石原詢子インタビュー:「古いものを大事にしつつ、若い人にも響く新しい演歌というジャンルを作っていく」【後編】
2024.03.01
ソニー・ミュージックレーベルズ
2024.02.29
日本の音楽シーンで存在感を放ち、時代を超えて支持されつづけるレジェンドアーティストをクローズアップ。本人へのインタビューで、過去と現在の活動を辿る連載「THEN&NOW 時を超えるアーティスト」。
今回は、1988年10月にシングル「ホレました」でCBS・ソニーから歌手デビューを果たし、2023年にデビュー35周年を迎えた演歌歌手、石原詢子にインタビュー。
爽やかで透き通った歌声、明るく温かな“しあわせ演歌”でファンを虜にする石原詢子のこれまでの道のりに加え、2023年にリリースされた自作曲「五島椿」制作時の想いや、日本のソウルミュージックである演歌の魅力ついて聞いた。
前編では、デビューからの道のりを振り返りながら、自身の楽曲の変遷について語る。
石原詢子
Ishihara Junko
1968年1月12日生まれ。岐阜県出身。詩吟揖水流宗家の長女として生まれ、のちに詩吟、剣舞、詩舞の師範代となる。1988年10月21日に「ホレました」で歌手デビュー。2000年、2003年には『NHK紅白歌合戦』への出場を果たす。2023年にデビュー35周年を迎え、同年5月24日に“いとう冨士子”名義で作詞、作曲した通算41作目のシングル「五島椿」をリリース。
――石原さんは2023年、デビュー35周年のアニバーサリーイヤーを迎えて、今年は歌手活動36年目に突入しています。長年、精力的に音楽活動をつづけている石原さんが、演歌歌手を目指したのは、小学校5年生のときに、テレビで石川さゆりさんの歌に触れたのがきっかけなんですよね。
はい。おそらく『日本歌謡大賞』だったと思いますが、年末の賞レースに出ていらっしゃるところを拝見しまして。白いドレスとカトレアの花がとても印象的でした。幼いながらに、あんなにキラキラした大きなステージで私も歌えたらどんなに素敵だろうと。当時、歌謡界にはアイドル歌手の皆さんもいらっしゃいましたが、私は子どものころから詩吟をやっていたこともあって、演歌が魅力的に感じたんだと思います。
――お父様が詩吟の家元で、12歳で既に師範代になっていたと。
その影響は大きかったですね。“三つ子の魂百まで”と言いますが、もう日本のメロディ、日本らしい楽曲を体ごと覚えていたんです。とても厳しくお稽古をさせられましたし、私の生活のほとんどは詩吟が中心でしたからね。もちろん、流行の歌謡曲も耳には入っていて、歌全般が好きだったんですけど、自分が人前で歌いたかったのは、やっぱり演歌。演歌を歌う歌手になりたいと、子ども心に思っていました。
――そうして演歌歌手への夢を膨らませた石原さんは、高校卒業後に故郷の岐阜県から上京。歌手デビューするまで新聞配達やいろいろなアルバイトをするなど、かなりの苦労があったと伺っています。
そうですね。でも……生まれてきて、今までで大変だったことは何ですか? と聞かれたら、一番苦労したのは父を説得することだったと思います。私に詩吟の家元を継がせるつもりでいたので、東京で歌手になりたいと言ったら、本当に猛反対されました。
父親自身、「俺のやりたいことが子どものやりたいことだ!」と本気で思う人でしたから、歌手という夢を目指すことで、父の言いなりで決まってしまう人生から逃げ出したいという気持ちもあったんです。なので、ちゃんと自分でアルバイトをして自活することや、20歳までにチャンスを掴めなければ実家に戻るといった条件付きで上京して、歌のレッスンをつづけました。
――今の時代だったら、YouTubeなどで歌を配信したりもできますが、当時はそういう手段が一切ないですからね。
確かにそうですね。当時に比べて今は、芸能活動の手段がいろいろと増えたと思います。私もデビュー前は、それこそ、都はるみさんのオーディションなど、いろいろなオーディションを受けたり、でも受からなかったりとか、挫折もたくさん経験しました。私の思い描いていた理想と現実は違うと、直面することが何度もありましたけど、それでもやっぱり、演歌歌手になる夢は諦めきれなかった。ほんと、負けず嫌いでしつこい性格なんですよ(笑)。
どんなことでもそうだと思いますが、特にエンタテインメントの世界は、自分で“ここまで”と決めない限り終わりはない。芸を極めることに、終点ってないじゃないですか。だから楽しいし、やりたいことの欲はいつまでもあって、だから夢も膨らんでくる。当時は、第一段階として、とにかく歌手になる切符を手に取らないといけない! という確固たる目標があったので、頑張れたんじゃないかなと思います。
――そんな苦労を乗り越えて、お父様との約束だった20歳目前の、1988年10月にシングル「ホレました」で歌手デビュー。確か当時は、若手の新世代演歌歌手として“演ドル”(=演歌のアイドル)がキャッチフレーズになっていましたね。衣装も着物などではなくカジュアルな洋服でした。
デビューできたのは、本当にラッキーだったと思います。ただ、「ホレました」は王道の演歌ではなく、ポップスの要素が盛り込まれた楽曲なんですね。それが、当時の私のなかでは違和感としてあって……。あの時代はいわゆる“ド演歌”が主流だったんです。坂本冬美さん、神野美伽さん、高村典子さん、島津亜矢ちゃん……とにかく、唸る“男歌”が主流で、私もそういう路線で行きたいって思っていたんですよね。
でもCBS・ソニーからは、私の前に伍代夏子さんがデビューされていて、伍代さんは女性の美しさを体現してらっしゃるので、同じところで戦っても仕方がないということになり、私のほうはアイドルっぽい路線になったんだと思います。
――デビューを拝見していた側としては、とても可愛らしいお嬢さんが、本格派の演歌を歌っている新鮮さに驚きましたが、本人としてはアイドル路線というのは本意ではなかったんですね。
そうですね。「想像していたのと、なんか違うんだけどなぁ」って思ってました(笑)。2曲目からは、ポップス演歌からちょっと明るいメジャー演歌に変わり、「そうそう、これだよね」と感じていましたけど、そのあとにはエレキギターがウィーンウィーンと入る曲があったりして、また「ちょっと違うんだよなぁ」と思ったり(笑)。でも今になると、デビュー曲をそれこそ10代、20代の皆さんが聴いて、良いなと思ってくださることも増えたので、今ではどの曲も自分の大切な宝物になっていますね。
――CBS・ソニー時代から36年間、ソニーミュージックからのリリースがつづいていますが、改めて振り返って思うことは何でしょうか。
演歌以外のジャンルでもおそらくそうなんじゃないかと思うんですが、予期せぬ新しいアイデアが出てくる印象はずっとありますね。曲を出すにしても、基本は決まった路線、ヒットした流れを踏襲していくと思いますが、ソニーミュージックの場合は、一見、奇抜に見えることも進んでやっていく雰囲気があって、そこは面白いなとずっと感じています。
――デビュー時のアイドル的なコンセプトも、まさにそうですよね。
確かにそうですね。ジャケット写真なども、ほかではどこもやっていないデザインなんです。はじめはそれがとても奇抜に受け取られるのですが、気がついたらほかからも、似た雰囲気のものが出ていたりと、そういうことはよくありますね。
先輩の伍代夏子さん、藤あや子さんが、とても綺麗な演歌をやられているので、私は違う道を行っていたというのもありますけど、いろいろな場面でソニーミュージックらしさは感じてきました。そういう挑戦があったから、私も30何年間、つづけてこられたのかもしれないですね。
――デビューしてからの道のりで、特に印象的な出来事は何ですか?
念願の歌手デビューはできましたが、そこからは、決してトントン拍子ではなかったです。私は尾鷲義人くんと同期なんですけど、イチオシは尾鷲義人くんのほうで。今に見てろ、3年後は絶対に逆転してやる! って目標を立てました(笑)。その数年後には、永井みゆきちゃんが10代半ばでデビューしたんですけど、レコード大賞などの賞レースで新人賞などをどんどん獲っていって、私は指をくわえて見ている側。それも本当に悔しかったです。
――負けず嫌いの石原さんは、その悔しさをバネに頑張ったんですね。
そうですね。6作目のシングル「北しぐれ」くらいまでは、本当に地道な草の根キャンペーンをつづけましたね。当時ちょうど、カラオケサークルですとかカラオケ喫茶というのがものすごく流行り始めていたので、私たちが歌う場所と言えば、もう全部そこだったんです。
一カ所につき50人くらいのお客様に集まっていただいて、60分ほどで入れ替わる。それを一度に3~5カ所回るんです。ただ、私たちはお酒の出る場所ではやらないというのはポリシーになっていて、そういうところも、ソニーミュージックらしい方針でしたね。
――大都市だけではなかったんですか?
はい、まさに全国津々浦々です。それこそ山奥の町にもお邪魔しました。お店のないところでは、トラックの荷台の上や大きなお家に上がらせていただいて縁側をステージにして歌っていました。先輩の伍代さんも、そういうところで歌っていて、さすがにここは私が初めてだろうと思って行くと、必ず伍代さんのサイン色紙が飾ってあるんです。
そういう先輩がいてくれたからこそ、私も頑張れた。伍代さんが道標となってくださったから、私たちもついて行けました。その草の根があって、「北しぐれ」がヒットの最初の壁である、5万枚を超えることができたんです。
ところが次の楽曲「三日月情話」ではまた路線が変わって、わかりやすい演歌ではなかったんですね。演歌の世界のジンクスとして、玄人受けする曲は売れないというのがあって、私としてはちょっとしょんぼりしていたんですけど(苦笑)。
ただ、その「三日月情話」は『日本作詩大賞』で優秀作品賞を受賞し、授賞式をたまたま見ていたテレビのプロデューサーさんが石原詢子を気に入ってくださって。のちにNHKの民謡番組『どんとこい民謡』の司会ですとか、人気バラエティの『コメディーお江戸でござる』の準レギュラーに抜擢していただくことになりました。
――石原詢子さんの名を知らしめた代表曲「夕霧海峡」のヒットも、そのころ。1995年ですね。
はい、デビューから8年目でしたね。岡千秋先生に作曲していただいた本当に素敵な曲で、レコーディングの最中から、これはいけるかも! と思っていました。でもちょうど発売日の時期に、両親がふたりとも相次いで病気で亡くなりまして……もう私の帰る場所はなくなってしまったなと。
それまでは、売れなければ田舎に帰ればいいかな、という自分のなかでの甘えが心のどこかにあったんですね。でもそれがなくなってしまって、もう私が生きる場所はここしかない! と、改めて覚悟しました。
――2000年に『NHK紅白歌合戦』に初出演されたのも、感慨深かったのではないでしょうか。
そうですね。やはり歌手になったからには、そこに立たないと! というのは、大きな目標でした。伍代さんや藤さんも先に出演されて、既に常連でいらっしゃいましたからね。そして1999年に「みれん酒」が売れて、その年の紅白にやっと出られるんじゃないか? と思っていたら……ダメでしたと。それがすごくショックだったんですが、翌年にようやく出演が決まり、「みれん酒」を歌うことができたんです。両親が見てくれたら、誰よりも喜んでくれたでしょうね。
――紅白に出たことで、環境も変わりましたか?
翌日から、私の人生そのものが大きく変わりました。もちろん、地道なキャンペーンもつづけていましたが、そこに来て応援してくださる方も一気に増えましたし、周りの目も扱われ方も、その前とは大きく変わるんですね。紅白歌手という肩書の大きさを実感しました。
テレビの大人気番組だった『コメディーお江戸でござる』の反響も大きかったです。コンサートや劇場公演もできるようにもなり、今までやりたかった夢がいっぺんに叶いだしたので、戸惑いもありましたし、すごく忙しくもなりましたが、充実した日々を送れるようになりました。
――デビューから約35年間、石原さんはコンスタントに音楽活動をつづけています。継続は力なりと言いますが。
でもまさか、デビューしたときは35年、36年後も表舞台で演歌を歌いつづけられるとは、想像できなかったです。それこそ父が亡くなる少し前……26歳のときですかね。「三日月情話」のあたりで、もう辞めようかなと思ったことも、正直ありました。父の跡を継いで、詩吟を継ぐのもありかなと思っていたこともありましたが、やっぱり演歌を歌うことが好きだったんでしょうね。
文・取材:阿部美香
撮影:干川 修
レギュラーラジオ番組『しあわせ演歌・石原詢子です』
2024.04.25
ソニー・ミュージックエンタテインメント
2024.03.26
アニプレックス
2024.03.06
ソニー・クリエイティブプロダクツ
2024.02.19
外部企業
2024.01.15
ソニー・クリエイティブプロダクツ 他
2024.01.11
ソニー・ミュージックソリューションズ
ソニーミュージック公式SNSをフォローして
Cocotameの最新情報をチェック!