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連載Cocotame Series

担当者が語る! 洋楽レジェンドのココだけの話

ジョー・ストラマー【前編】パンク・イズ・アティチュード──言葉と姿勢がとにかくカッコ良い

2022.06.06

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世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。

今回のレジェンドは、不世出のパンクロッカー、ジョー・ストラマー。没後20年である今年は、彼がフロントを務めたザ・クラッシュのデビュー45周年でもあり、大ヒットアルバム『コンバット・ロック』の40周年記念盤もリリースされた。ジョー・ストラマーとザ・クラッシュの歴史と功績を、ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルの担当者に聞く。

前編では、ザ・クラッシュの人気ぶりやジョー・ストラマーの魅力を、逸話を交えながら語る。

ジョー・ストラマー Joe Strummer

1952年8月21日生まれ、2002年12月22日没。イギリス出身。1977年、ザ・クラッシュのボーカル兼ギタリストとしてレコードデビュー。1999年、ジョー・ストラマー&ザ・メスカレロスを結成。また俳優として、『ストレート・トゥ・ヘル』(1987年)、『ミステリー・トレイン』(1989年)などのアート系映画にも出演した。

  • 白木哲也

    Shiroki Tetsuya

    ソニー・ミュージックレーベルズ

  • 栗原憲雄

    Kurihara Norio

    ソニー・ミュージックレーベルズ

『ロンドン・コーリング』は「売れる」と思った

──まず、おふたりそれぞれの、ジョー・ストラマーとの関わりを聞かせてください。

栗原:私は1979年にCBS・ソニーに入社しまして、そのあとすぐ、ザ・クラッシュの3作目のアルバム『ロンドン・コーリング』(1979年)が発売になったんです。そこから最後のアルバム『カット・ザ・クラップ』(1985年)まで、営業担当としてザ・クラッシュの注文を一生懸命取ってました。

白木:僕は高校生くらいのころからパンクを聴き出して、『ロンドン・コーリング』が発売されたときには、完全にいちファンでした。仕事での接点で言うと、2004年に僕が旧ソニー・ミュージックダイレクト(以下、SMDR)に異動になって、その年に出た『ロンドン・コーリング 25周年記念盤』(2004年)からザ・クラッシュの担当になりました。その後も、2006年に『the CLASH SINGLES '77-'85』というアナログのボックスセットを担当しています。

そしてジョー・ストラマーは、1999年の『フジロック』でライブを観ました。あと、ザ・クラッシュのギタリストだったミック・ジョーンズのバンド、ビッグ・オーディオ・ダイナマイト(BAD)が2011年に再結成したときに『フジロック』に出たんですが、そのときにミック・ジョーンズへのインタビューに立ち合ったりしましたね。

ザ・クラッシュ The Clash

(写真左より)ミック・ジョーンズ(ギター)、ジョー・ストラマー(ボーカル)、トッパー・ヒードン(ドラム)、ポール・シムノン(ベース)。1977年、アルバム『白い暴動』でデビュー。本作のほか、『動乱(獣を野に放て)』(1978年)、『ロンドン・コーリング』(1979年)、『サンディニスタ!』(1980年)、『コンバット・ロック』(1982年)、『カット・ザ・クラップ』(1985年)の全5作品を残し解散。2011年、ロックの殿堂入りを果たす。

──改めて、リアルタイムのザ・クラッシュにはどんな印象を持っていましたか?

栗原:1978年にEPICソニーが設立され、ちょうど1979年に『ロンドン・コーリング』が出たので、レーベルアイデンティティとして、EPICソニーはロックンロールのレーベルであるという打ち出をしていこうというところでした。個人的な話をすると、私はブルース・スプリングスティーンの担当になりたくて入社したんですが、当初は北海道で営業をやってたんです。

もちろん、ソニーミュージックに入る前からザ・クラッシュのことは知ってたんですけど、パンクというジャンルだったこともあって、一般的に売れるのかな? と思っていたんです。そしたら『ロンドン・コーリング』が結構売れて、それが当時の記憶として残ってますね。

ザ・クラッシュ

──栗原さん個人的には、『ロンドン・コーリング』にどんなイメージがありましたか。

栗原:これは売れると思いました。レーベルの打ち出し方も上手だったし、表題曲「ロンドン・コーリング」の荒ぶってる感じが、とにかくカッコ良かった。まだレコード会社に入って1年にも満たなかったんですが、直感的に“これはいける!”って気がしました。

ちょうど、1970年代半ばくらいから、ロック自体がメジャーなビジネスになっていたので、個人的にはロックのスピリット、精神性が失われていた気がすごくしてたんですね。売れるレコードを作って、世界ツアーを回って、っていうのが、ロックアーティストの王道になっていったタイミングでした。

そんなときに、エルヴィス・プレスリーのデビューアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』(1956年)を模した『ロンドン・コーリング』のジャケットを見て、これはロックの原点回帰だなって思えたんです。ロックが失ったものをもう1回再生するぞっていう気概を感じ取ったところもありました。ロックはこれだよねって思えたところも、いけるんじゃないかと思った要因です。

『ロンドン・コーリング』(1979年)

『エルヴィス・プレスリー登場!』(1956年)

──その前に発売されていたデビューアルバム『白い暴動』(1977年)、2枚目『動乱(獣を野に放て)』(1978年)などの邦題にも、意気込みを感じます。

栗原:そうですね。『白い暴動』ってタイトルからも、荒ぶるザ・クラッシュの始まりを感じますよね。

『白い暴動』(1977年)

『動乱(獣を野に放て)』(1978年)

──白木さんはいかがでしたか?

白木:僕は、セックス・ピストルズを筆頭にパンクバンドがいろいろ出てくるなかで彼らを知ったんですが、たぶんラジオで『白い暴動』からの曲を聴いたんです。ど直球のパンクのイメージでした。それで『ロンドン・コーリング』を買ったら、あれ? って思った記憶があります。あのころロックを聴き始めた人は、ザ・クラッシュで初めてレゲエやスカといったジャンルの曲を聴いたんじゃないですかね。

ザ・クラッシュは、デビューからそんなに時間が経ってないのに、『ロンドン・コーリング』でいきなり音楽性が広がるんですよね。ストレートなパンク、ロックンロールのザ・クラッシュが好きな人はたくさんいたと思うんですけど、彼らにはポップな曲もあるし、レゲエやスカといった、僕にとってはそれまで聴いたことないようなタイプの曲を初めてロックのフィールドで聴かせてくれたバンドでした。何よりパンクって、ツンツンの髪に革ジャンのイメージだったのが、『ロンドン・コーリング』でのスーツにロングコートという格好のザ・クラッシュの姿が、本当にカッコ良かったです。

ザ・クラッシュ

ただ、当時はライブで動いている姿を観ることができなかったのが残念でした。彼らは、1982年に一度だけ来日ツアーを行なっているんですが、NHKの『ヤングミュージックショー』が撮っていた映像をテレビで見ましたね。ジョー・ストラマーが“団結”と書かれた鉢巻を巻いていて、しかも、番組の演出でいきなりジョーの言葉や歌詞が画面にバーンと出たりして、ものすごい衝撃を受けました。ライブはもちろん、ファッションやたたずまい、すべてがカッコ良かった。

『コンバット・ロック』は身近なザ・クラッシュが詰まった1枚

──白木さんが言われた通り、ザ・クラッシュは、パンクだけじゃなくいろんなサウンドを聴かせてくれるバンドでした。

白木:いろんな音楽性を次々に見せていって、『ロンドン・コーリング』の次の『サンディニスタ!』(1980年)ではヒップホップやダブも取り入れていて、さらにすごいところに突き進んじゃったなと思いました。でも、その次の『コンバット・ロック』では、進化しつつも、何か原点に戻ったような感覚もありました。アメリカでのヒットを狙ったというところもあったのかもしれないですね。

栗原:2枚組の『ロンドン・コーリング』につづき、『サンディニスタ!』は3枚組のアルバムで、しかも、サウンド的にとっつきにくさもあったんです。日本でのセールスは、やはり芳しくなかったですね。

『サンディニスタ!』(1980年)

そのあとに出たのが『コンバット・ロック』で、この1枚は、非常に身近なザ・クラッシュが詰まった感じがあって、やっぱり良いバンドだなと思った印象があります。

白木:でも、1977年から1982年って、ほんとに短期間なんですよね。1982年にトッパー・ヒードン、1983年にミック・ジョーンズが脱退したあとも、ジョー・ストラマーとポール・シムノンは新しいメンバーを迎えて、アルバム『カット・ザ・クラップ』を出しましたが、やっぱり1982年の『コンバット・ロック』までの、ジョー、ミック、ポール、トッパーの4人によるザ・クラッシュに、すべてが凝縮されていると思うんです。たった5年の間にこんなに進化を遂げ、でも根幹の姿勢は変わらない、ぶれない。

『カット・ザ・クラップ』(1985年)

ザ・クラッシュは、セックス・ピストルズと並ぶパンクを代表するバンドとも言われていますが、ある意味では、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、クイーンといったバンドと並び称されても良いぐらいだと思いますね。もちろん、売り上げ的には全然違いますけど、多くの人に影響を与えたという意味でそういう位置付けができるバンドだという気がします。

音楽的にもそうですが、でも一番は、男が男に惚れるみたいなタイプのバンドなんですよね。「Punk is attitude.not style(パンクとは姿勢で、スタイルじゃない)」というジョー・ストラマーの有名な言葉がありますけど、一つひとつの言葉、姿勢、表現していることを含めて、ひと言で言うと、超カッコ良いバンドって感じですね。

言葉の一つひとつが突き刺さる

──今ではパンクのアイコンにもなっているジョー・ストラマーは、どういう人物だったんでしょうか。

白木:ここまで語ってきた、ザ・クラッシュのすべてのイメージを体現してる人だと思います。直接お会いしたことはないんですが、いろんな方からのお話を聞いたりすると、それをすごく感じますね。

僕と栗原さんが以前所属していたSMDRの社長だった野中(規雄)さんが、ザ・クラッシュの初代ディレクターで、日本のザ・クラッシュ像を作り上げた方なんです。『the CLASH SINGLES '77-'85』のときには、定年退職間近の野中さんにディレクターをお願いしました。野中さんは、1980年のザ・クラッシュの『16トンズツアー』に、音楽評論家の大貫憲章さんとKAZ宇都宮さんと、3人で同行したんですよ。

──それはすごいですね。

白木:そのとき、ジョーに「この本を読め」と本を勧められて、驚いたそうです。ジョーの言葉や歌詞は、ひと言ひと言、すごくインパクトがありますが、たぶん、彼が今まで読んできた本から得た見識や経験してきたことを、次の世代をほんとに心配して、真剣に伝えようと思って言葉を曲に乗せた。だからこそ、その言葉の一つひとつが突き刺さるんだと思います。

──ただ体制に反抗するというのではなく、魂を鼓舞するような言葉が多いですよね。

白木:そうなんですよね。野中さんはそのツアーで完全にザ・クラッシュにノックアウトされちゃったそうです。当時のロンドンでのパンクのライブはめちゃくちゃ危険で、しかも、観客がツバを飛ばすのがお約束みたいな感じだったんですが、野中さんはツバまみれになりながらも、いつの間にか一番前まで行っちゃって、ミック・ジョーンズの靴を撫でていたそうです(笑)。さらに野中さんの逸話で言うと、1982年の来日公演時に、ジョーの左腕に日本語が書かれていたんですが、それをジョーに頼まれて書いたのが野中さんです。

ザ・クラッシュ

──栗原さんが感じるジョー・ストラマーの魅力とは?

栗原:歌詞を読むとアジテーションというか煽ったものが多いですし、やっぱり、戦う人というイメージですね。曲がったことが嫌いみたいなところを感じます。それが思うようにいかないこともあるんでしょうけどね。

あと『ロンドン・コーリング』が2枚組にもかかわらず、本国UKではアルバム1枚の値段で出したり、ライブチケットも1,000円しなかったんですよね。それもファンのことを考えて、レコード会社やイベンターと戦ってたわけですよ。そういうところが、ジョーのすごさだと思います。政治や人種問題といったことを訴えつつ、自分の身近なこともしっかりケジメをつけてやっていた人という印象がすごくあります。

白木:以前、KAZ宇都宮さんが書いたライナーノーツのなかに、ジョーらしいエピソードがありました。ザ・クラッシュは、東南アジアではあまり知られてなかったんですが、『サンディニスタ!』のリリース直前くらいに、大学を回るカレッジツアーをやって、タイのバンコクに行ったんです。当時、バンコクでは学生運動が盛んで、銃を持った警察官がステージを囲んで警備の準備をし始めたんですが、それを見たジョーは怒って、自ら警察所長を訪ねて何時間も説得して、バンコクで初めて、銃のないロックコンサートにしたそうです。そういう本気の人なんですよ。

──言行一致の人であると。

白木:まさに、意思と行動に筋が通っていて、しかもなによりファンを大切にする人だっていうのがわかりますよね。ちなみに『コンバット・ロック』のジャケット写真は、そのときのバンコクの大学の横にある線路で撮ったものです。

『コンバット・ロック』(1982年)

──40周年記念盤がリリースされたアルバム『コンバット・ロック』ですが、本作からは「ロック・ザ・カスバ」がスマッシュヒットになるなど、ザ・クラッシュの大ヒット作となったわけですが、発売された当時の印象を教えてください。

栗原:当時、私は札幌でレコード店の営業をしてたんですけど、同時にディスコでのプロモーションもやってたんです。それで、札幌のディスコで、『コンバット・ロック』からシングルカットされた「ロック・ザ・カスバ」をかけてくれというプロモーションもしてました。最初は、“ザ・クラッシュがディスコに合うのか?”と思ったんですが、BPMが踊るのにちょうど良かったのもあって、結果的に、ディスコでよく流れたという記憶がありますね。ザ・クラッシュで踊るっていうインパクトは大きかったんじゃないかなと思います。

あと、私は「ステイ・オア・ゴー」が好きですね。彼女に向けて、「俺は居るべきか、出ていくべきか、どっち?」って歌う、ザ・クラッシュのカッコ良さからはかけ離れた歌詞で、その感じが特に好きでしたね。いずれにせよ、ザ・クラッシュのなかでは一番とっつきやすいアルバムで、チャートにも反映されました。

The Clash - Should I Stay or Should I Go (Official Visualiser)

白木:『コンバット・ロック』は世界的に売れたんですが、なかでもアメリカで一番売れたアルバムなんですよね。きっかけは「ロック・ザ・カスバ」がラジオで爆発したことでした。ファンクバンドみたいなギターのカッティングとか、ダンサブルなリズムとかがすごくハマったんでしょうね。いまだにそうですけど、あまりにもイギリスっぽいものってアメリカではウケないんですよ。アメリカ向けに作ったわけじゃないでしょうけど、結果的にアメリカのマーケットで受け入れられるような楽曲になったのかなと思います。あと、当時はMTVが全盛期で、ミュージックビデオの効果もあって、ドカンと行っちゃった感じですね。

The Clash - Rock the Casbah (Official Video)

──全米チャートでは、アルバム『コンバット・ロック』が7位、シングルの「ロック・ザ・カスバ」が8位を記録しました。当時としてはすごいことですよね。

白木:アメリカのシングルチャートのトップ10に、イギリスのパンクバンドの曲が入るなんて、本人たちも驚いたでしょうね。ただ、いちファンの勝手な見方ですが、それが彼らにとって良かったのかどうかはわからないなって思ってしまうんです。

後編につづく

文・取材:土屋恵介

リリース情報

『コンバット・ロック+ザ・ピープルズ・ホール(40周年記念盤)』
試聴・購入はこちら(新しいタブで開く)

 

『コンバット・ロック(40周年記念Clear Vinyl)』
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関連サイト

公式サイト
https://www.sonymusic.co.jp/artist/TheClash/(新しいタブで開く)

 

『コンバット・ロック』40周年特設サイト
https://www.110107.com/clash_combat_rock(新しいタブで開く)

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