう先生でしたね。
当時は17歳ぐらいでしたから、僕としては血気盛んで、リストみたいなヴィルトゥオーゾ的な作品をバーンと弾きたかったのですが、そういう年ごろに先生のような師と巡り会えて、一つひとつの音と向き合うことの大切さを教えていただいて本当に良かったと、今、振り返って思います。特にベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ3作品(第30番~第32番)を学ぶことができたのは大きな財産です。この3作品がどれほど異次元なものであり、作品のなかにどれほど深淵な世界があるのかを感じることができました」
現在、藤田真央はキリル・ゲルシュタインを師と仰ぎ、忙しい演奏活動の合間を縫ってベルリンでレッスンを受けている。日本でもおなじみのピアニストだが、クラシック音楽を原点としながらも、バークリー音楽大学でジャズを学び、再びクラシック音楽へと戻ってきたという異色の経歴を持つ。
「キリル・ゲルシュタイン先生は、一見、野島稔先生とはまったく違うタイプに見えるのですが、実は共通する点が多いと感じています。ジャズ出身ということもあって、響きというよりも譜面にあるモチーフ一つひとつをとても重視します。なので、2回同じモチーフが出て来ると、絶対に違う演奏をしてみせなくてはなりません。それも『自分で考えなさい』と言われます。自分自身で考えさせることで、そのピアニストの可能性を最大限に引き出してくれるんですね。もちろんアイデアも与えてくれますが、強制はしません」
藤田真央とピアノとの出会いは、そもそもどこにあったのだろうか。幼いころから完全なるエリートコースを歩んで来たに違いないと想像していたが、彼自身、まったくその気負いはなかったようだ。
「母としては、ピアニストを目指すとかではなく、『絶対音感があれば便利だろう』という程度で、そういった訓練が受けられる教室に私を通わせたようです。兄が既に通っていたので私も一緒に、という感じでした。そのころ、いろいろな習い事に通っていまして、実はとても忙しかったですね。週末は音楽教室、水曜は水泳、月曜と金曜は塾。毎日予定がびっしりの小学生でした。
水泳は、泳げたはずなんですが、ある日、なぜかどうしても前に進まなくなって……。私は一生懸命泳いでいるつもりなのに、どうやら周りは溺れていると思ったのでしょう。救助が入ってバッと水から引き揚げられました。大勢の前で何という醜態をさらしたことでしょう! ということで、即、辞めました(笑)。結局、最後まで残ったのがピアノです。確かにピアノには打ち込んでいましたし、小学生のころからコンクールに出て、良い点数をいただいたりもしたのですが、“ピアニストになる”という意識はなかったですね」
父親の仕事の関係で、幼稚園の年中から小学3年生まで長野県上田市で育ったという。
「信州は冬が長くて寒いので、外に遊びに行かず、ピアノもたくさん練習できました。そのころのことを思い起こすと、家族でスキーに行ったり、いろいろ楽しい想い出があります」
その後、両親の方針でインターナショナル・スクールでの中学3年間を送る。
「突然、朝から『Good morning!』という英語一色の世界に入ってしまいまして……。中学1年の1学期の終わりぐらいまでは、先生方が言っていることが全然わからなくて、毎日が地獄のようでした。英語が“できるクラス”と“できないクラス”にしっかり分かれていて、私はもちろん後者のクラス。日本語でしゃべると罰が与えられるんです。私と、友人ふたりの3人がいつもその対象で、放課後の居残り勉強に『今日もまたか……』と3人で仲良く慰め合っていました(笑)。でも、今となっては音楽と関係のない中学時代の仲間はとても貴重な存在で、それぞれの道で頑張っている仲間に、いつも刺激を受けています」
藤田真央がようやく“ピアニスト”を意識し始めたのは高校進学の時点だ。しかし、その動機も、彼が東京音楽大学の付属高校に入学するにあたり“特別特待生”としての推薦を受けたからだという。
「それでも『ピアニストになる』という気概はなかったのですが、学費全額免除で学校に入ってしまった以上、もうそういうレールに乗せられることになってしまいまして……」
クラシック音楽とは無縁の家庭で育ったが、ピアニストを志す息子を両親はあたたかく見守り、サポートしてきた。
「父はクラシックのことは全然わからないのですが、私が演奏会で弾く曲は必ずCDを聴いて予習してから来てくれるんです。
今年の秋にブラームスのピアノ協奏曲第2番を初めて弾くことが決まるとすぐに、父は予習を始めました。父に『誰の演奏で聴いているの?』と尋ねたら、『カラヤン&ベルリン・フィル』とのこと。ここまでは良いんですが、『それで、ピアニストは?』と聞くと、『うーん、誰だろう……。ゲザ・アンダって書いてある』と言うので、『えーっ、ずいぶんシブイね!』みたいな感じで、いつもイジっています(笑)」
ほのぼのとした会話から感じられる仲睦まじい親子の姿。藤田真央がつねにニコニコと笑みをたたえ、人を包み込むような癒しのオーラを発しているのは、そんな微笑ましい親子の絆も影響しているのだろうか。
2022年は、年頭に公開されているスケジュールだけでも、フランス、イギリス、イスラエル、イタリアと、海外での演奏が立てつづけに予定されている。その合間を縫って日本でのリサイタルツアーもこなし、多忙な日々を送る。
最後に、「将来をどのようにイメージしているか」尋ねてみると、すかさず彼らしい答えが返ってきた。
「“作曲家に対して真摯に向き合っていく”という姿勢はずっと変わっていないです。演奏活動にあたって、“自分自身をこう見せたい”というのもないですし、私にできることは音楽しかないので、ずっと地道に向き合っていきたいと思っています」
気負うことなく、等身大のありのままの姿で伸び伸びと音を紡ぎ、ときには、予想だにしない大胆な表現で世界の聴衆を魅了しつづける藤田真央。その人間力あふれる豊かな感性から紡ぎ出される音楽とともに、いつまでも世界の人々に“優しい”夢を与えつづけてほしいものだ。
文・取材:朝岡久美子
撮影:干川 修
藤田真央 ピアノ・リサイタル
4月11日(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
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