ジミ・ヘンドリックス【後編】死後に続々出てくる未発表のスタジオレコーディングやライブ音源
2023.11.10
世界中で聴かれている音楽に多くの影響を与えてきたソニーミュージックの洋楽レジェンドアーティストたち。彼らの作品と向き合ってきた担当者の証言から、その実像に迫る。
今回のレジェンドは、ロック史に残る世界的名ギタリスト、ジミ・ヘンドリックス。活動期間はわずか4年ほどと短いものの、没後も続々と音源が発掘される“ジミヘン”の真のすごさとは。新たに発見された貴重な音源が『ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル 1967』として世界同時発売されるこの機会に、ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルの担当者に話を聞いた。
前編では、ジミ・ヘンドリックスのキャリアを時代背景と絡めながら解説する。
ジミ・ヘンドリックス
1942年11月27日生まれ(1970年9月18日没)。アメリカ出身のギタリスト、シンガーソングライター。日本国内では、“ジミヘン”の略称で知られる。その卓越した演奏技術から繰り出されるギターサウンドは、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックらにも影響を与えたと言われている。1966年、自身の名を冠したバンド、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成し、プロとしての活動を開始。1967年6月、米・カリフォルニア州モンタレーで行なわれた、世界初の本格的野外ロックフェスティバルといわれる『モンタレー・ポップ・フェスティバル』に出演し、一躍名声を得る。
栗原憲雄
Kurihara Norio
ソニー・ミュージックレーベルズ
──名前は広く知られているジミ・ヘンドリックスですが、どんなアーティストだと言えばいいでしょうか。
まず、すべてのロックギタリストが憧れる存在ですよね。彼が亡くなってから50年以上経つんですが、例えばアメリカの『ローリング・ストーン』誌が選ぶ偉大なギタリストトップ100という企画があると、いまだに1位に選ばれるアーティストです。
ジミがデビューしたのは1966年12月で、亡くなったのが1970年9月なので、実質の活動期間は4年弱しかなかったんですけど、その間に彼が成し遂げたことのすごさの証しですよね。スタジオレコーディング作品やライブ音源が、今も毎年のように発売されつづけているということだけ見ても、後世に与えた影響や、彼の偉大さが今も受け継がれているというのがわかりますね。数多くいるロックアーティストのなかでも、他に類を見ない存在だと思います。
──評価されつづけている理由は、どういった部分にあると思いますか?
まずは、ギタリストとしてエレキギターの可能性を拡大させたことですね。ギターの表現力を高めるために、奏法やテクニックはもちろん、いろんな機材を使ってちゃんと形にしたところが、多くのギタリストに影響を与えることになった理由だと思います。
ギター以外では、ボーカルも注目されていますね。ロックンロール、ブルースなどをベースにした歌のうまさを感じますし、歌の表現力の巧みさも、ジミの魅力のひとつだと思います。ただ、自分ではヘタだと思ってたらしくて、「ボブ・ディランの歌を聴いたら自信を持てた」みたいなことを言ったというのが伝わっていますね(笑)。
あとはやっぱり音楽性。R&Bやブルースをベースにしながらサイケデリックやジャズっぽいアプローチをして、音の部分でも革新的な挑戦をしていたなと思います。彼はニューヨークにエレクトリック・レディ・スタジオというレコーディングスタジオを作ったんですが、それも音作りを追求したいという気持ちの表われのように感じます。
──しかも、アフリカ系アメリカ人のロックアーティストの先駆けでもあったわけですよね。
そうですね。ソウルやR&Bではなく、ロックアーティストとして大々的に登場したアフリカ系アメリカ人は、ジミが初めてでした。しかも、彼にはアメリカ先住民のチェロキー族の血も入ってるんですよ。たぶん彼は、自分のルーツをどこかで意識しながら音楽活動をしていたんじゃないかと思います。とにかくジミは、20世紀が生んだ最大のギタリストというだけでなく、ロックアーティストとして、さまざまなミュージシャンに、いろいろな影響を与えた人だと言えますね。
──まさに革新的なアーティストですね。栗原さんがジミ・ヘンドリックスの担当をされるようになったのはいつからですか?
現在、ジミ・ヘンドリックスの原盤権は親族が経営する会社、エクスペリエンス・ヘンドリックスが管理しています。2009年にアメリカのソニーミュージックが販売権を獲得して、2010年からソニー・ミュージックジャパンインターナショナルで日本盤を出すことになりました。
そのときに私は「担当したい!」って自分から手を上げたんです(笑)。やっぱりうれしいものですよ、憧れのロックアーティストを担当できるというのは。それから、私が異動するまでの2年ぐらい担当させてもらいました。
──栗原さんご自身は、最初にジミ・ヘンドリックスを聴いたときはどんな印象を受けましたか?
私が最初にジミを聴いたのは1960年代の終わりで、たぶん小学校高学年ぐらいだと思います。ラジオで「紫のけむり」がかかったんですよ。ギターよりも、あの言い放つようなボーカルがカッコ良いなって思ったのが第一印象です。
歌詞を調べると当時の文化や社会的な背景が見えたりして、ジミの曲を聴いていくうちに彼の魅力にズブズブとハマりました。単なるヒット曲っていうだけじゃなく、若者が持つ反体制的なパワーが、歌の背景に見えたというのも魅力でした。
The Jimi Hendrix Experience - Purple Haze (Live at the Atlanta Pop Festival)
──当時はまだ存命だったジミ・ヘンドリックスですが、かなりインパクトがありましたよね。
ありましたね。特に、リアルタイムで衝撃が大きかったのは、映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970年)です。当時、故郷の茨城県日立市の映画館で見たんですよ。
──『ウッドストック・フェスティバル』は、1969年8月15日から17日まで、3日間にわたって行なわれたロック史に残る一大フェスでした。その模様を収録し、翌年映画化された『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』も、ロック映画のクラシックとなっています。
当時は今みたいに頻繁に来日コンサートがあったわけじゃないし、茨城の少年なんで東京にもなかなか行けなかったんです。テレビも洋楽の番組は限られていたし、たくさんの海外アーティストが動く姿を見たのはあの映画が初めてだったので、興奮しましたね。
ジミは、コンガとかが入った大人数編成のジプシー・サンズ&レインボウズというバンドと出たんですが、よく言われますけど「星条旗」とか本当にカッコ良かったですね。アメリカ国歌をこんなにグチャグチャにしちゃうんだって思いました。
しかも、ジミがコンサートのトリなんですが、時間が押しまくって出番が翌朝になったんです。ジミ目当てで来たら、日曜の夜に観られるはずが月曜の朝になっちゃって、みんな疲れ切ってるわ、帰っちゃってるわでお客さんが少なくってね(笑)。そんな状況にもかかわらず、朝の光のなかでジミはものすごい演奏をするんです。それは、映画のなかでもかなり印象に残りました。
──また、ジミ・ヘンドリックスは、サイケデリックカルチャー、フラワームーブメント、ヒッピーカルチャー、ブラックパワー、そしてベトナム戦争と、1960年代後半のほとんどの文化や社会背景などとリンクして語られることが多いです。
確かにベトナム戦争は、1960年代末のアメリカで活動するアーティスト、ミュージシャンにはすごく大きな影を落としたと思います。仲間が徴兵されたり戦死したりというのが身近なこととしてあったわけで、彼らは反戦的なことを必然的に歌ってました。ジミはベトナムには行ってないですが、軍隊経験がありますからね。「星条旗」もそうですし、「マシン・ガン」という曲ではダダダダっていう機関銃を連射する音を演奏しています。
ヒットチャートでは、1960年代の最初のころはポップなラブソングが多かったと思うんです。それが1960年代末になってくると、だんだんと社会情勢や世相、政治などを反映した楽曲にみんなが共感するようになっていった。ジミは、まさにそういう時代を生きたアーティストだったと思います。
──では、改めてジミ・ヘンドリックスのキャリアを振り返っていきたいと思います。
幼少期のジミは、独学でギターを学んでアマチュアバンドで活躍していたんです。その後、窃盗罪で逮捕されるんですが、刑務所に入れられるのがイヤで軍隊に入ったんですよ。
軍隊では、のちに活動をともにするベーシストのビリー・コックスと出会って一緒に演奏をしてたそうですね。ジミは早めに除隊になって本格的に音楽活動を始めたんですが、リトル・リチャード、アイク&ティナ・ターナー、アイズレー・ブラザーズといったアーティストのバックで演奏して、ツアーを回っていたそうです。
そのあと、自身のバンドであるジミー・ジェイムズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズを組んで活動するんですが、そのときに「すごいギタリストがいる」と話題になり、噂を聞いたアニマルズのチャス・チャンドラーに見出されるんです。
──ニューヨークのグリニッジヴィレッジにあるライブハウス、Cafe Wha?で演奏しているときだったそうですね。
彼の演奏に衝撃を受けたチャスは、自らがマネージャーとなってジミをイギリスに連れて行きます。そこで、オーディションで選んだベースのノエル・レディング、ドラムのミッチ・ミッチェルとの3人で、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成するんです。
──ジミ・ヘンドリックスはイギリスで1966年12月にシングル「ヘイ・ジョー」でデビューして、1967年5月12日にファーストアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』をリリースしました。
まずバンド名からすごいですよ。翻訳したら“ジミ・ヘンドリックス体験”ですからね。でも、その通りだなと思うような名前です。
──既にその時点で、音楽でも見た目の部分でも、インパクトが大きかったんだろうなというのが伝わってきます。
そのすごさが、ロンドン中のアーティストの間で話題になったんです。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ポール・マッカートニーとか、当時人気のあったロックミュージシャンたちがジミ・ヘンドリックスに注目しました。今までに聴いたことのないほど歪んだギターの音、いろんな表現を交えて演奏していく姿にみんなビックリしたんだと思いますよ。
ジミの演奏を聴いたジェフ・ベックが「ギタリストを廃業する」みたいなことを言ったとか(笑)。それぐらいのインパクトだったんでしょうね。そうした声は、のちのちジミが世界に進出して行く上で後押しになったと思います。実際、当時アメリカでは無名だったジミが名声を得た『モンタレー・ポップ・フェスティバル』への出演も、ポール・マッカートニーのプッシュがあって実現したそうです。
──カリフォルニア州・モンタレーで『モンタレー・ポップ・フェスティバル』が開催されたのが1967年6月16~18日です。ジミ・ヘンドリックスのアメリカでのデビューシングル「紫のけむり」が発売されたのが翌日の6月19日で、アメリカ盤の『アー・ユー・エクスペリエンスト?』の発売は8月23日です。アメリカではデビュー前の新人だった彼が、いきなり大舞台で伝説を作ってしまったわけですね。
そうなんですよ。世界初の野外ロックフェスといわれる『モンタレー・ポップ・フェスティバル』で、ジミはギターを歯で弾いたり、背中に背負って弾いたり、「ワイルド・シング」ではライターのオイルでギターに火をつけて燃やすという派手なパフォーマンスを見せたんです。
Film Trailer: American Landing: Jimi Hendrix Experience Live At The Monterey Pop Festival
──有名なシーンですね。
ここから、ジミ・ヘンドリックス作品を担当した際に、「ジミが火をつけたのはギターだけじゃなかった」というキャッチコピーを思いついたんです。
──ジミ・ヘンドリックスという存在を表わす名コピーです。
ありがとうございます。10年以上経った今もそのキャッチコピーを使っていますが、当時は本当にそれぐらいのすごい驚きがあったと思います。『モンタレー・ポップ・フェスティバル』の主催者のひとりでもある、ママス&パパスのジョン・フィリップスも衝撃を受けたひとりでした。彼は、『モンタレー~』から約2カ月の1967年8月18日に行なわれたママス&パパスのハリウッド・ボウルでのコンサートのオープニングアクトに、ジミを組み入れたんです。
そのライブの模様を収めたのが、今回リリースされるアルバム『ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル1967』なんです。
──このライブのときは、まだファーストアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』がリリースされていないんですよね。
そうなんです。シングルの「紫のけむり」も全米65位と、そこまで売れてないんですよ。このママス&パパスの前座をやった約1週間後に、全米で『アー・ユー・エクスペリエンスト?』が発売されてアルバムチャート5位になったんです。そこからジミは、文字通りスター街道を突き進んでいくことになります。
文・取材:土屋恵介
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