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担当者が語る! 洋楽レジェンドのココだけの話

ホイットニー・ヒューストン【中編】ホイットニーはかなりのエアコン嫌い

2022.12.22

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世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージック所属の洋楽レジェンドアーティストたち。彼らと間近で向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。

今回のレジェンドは、12月21日に『ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ- 』が発売され、12月23日には、映画 『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』が公開になるホイットニー・ヒューストン。1980年代に彗星のごとく現われ、一時代を築いた不世出の歌姫の生涯を追いながら、全盛期に日本でのプロモーションを手掛けたふたりの担当者に話を聞く。

中編では、ヒット曲の数々に付けられた邦題の由来や、来日時に間近で見たホイットニー・ヒューストンの様子を明かす。

ホイットニー・ヒューストン Whitney Houston

1963年8月9日生まれ、2012年2月11日没。ファッションモデルとして活動後、アリスタ・レコードの社長、クライヴ・デイヴィスに見出され、アルバム『そよ風の贈りもの』で歌手デビュー。2ndシングル「すべてをあなたに」のヒットで一躍時の人となる。1992年には、ケビン・コスナーと共演した映画『ボディガード』の主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」が大ヒットし、代表曲となる。私生活では、1992年に人気R&Bシンガーだったボビー・ブラウンと結婚(その後離婚)。2000年代に入ると、さまざまなスキャンダルの影響もあり、活動は停滞する。その後も歌手活動、映画出演をつづけるが、2012年、ホテルの浴室で倒れているところを発見され、48歳という若さでこの世を去った。

  • 北澤 孝氏

    Kitazawa Takashi

    フジパシフィックミュージック

  • 中武宣廣

    Nakatake Nobuhiro

    ソニー・ミュージックレーベルズ

ヒットさせるには邦題が重要だと思われていた時代

前編からつづく)──『そよ風の贈りもの』「恋は手さぐり」といった邦題は、どのようにして付いたんですか?

北澤:今の洋楽は邦題ってほとんど付けなくなっちゃったけど、当時はヒットさせるには邦題が重要だと思われていた時代だったんです。1stアルバムの『そよ風の贈りもの』は僕じゃなくて、一緒に担当していた部下の案で、「良いんじゃない?」って感じで決まったんです。僕が付けたのは、2枚目のアルバム『ホイットニーII~すてきなSomebody』です。

アルバム『ホイットニーII~すてきなSomebody』(1987年)

中武:名タイトルですね。

北澤:ありがとう(笑)。これはさっきの話に通じるんだけど、ホイットニーには、ふたつの異なるものが合わさることによって生まれる魅力があったんです。だから“すてきな”は日本語で、“Somebody”はカタカナじゃなく欧文にして、ホイットニーの音楽を表わしたかったんです。

──タイトルでアーティスト性を表わしていたんですね。

北澤:今はこういうふうに日本語と欧文を混ぜるのも普通になったけど、当時は珍しかったんですよ。

──ホイットニー・ヒューストンは、1986年の『ザ・グレイテスト・ラブ・ツアー』で初来日しています。そのときは現場にいらっしゃったんですか?

北澤:僕はホテルで会って挨拶しました。当時、ホイットニーは23歳でしたけど、すごく感じの良い人でした。イメージほど背は高くなくて、きれいな人でしたね。「日本が好きです」「お寿司が好きです」とか機嫌よく話してくれました。日本武道館でのライブを観ましたけど、素晴らしかったですよ。

中武:日本でも、期待値が一番高いときですよね。

北澤:そうそう。お客さんもすごく入ってました。

──1987年の『ホイットニーII~すてきなSomebody』は、日本でもかなりのセールスだったんじゃないですか?

「すてきなSomebody」Whitney Houston - I Wanna Dance With Somebody (Official 4K Video)

北澤:これは売れましたよ。1stアルバムから3枚のシングルが全米ナンバーワンになって、来日公演があってからの発売だったので、オリコンで11週1位を獲得したんです。

──11週1位はすごいですね。

中武:当時、僕はレンタルレコード店でアルバイトをしていて、『ホイットニーII~すてきなSomebody』は3、4枚入荷したんですけど、常に貸し出し中って感じでした。この作品を聴くとあのころのバブルの雰囲気を思い出しますね。

──そのあとホイットニー・ヒューストンは、1990年に『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト』をリリースします。

中武:このアルバムからBMGでのリリースになるんですが、日本に関してはそこまでのセールスをあげられなかったんです。というのも、この作品からディレクションが変わったんですよ。

──『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト』は、L.A.リードとベイビーフェイスが作品を多く手掛けて、ニュージャックスウィング度が増した作品です。

中武:それまでの、いわゆるゴスペルをバックグラウンドにしたところから離れましたよね。ジャケットも革ジャンを着てバイクにまたがっていたり、最初の2枚のアルバムでイメージしていたホイットニーからガラッと変わったのもあって、セールス的には厳しかったと思います。

北澤:でも、その次の『ボディガード』はかなり売れたでしょ。

中武:そうですね。ここから僕も宣伝を担当することになりました。

東京ドームで「ライブ中はエアコンを切れ」

──1992年のアルバム『ボディガード』には、どんな思い出がありますか? これは、ホイットニー・ヒューストン自身が出演した映画のサウンドトラック盤です。

『ボディガード オリジナル・サウンドトラック』(1992年)

中武:先ほどの北澤さんの話じゃないですけど、これも結果的には大ヒットしたんですが、当時のディレクターが最初に、主題歌の「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を持ってきたとき、会議で大バッシングにあったんです。

北澤:なんで?

中武:あの曲、イントロがないんですよ。いきなりボーカルのアカペラから始まるので、「ラジオでこんなの絶対かかるわけがない」ってみんなが言っていたのを強烈に覚えてます。ですが、結果的には映画も曲も大ヒットしたっていう。何が当たるかわからないってことですよね。

──「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は、ホイットニーの代名詞的なナンバーになりましたね。

Whitney Houston - I Will Always Love You (Official 4K Video)

中武:曲自体がカバーで、まさか、原曲のドリー・パートンのスローテンポのカントリーソングがこんなドラマチックに生まれ変わるなんて。しかも、映画『ボディガード』のなかで、本人の歌うシーンと歌詞がリンクしていて、最高の使われ方をしていますからね。

──そして、翌年の1993年に『ホイットニー・ライブ・イン・ジャパン』と題して、かなり長期の日本ツアーが行なわれました。

中武:9月1日から22日まで3週間以上やって、東京でも、日本武道館で6公演やってるんですよ。

──このときのホイットニー・ヒューストンはどんな様子だったんでしょうか。

中武:これがですね、良いエピソードを思い出そうとしたんですが、実はあまりないんです(笑)。というのは、ホイットニーのチームと仕事するのってすごく大変なんですよ。

北澤:あー、それはあるなぁ(笑)。

中武:現場は、ホイットニーの友人であり、マネージャーのロビンが取材とかも含めて全部仕切ってるんです。僕は1997年の来日まで直接担当してたんですけど、毎回ロビンが来てました。基本的には彼女を通さないと何もできないんです。彼女の機嫌をとるのが、もう大変で(笑)。上司からも「とにかくロビンにギフトを持っていけ」って言われてました(笑)。ボーイッシュな感じで、常にベースボールキャップを被ってサングラスしている人で、とにかくホイットニーを守るんだっていうオーラがすごかったです。

──せっかくなので、中武さんが苦労された話を聞かせてほしいです(笑)。

中武:いっぱいありますよ。まあ、書けない話が多いですが(笑)。取材中、ホイットニーがいっさいサングラスを外さなくて、さすがにまずいなと思ってなんとか外してもらったり。こんなのは全然かわいい話ですが(笑)。まあ、とにかく、ホイットニーのチームが本人をプロテクトしてましたね。

スタッフもすごい人数が来るんですよ。当時のキャピトル東急ホテルのワンフロアを全部借り切ってましたから。40~50部屋あったかな。もちろん全部使うわけじゃないけど、フロアは全部押さえて誰も入れないようにしてましたね。あと、ホイットニーはめちゃめちゃエアコン嫌いなんですよ。だから、常に切れっていうんです。取材の部屋もエアコンを切るんですけど、撮影用の照明が入って暑いので、汗をかくじゃないですか。それで撮影してると、スタッフから「汗が写った映像はすべて使用NG」って言われるんです(笑)。

北澤:大変だね(笑)。

中武:彼女は、コンサートでも記者会見でも、ハンドタオルを片手に持ってるシーンが多いのは、実はそういうわけなんですね。エアコンを切ってたのは、喉のことを考えてたからなんですけど。

──ライブのときは、エアコンはどうしたんですか?

中武:もちろん、それも切れって言われるんですよ(笑)。だから、1993年の日本武道館公演は、エアコンを何度か切ったはずです。そしたら、1997年の東京ドームでもライブ中はエアコン切れって言われたんです。でも、東京ドームは気圧差で屋根を膨らませてるから、与圧の関係でエアコンが切れないんです。

──屋根が潰れちゃいますよね(笑)。

中武:だから結構揉めてました。ライブのイベンターは大変だったと思います。それくらい本人は喉のことをめちゃめちゃ気にしてましたね。

ボビー・ブラウンとの結婚は、まさにスーパーカップルの誕生

Photo by Marc Bryan Brown

──前向きに捉えると、良い歌を届けたいっていう気持ちが強かったわけですね。

中武:そうでしょうね。あとエピソードで言えば、1997年の来日のときは、ボビー・ブラウンと娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンの家族3人で来たんです。バックステージにも行きましたが、家族の部屋があって仲睦まじい感じでした。

北澤:それは良かったね。

──幸せな時代ですね。

中武:そうですね。ホイットニーは、少なくとも1997年までは順調で、パフォーマンスも良かったです。ただ、いろいろあって、2010年に来日したときは、声がまったく出てなかったんですよね。

北澤:あのときは全然出てなかったね。

中武:パフォーマンスが良くなくて、ヨーロッパ、コペンハーゲンではお客さんが騒ぎ出したりとか。

北澤:オーストラリアは何本かキャンセルになったんだよね。

中武:当時、既にいろんな良くない噂が流れてましたし、寂しいですよね。来日に向けて、いくつか取材のセッティングもしたんです。アメリカと日本のテレビ局を衛星回線で繋いでインタビューを行なったんですけど、本人の体調が芳しくなく、精神的にも不安定で、インタビューの途中でマネジメントからカットの声がかかって、ボツになったこともありました。

──いろいろとご苦労があったんですね。

中武:ホイットニー自身が周りに信用できる人間が減っていって、本人にアクセスできる人が限られていったのもありましたね。

──中武さんは、ロビン以外にも、ホイットニーの周辺の方と直接やりとりしていたんですか?

中武:それでいうと、マネジメントをしていたお父さんのジョン・ヒューストンにも会いました。すごい大柄の人でしたね。ニューヨークで年に1、2回アリスタ・レコードのカンファレンスがあるんですけど、そのとき1度「お前、日本の担当か、来てくれ」って全然違うところに呼ばれて、ふたりきりになったことがあるんです。

──どんな話をしたんですか?

中武:僕はレーベルの人間なのでアルバムセールスの話を聞かれるのかと思ったら、とにかく日本のコンサートのことを聞かれました。どんな会場があるのか、どのくらいのキャパなのか、彼女なら何日くらいできるんだって。

──メイクマネー的な話だったと。

中武:そうだったんだと思います。

北澤:やっぱり、親父さんが出てくると良くないよね。

──身近で見て来たホイットニー・ヒューストンが、1992年にボビー・ブラウンと結婚したときはどう思いましたか?

中武:当時ボビー・ブラウンも大人気でしたし、まさにスーパーカップル誕生って感じでしたよね。結婚したあとに、ふたりで「サムシング・イン・コモン」っていう曲を出したじゃないですか。

Bobby Brown - Something In Common (Official Music Video) ft. Whitney Houston

レコード会社的な視点で言うと、最強コンビだし、これは売れるぞって期待も大きかったです。1992年は映画『ボディガード』が公開されて、結婚もして、まさにホイットニーの人生的にはこのころが最高潮だったのかなと。それが、まさかあんなにも崩れていくとは知る由もなかったです。

──ボビー・ブラウンは、ホイットニー・ヒューストンとのトラブルでかなり印象が悪くなってしまいました。

中武:そうですよね。アメリカのメディアには、ボビーがホイットニーをダメにしたって言ってる人が多いですけど、ホイットニー自身も問題を抱えていたという声もあって。

北澤:ボビーはそんなに悪くなかったっていう意見もあるし。まあ、そこは当事者にしかわからないですよね。

後編につづく

文・取材:土屋恵介
撮影:荻原大志

リリース情報


 
『ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ- 』
2022年12月21日(水)リリース
詳細はこちら(新しいタブを開く)

映画情報


 
映画 『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』
2022年12月23日公開
【配給】ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
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連載担当者が語る! 洋楽レジェンドのココだけの話