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アーティスト・プロファイル

活動20周年。すべては歌いつづけるために【前編】

2022.05.02

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気鋭のアーティストの実像に迫る連載企画「アーティスト・プロファイル」。

「ミス週刊少年マガジン」として芸能活動をスタートさせ、今年、活動20周年を迎えた中川翔子。2007年に、“新・ブログの女王”として話題になり、類まれなる才能を発揮。今や、歌手、タレント、声優、女優と、ジャンルを超えた活躍ぶりを見せている。長年にわたり、幅広い年代から注目されつづける“しょこたん”の“幹”となっているものとは。

前編では、デビューからの紆余曲折と、その裏で感じていたことを赤裸々に語る。

中川翔子 Nakagawa Shoko

1985年5月5日生まれ。東京都出身。血液型A型。2002年11月、「ミス週刊少年マガジン」に選ばれる。2006年7月5日、シングル「Brilliant Dream」でCDデビュー。2007年に、ブログの総アクセス数が5億ヒットを超え、“新・ブログの女王”として話題になる。2022年、芸能生活20周年を迎え、5月5日には恒例のバースデーライブを開催。6月8日には、芸能界デビュー20周年を記念した写真集『ミラクルミライ』を発売する。

ここまで本当に一瞬でした

2022年、芸能生活20周年を迎えた、しょこたんこと中川翔子。今年3月には声優として参加したアニメ映画『しまじろうと キラキラおうこくの おうじさま』が公開され、その主題歌「君のまんまが いいんだよ」を通算21枚目のシングルとしてリリース。誕生日である5月5日には3年ぶりのバースデーライブを開催し、6月には、既にネット書店での予約ランキングで1位となっている10年ぶりの写真集『ミラクルミライ』の刊行も控えている。

17歳で芸能界に足を踏み入れ、20年経った今も多方面で活躍をつづけ存在感を放っている中川翔子は、ここまでの20年間をどう感じているのだろうか。

「まず、“20周年”という単語にすごくびっくりしますね。『え? 私が!?』っていう感じです。多くの人に聴いてもらった3枚目のシングル『空色デイズ』が15年前で、大磯ロングビーチでミスマガジンのデビューイベントをしたのが20年前だと思うと、『え? こないだじゃん』くらいに思えて。ここまで、本当に一瞬でした。だけど、毎年のように試練があったり、綱渡りしたこともあったりと、着実に乗り越えてきたものがあるとも思っていて。ここまでやってこられたのは、やっぱり奇跡でしかないなと感じます。本当に、応援してくださる皆さまのおかげでしかないですね。

私は、芸能界に自分がいることがいまだに不思議なんですよね。2000年に、大好きな松田聖子さんが20周年を記念したシングル『20th Party』を出されているんですけど、私は当時、『20周年なんて、超スーパーレジェンドだな。すごいな』って感じてたんですよ。でも、今の私は“超スーパーレジェンド”にはなっていないし、20年前の自分と変わってないような気がしているんですね。いまだに街で知らない人に「しょこたん!」って声をかけられると、『え? なんで知ってるの?』って思う(笑)。そのくらい不思議ですし、芸能界にいる感覚は、今もまったくないですね」

2002年に、講談社が主催する「ミスマガジン2002」で「ミス週刊少年マガジン賞」を獲得し、芸能活動をスタートさせた中川翔子だが、デビュー当時はグラビア撮影の仕事はほとんどなかったそう。

「当時、ジャッキー・チェン事務所日本支部に所属していたんですけど、仕事がなさすぎてクビになって。でもまだ半年くらい『ミスマガ』の契約が残っていたので、『もったいないから、あとちょっとだけでも』ということで、ワタナベエンターテインメントを紹介してもらいました。そこで、『グラビアの即戦力が来たぞ!』ってなったけど、やっぱり1ミリも仕事が来ず(笑)。思ってたのと違うってことで、またクビになりかけたという記憶があります」

ブログを始めて、やっと息が吸えるように

「グラビアの需要はないんだ」と感じていたという彼女に最初の転機が訪れたのは2004年。のちに“新・ブログの女王”と称されるほどの人気になる『しょこたん☆ブログ』をスタートさせたころだ。

「グラビアは好きだけど、自分の個性が出せるわけでもないし、せめて及第点を目指そうとしても、うまくできなくて。芸能界に入ったばかりのころは、まだ学生時代の闇を引きずっていたし、“やっぱりダメじゃん”っていう落ち込み方をしていました。そんな私が息を吹き返したのは、ブログを始めたときですね。

それまでは、『アニメが好き』って公言するようなアイドルはいなかったし、デビューしてすぐはそういうことは言っちゃいけないんだと思っていたんです。でも、ブログを始めてからは自分を出せるようになって。『これが好き』って素直に言えるようになってからは、やっと息が吸えるようになった感覚がありました。そこからは、地下の世界で息をしているだけでも十分に幸せだったんですけど、事務所のマネージャーが、地下と地上をつなぐ役割をしてくれて、テレビにも出られるようになってアニソンを歌うこともできたり、それまでの夢が一気に叶い出した。そのころは、本当に毎日、どんどん世界が変わっていく感じだったことをよく覚えてますね」

2005年には、浜田雅功が司会を務め、松本人志も出演していたバラエティ番組『考えるヒト』で見せた、高い画力と楳図かずおに影響を受けたホラータッチの絵柄でダウンタウンを驚愕させたり、情報番組『王様のブランチ』にもレギュラー出演するようになる。

タレントとして人気と知名度をあげていった中川翔子は、2006年には1stシングル「Brilliant Dream」で歌手デビュー。2007年、3rdシングル「空色デイズ」をリリースし大ヒットさせると、『NHK紅白歌合戦』にも出場を果たした。

「『空色デイズ』の発売日はすごく緊張してましたね。久々の休みの日でエステに行ってたんですけど、施術中もずっとドキドキしてて。携帯で、“3位”っていう速報を見たときには、『うわ!』って言って、全裸で飛び上がりました(笑)。紅白出場が決まったと聞いたときも、驚いて後退りして、後ろにあったロッカーにぶつかって、尻餅をついたのを覚えてますね」

「空色デイズ」は、『新世紀エヴァンゲリオン』を制作したGAINAXが11年振りに手掛けた作品として大きな話題となっていた、アニメ『天元突破グレンラガン』のオープニングテーマとして注目された。

「私は学生時代は“陰”だったけど、芸能界を目指すずっと前から“アニメソングを歌う人になりたい”と思っていて。それが一番の大きな夢だったんですね。でも、私が芸能界のお仕事を始めたころは、アイドルが歌を歌う時代ではなくなっていた。だから遠回りはしたけど、結果的にはアニメソングを歌うことができて、その夢が叶いつづけている。今、こうして20周年を迎えられているのも、歌があったからだと思うんです。バラエティタレントとしてだけだったら、2、3年で飽きられて、もういなくなってたかもしれないなって」

言霊って絶対にある

今では日本が世界に誇るポップカルチャーとなった漫画やアニメ、ゲーム、アイドルやコスプレ、フィギュアやメイド喫茶などを、 “オタク”文化として偏見を持つ人もいた時代に、彼女はブログを通して自分が好きなものや影響を受けたものを発信しつづけた。

「私は、ブログから始まって、今までのほぼ20年をSNSとともに歩んできてるんですよね。ブログやSNSで言ったことが現実になったりして、言霊って絶対にあるなって実感します。お仕事にするつもりはまったくなく、自分の思いを言葉に込めるのが好きで、SNSをそういうふうに使っていたら、ありとあらゆることが叶っていきました。

電子の海を漂った言葉たちが、そのときすぐじゃなくても、時を超えて誰かの元に届いて、夢が具現化していく。まだSNSをやってた人が少なかった当時、マネージャーに、『しょこたん☆ブログ』はデスノートならぬドリームノートだな、って言われたことがありました。“これを仕事にしたい”と思って書くと邪念が乗るので、それは違う。脳内で湧いた泉をそのままブログやSNS上に解き放ってきたのが、何らかの効果になったんでしょうね」

中川翔子が、名前のインパクトと形の面白さから引き込まれて、SNSで紹介した海洋生物“スカシカシパン”は、のちに本人の絵でヒーローキャラクターとなり、アニメ化もされ、菓子パンとしても販売された。また、Twitter に「しんかい6500に乗って、深海に行きたいな」と綴った2年後には、テレビ番組の企画で、有人潜水調査船『しんかい6500』に搭乗し、深海生物の観察と捕獲のミッションを遂行するなど、言霊による夢の実現は枚挙にいとまがない。

「ただ好きすぎるっていうだけで、そんなつもりはなかったんです、っていうことはたくさんありますね。アニメ『クリィミーマミ』が大好きだったことから、飼い猫にマミタスって名前をつけ、そこから『mmts(マミタス)』というファッションブランドができて、本家の『クリィミーマミ』とのコラボ商品ができたり、マミタス主演のアニメ『おまかせ!みらくるキャット団』もできたりしました。

私自身としても、憧れのジャッキー・チェンや松田聖子さん、楳図かずおさん、鳥山明さんとお会いできたし、大好きな『美少女戦士セーラームーン』や『ドラゴンボール』にも声優として参加させてもらいました。子どものころに大好きで憧れていた人や作品と、大人になって出会ったり、愛情が形になっていったりしてるんですよね。小学生、中学生時代の、学校に馴染めずにめちゃくちゃ落ち込んでいた自分に教えてあげたいなっていう出来事だらけです。もちろん、ピンチやトラブルもあったけど、それもギリギリで助かる奇跡が積み重なっての今ですね」

SNSで何かを発信するたびにネットのニュースになるほど、良くも悪くも、常に注目を浴びつづけてきた。冒頭で「毎年のように試練があり、綱渡りでもあり」とも語っていたが、数々のピンチやトラブルはどう乗り越えてきたのだろうか。

「メンタル的に、“もう無理だ”ってなったことも山ほどあったんです。でも、自分のなかにはこれまで積み重ねてきた細い塔のようなプライドもあって。もう無理だけど、ここで辞めたら悔しいよな……、せめて、ライブに来てくれたお客さんの前でだけは頑張ろう! と思って立ち上がったら、お尻の骨を骨折しちゃったこともありました(笑)。それで、『じゃあ、もうやめろってことかよ、おい! 現実って嘘みたいに酷いことが重なったりするんだよな』って夜中に泣いて。でも、そんなときにふと、ささきいさおさんの『君の青春は輝いているか』を聴いて、『そうですか! わかりました!』って強い気持ちをもらえたんです。普通に健康なときに聴いても、『素敵だな』くらいで終わってたんですけど、落ちてるときに聴いたら、うわ! って胸に突き刺さったんです。

去年もしんどすぎて、気持ちがつづかないし、お仕事休もうかなってくらい落ち込んでいたことがあって……。コロナ禍っていうこと以上に、仕事とプライベートのバランスが取れなくなって、心がボロボロになって。正直、それでも笑顔でやらないといけないのはきついなって感じていたんですね。そんな最中に日本武道館で『綺麗ア・ラ・モード』を歌う機会があったんです。この歌は、2008年に松本隆さんと筒美京平さんに書いていただいた曲なんですけど、レコーディングのときはガチガチに緊張して、松本隆さんに冗談交じりで、『君、下手くそだね』って言われた覚えがあります(笑)。筒美京平さんには『年齢を重ねるごとに歌いやすくなる曲だから、ライブでも歌い重ねていって』って言われました。松本隆さんにも、『30年40年残る宝石だから、大事に歌ってね』と言っていただいていた、大切な曲で。

メンタル的には最悪で絶望的な状況だったんですけど、“どんなときでも笑顔で、お仕事は完璧にやらなきゃいけない、絶対にみんなにわからないように笑顔でやり切らないといけない”という思いで歌ったら、松本隆さんが『すごい良かったよ』って耳打ちしてくださって。それがめちゃくちゃうれしかったし、痺れましたね。“レベルが上がる”と私は表現していますけど、そういうことを積み重ねていくと、今の自分の夢である、“貫禄を身につけた、深みや味わいのあるシャンソン歌手”につながるのかなって思ってます」

後編につづく

文・取材:永堀アツオ
撮影:荻原大志
スタイリング:尾村 綾(likkle more)
ヘアメイク:灯(ルースター)

ライブ情報

『Shoko Nakagawa LIVE 2022 三年ぶりのバースデーライブレベルアップ進化そして20周年パーティー!みんなでドリドリしながら天元突破でフレフレしようぜ!』
 
2022年5月5日(木) 東京・チームスマイル 豊洲PIT
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