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連載Cocotame Series

THEN & NOW 時を超えるアーティスト

野宮真貴インタビュー:「歌とおしゃれ。私のテーマはずっと変わらない」【前編】

2022.07.14

日本の音楽シーンで存在感を放ち、時代を超えて支持されつづけるレジェンドアーティストをクローズアップ。本人へのインタビューで、過去と現在の活動を辿る連載「THEN & NOW 時を超えるアーティスト」。

今回登場するのは、1981年にシングル「女ともだち」でデビューし、歌手活動40周年イヤーをさまざまな活動で彩っている野宮真貴。2001年に解散したピチカート・ファイヴ最後のボーカリストであり“渋谷系の女王”と言われる野宮真貴にとっての40年間とは。これまでの出来事を振り返りつつ、現在の想いを聞く。

前編では、ソロデビューからピチカート・ファイヴ参加、そして解散後ソロ活動をスタートさせるまでを語る。

  • 野宮真貴

    Nomiya Maki

    1960年3月12日生まれ。北海道出身。1981年9月、シングル「女ともだち」でソロシンガーとしてCDデビュー。1982年、音楽ユニット、ポータブル・ロック結成。その後、1990年に3代目ボーカリストとしてピチカート・ファイヴに加入。「東京は夜の七時」などのヒット曲で、“渋谷系”と呼ばれた音楽ムーブメントを牽引した。2011年よりソニー・ミュージックアーティスツ所属。2022年4月にデビュー40周年記念アルバム『New Beautiful』をリリース。

歌手デビューした1981年はアイドルの時代

――ソロシンガーとしてデビューし、ポータブル・ロック、ピチカート・ファイヴへの参加を経て、昨年、活動40周年を迎えられました。幼少期から、長く歌っていくことを想定していましたか?

そうですね。“歌とおしゃれ”が私の生涯のテーマなんですけど、子どものころから本当に歌を歌うことが好きで、素敵な服を着て素敵な歌を歌う歌手になりたいという夢がありました。

――ソロ、ユニット、バンドと形は変わっていっても、ずっと“歌とおしゃれ”が根底にあるのは変わっていないんですね。

そこはずっと変わらないですね。子どものころはすごくシャイで、あまりしゃべらなかったんですけど、“自分はここにいる”ってことは伝えたい。そう思ったときに、歌を歌うことで伝えていけば良いんだと思ったんですね。そうするとしゃべらなくて良いから(笑)。

おしゃれをすることが好きだったのは、母親の影響ですね。すごくおしゃれな人で、小さいころからお洋服を作ってくれたり、私がデザインしたものを形にしてくれたりしたし、人と同じじゃないといけないって言われたことが一切なかった。それで幼いころに、きれいな衣装を着て、スポットライトを浴びて歌える職業、歌手って素敵だなと思って。それから、10代でロックを聴き始めて、バンドを組んだり、コンテストに出たり、いろいろとやって、デビューのきっかけを見付けました。一貫して、音楽だけじゃなくてビジュアルも楽しめるスターみたいなものに憧れていたし、自分もそうなりたいっていうのがずっとあるんですよね。だから、今も変わらず、それだけはブレずに40年間貫いています。

40周年を記念して、5月25日から10作品が配信されている。

――野宮さんの40年間のキャリアを振り返ると、1981年のソロデビューから現在に至るまで、ちょうど10年ごとにターニングポイントを迎えています。最初はソロシンガーとしてのスタートでした。

ニューウェーブが出てきて、音楽界がガラッと変わった時期でもあったんですけど、歌手デビューした1981年の9月は、ちょうどアイドルの時代で。

――1980年に松田聖子、柏原芳恵、河合奈保子らがデビューして、同期だと、伊藤つかさ、松本伊代、薬師丸ひろ子らがいて、“花の82年組”と呼ばれる翌年は、小泉今日子、中森明菜、原田知世、早見優、石川秀美、堀ちえみらがデビューしています。

自分もそういう時代にデビューしてるんだけど、メインストリームではなくて、ちょっとエッジの効いた“ニューウェーブ少女”みたいな感じでした。当時から、知る人ぞ知る存在だったロックバンド、ムーンライダーズの(鈴木)慶一さんプロデュースで、『ピンクの心』というすばらしいアルバムもできたんだけど、ちょっとエッジが効きすぎていたからなのか(笑)。今聴いてもすごく好きなアルバムですし、素晴らしい作品を残せたと思ってはいますが、当時はヒットしなかったんですね。

その後、ソロデビューしたときにバックバンドを務めてくれた鈴木(智文)君と中原(信雄)君とポータブル・ロックを組んで、慶一さんのご実家の湾岸スタジオで、1年くらいかけてデモテープを録って。アルバムを2枚出しましたが、ヒットと呼ぶまでにはいかなくて、メンバーそれぞれほかの仕事もやってました。

ポータブル・ロック(2022年)

――ポータブル・ロックのほかは、どんな活動をしていたんですか?

CMソングを歌ったりしてましたね。幼いころからの夢である歌手になることは諦めることはなく、常に音楽の近くにいようっていう想いで、CMソングを歌ったり、ほかのアーティストのバックボーカルをやったりしながら、ポータブル・ロックの活動もつづけました。でも、そういうのも全部、のちの自分の糧になっていて。私は専門的な音楽の教育は受けてないので譜面も読めないんですけれども、CMソングをやったことで、一度聴いてメロディを覚える能力や、ディレクターの指示を的確に表現できるボーカルの力が身についた。全部無駄にはなってないんですよね。

ポータブル・ロックは本当に仲が良くて、一緒に青春時代を過ごしたバンドなんです。音楽も作ったし、たくさん遊んだし、一緒にスターになることを夢見て。残念ながらヒットとまではいきませんでしたが、ものすごくヒットしないというのは、同時に自由に好きなことができて、好きなことをやりつづけることができるということなんですね。それぞれ音楽をつづけながら、40年、仲良くやっていて、今も、また一緒にアルバムを作ったり、ライブができる。

だから、ヒットしすぎないとか、ものすごく売れないってことは決して悪いことじゃないと思うんです。「私たちは売れなくてもやめない」っていう選択をしたんですね。ポータブル・ロックは、今ふうに言うと、サステナブルなバンド。いつでもどこでも持ち運び可能なポータブルなロックバンドです。これからも緩くつづけていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。次は、8月28日、京都メトロで10年振りのライブです!

――1986年にポータブル・ロックの「春して、恋して、見つめて、キスして」がコーセーのCMソングに起用され、今年5月にリリースされたオールタイムベストアルバム『PAST & FUTURE ~My Favorite Portable Rock』に収録された20年ぶりの新曲「Lonely Girl, Dreaming Girl」がノエビアWeb CMのCMソングになりました。36年ぶりの化粧品CMタイアップということでも話題になりました。

ノエビアブランドWEB CM「2022年 夏秋篇」

そうそう。1981年の私のデビューシングル「女ともだち」は資生堂のシャワーコロンのCMソングだったんです。ポータブル・ロックではコーセーをやって、今回、ノエビアでしょ。ピチカート・ファイヴではカネボウのCMソングをやっているので、ほぼ全部の化粧品のタイアップをやってるなと思いましたね(笑)。

世界で東京が一番クールな街

――1990年には、ピチカート・ファイヴに3代目ボーカルとして加入しました。1990年代の10年間というのは、野宮さんにとってはどんな日々でしたか?

自分の40年間のキャリアを考えると、ピチカート・ファイヴで活動していたのはそのうちのたった10年間なんですけど、一番皆さんに知っていただくことにもなったし、一番たくさん曲も歌ったし、一番ライブもしたし、一番濃い10年間でした。小西(康陽)さんとの出会いがあって、小西さんが私が歌うためのオリジナル曲をずっと書いてくれていた。特に私が3代目のボーカルで入ってからは、音楽とビジュアルの両方を同じくらい大事にしていたので、私が幼いころに思い描いていた“歌とおしゃれ”を表現するシンガーになることが本当に実現したグループでもありました。

PIZZICATO FIVE / 東京は夜の七時

――ピチカート・ファイヴ、オリジナル・ラヴ、フリッパーズ・ギターといった“渋谷系”アーティストのなかでも、野宮さんは“渋谷系の女王”と称され、ブームを牽引しました。ピチカート・ファイヴは、1994年には北米デビューも果たし、ワールドツアーも行ないました。

もともとは海外進出というのを目標に活動していたわけではなかったんですね。それは小西さんも同じなんですけど、だから、基本的にはライブもレコーディングも日本語で歌っています。英語曲が数曲ありますけど、日本での活動とまったくスタンスは変えずに、自分たちのオリジナルとしてやって。それが、自分たちの想像以上に海外で受け入れられた。本当にワールドツアーはどこもソールドアウトだったので、いわば、外タレですよね。外タレ気分を味わいました(笑)。

――海外でのライブはどうでしたか?

本当にすごい盛り上がってましたね。自分たちでも、なんでこんなに受け入れられたのかが不思議でした。今、日本のシティポップが世界で人気ですけれども、1970~80年代の日本は、海外の音楽に憧れて、真似することから始めて、日本オリジナルの素晴らしい作品を作るようになっていきました。1990年代にピチカートが海外で活動していたころは日本は景気が良くて、世界中のほぼすべての商品やカルチャーを楽しめて、それを私たちの世代のアーティストが自由に取り入れて表現していました。世界で東京が一番クールな街みたいな感じになってたんです。なので、私たちも「from TOKYO」って言っていました。日本から来たバンドというよりも、東京代表の一番クールなポップバンドみたいな感じでしたね。

私は“東洋のバービードール”という表現もされたりしましたけど、クラブに通うような感度の高いファッション好きの若い子たちにも支持されたし、ドラァグクイーンやゲイカルチャーの人たちも受け入れてくれて。あと、世界中にいる小西君みたいな音楽マニアの人たちが、ピチカートが作り出す音楽を評価してくれた。日本も同じですけど、その3種類ぐらいのファンが世界中にいるんですよね。そういう人たちに支えられましたし、映画監督のティム・バートンとか、ファッションデザイナーとか、クリエイターの人たちにもすごく評価してもらいました。アメリカのバーニーズニューヨークの店内BGM
でピチカートの曲が流れていたりして、ちょっとうれしかったですね。

――映画『プレタポルテ』(1994年)や『チャーリーズ・エンジェル』(2000年)、『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』(2002年)などにも楽曲が起用されましたね。

そうそう。あとは当時のパリコレのランウェイで、DJが「トゥイギー・トゥイギー」をよくかけてくれて。「クール!」みたいな感じでみんな踊ったりしてました。そういう時代でした。面白かったですね。

Pizzicato Five - Twiggy Twiggy (Official Music Video)

――ピチカート・ファイヴは2001年3月に解散を発表しました。当時はどんな心境でしたか?

野宮真貴=渋谷系の女王みたいなイメージが確立されていたので、そのあとをどうしようかなっていう不安もありましたけど、まあ、どうにかなるかなっていう(笑)、意外と楽観的な感じではありましたね。あとは、やっぱり10年間、小西さんとずっと一緒にやってたので、ソロになることでいろんなアーティストとまた音楽を作ることができるのがちょっと楽しみでした。

大瀧詠一さんの名言「迷ったら墓参り」

――2000年代はソロでアルバムを3枚出されています。どんな10年間でしたか?

ピチカート・ファイヴの存在があまりにも大きかったから、しばらくはピチカートを意識して歌わなかったんですね。ただ、パーティやイベントで、7時ちょうどに「東京は夜の七時」を歌ってほしいっていうオファーがたくさんあって、そういうことはやってましたけど(笑)。なるべくピチカートでできなかったことをやりたいと思ってましたね。

小西さんとは監督と主演女優みたいな関係性でずっとやってきたんだけど、監督がいなくなったので、次の監督=プロデューサーを決めるところから始めました。それがエディターの川勝正幸さん。最初におっしゃっていただいたように、私は10年おきにターニングポイントがあるんですけど、デビューのときは鈴木慶一さんがいて、1990年代のピチカート時代は小西康陽さんがいて。その後の2000年代は川勝正幸さんと一緒に考えながら作っていったっていう感じですね。

――川勝正幸さんはポップカルチャーに精通したエディターでいらっしゃいましたが、ミュージシャンではないですよね。

そうですね。でも、彼は私のデビュー当時からそばにずっといた方でもあって。ピチカートのときもずっと寄り添ってくださっていたし、私のことをよく理解してくれている人物だったんですね。でも編集者なので、音楽の作り方はちょっと面白かった。まず最初に、アルバムのコンセプトとライナーノーツを書くんです。それに沿って、ソングライターを選んだり、曲を考えたりするっていう作り方でアルバムを3枚作りました。

――2010年代に入り、2011年にはソニー・ミュージックアーティスツに移籍されました。そして、2012年にデビュー30周年記念アルバム『30 〜Greatest Self Covers & More!!!~』をリリースし、あえて遠ざけてきたピチカート・ファイヴのセルフカバーにも着手しました。

『30 〜Greatest Self Covers & More!!!~』(2012年)

2000年代はリサイタルをやったりとか、川勝さんといろいろと新しいことに挑戦してたんですが、デビュー30周年を機に、一度過去を振り返ったんですよね。大瀧詠一さんがおっしゃった「迷ったら墓参り」っていう名言があるんですが、そこで振り返ったときに、やっぱり自分の今までの音楽人生のなかで大きなものを占めているピチカートをもう1回歌ってみようという心境になって。それで、高橋幸宏さんからヒャダインから、いろんな方にピチカートの名曲をプロデュースしてもらって、セルフカバーしました。そこで改めて、ピチカート・ファイヴの音楽の時間が経っても色あせないすごさを再確認しました。「野宮さんが歌うピチカート・ファイヴはやっぱり素晴らしい」みたいな感じで再評価してもらえましたし。

また、アルバムと同じタイミングで『赤い口紅があればいい』というおしゃれエッセイ本を出したり、口紅をプロデュースして、それがおかげさまでたくさんの方に評価していただいてヒットして。私のテーマである“歌とおしゃれ”の両方の部分で、皆さんに支持していただきました。このときのファンの皆さんと私との“歌とおしゃれ”の繋がりが、40周年を迎えた現在にもつづいている感じはあります。エッセイのなかでも書いていますが、「生きているといろんなことがありますが、赤い口紅をキュッと引いて、好きな音楽を聴きながら、前を向いて行きましょう。」と。私のアルバムを聴いたりライブに来てくれたりするファンの皆さんと、一緒に素敵に年を重ねていくというのは、とてもうれしいことですね。

後編へつづく

文・取材:永堀アツオ

ライブ情報

JCB MUSIC LOUNGE Vol.35
JCB Presents 野宮真貴 Live in BLUE NOTE TOKYO

 
日時:2022年9月8日(木)
会場:ブルーノート東京
チケットはこちら
 
ポータブル・ロック40周年記念ライブ
PAST & FUTURE ~My Favorite Portable Rock

 
日時:2022年8月28日(日)
会場:京都メトロ
チケットはこちら
 

リリース情報


『New Beautiful』
発売中
試聴・購入はこちら
 

『PAST & FUTURE ~My Favorite Portable Rock』
詳細はこちら

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