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連載Cocotame Series

芸人の笑像

キャプテン渡辺:競馬芸人で終わらない。ピン芸人としての矜持【前編】

2022.06.24

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ソニー・ミュージックアーティスツ(以下、SMA)所属の芸人たちにスポットを当て、ロングインタビューにて彼らの“笑いの原点”を聞く連載「芸人の笑像」。

第15回は、お笑い部門創成期から所属する生粋のSMA芸人、キャプテン渡辺。『R-1ぐらんぷり』ファイナリストも経験したピン芸人は、現在、これまでの経験をいかし馬券師としても活躍中。そんな彼の異色の経歴と、芸人としての想いを聞く。

前編では、輝きを求めて足を踏み入れたプロレスの世界から、芸人への第一歩を踏み出すまでのストーリーを語る。

  • キャプテン渡辺

    Captain Watanabe

    1975年10月20日生まれ。静岡県出身。身長182㎝。趣味:競馬、パチンコ、パチスロ、麻雀、映画鑑賞、漫画を読むこと。特技:関節技。『ウイニング競馬』(テレビ東京/BSテレ東)出演中。

テレビに出ることとプロレスラーに憧れた

トレードマークは、黒の中折れハットとロックや映画のサブカルTシャツ。一見、ベテランミュージシャンのような風貌で、立て板に水がごとき快活なトークを繰り広げる姿を、毎週土曜日に放送されている『ウイニング競馬』で見たことのある人も多いだろう。男の名は、キャプテン渡辺。特に競馬ファンには、ここ数年の馬券回収率の高さも話題で、『ウイニング競馬』のレギュラー共演者であるジャングルポケット・斉藤慎二とともに、ガチの競馬芸人、自腹で大勝負に出るガチの馬券師として人気を集めている。だがその彼が、“おじさん芸人”の宝庫であり、今をときめくSMA芸人のひとりだと知る人は、意外に少ないかもしれない。

最近は競馬好きとしての一面がクローズアップされがちなキャプテン渡辺だが、芸人としても実力者であることを忘れてはならない。ピン芸人の晴れ舞台である『R-1ぐらんぷり』では2011年、2012年に“特攻の開き直り漫談”というキャッチフレーズを引っさげて2年連続でファイナリストとなり、その後も準決勝、準々決勝の常連として活躍。『オンバト+』や『あらびき団』、『爆笑レッドカーペット』などのネタ番組でも、売れない芸人あるあるや深夜バイトあるある、ギャンブラーあるあるといった、マニアックでリアルな日常を笑いに変える“クズ漫談”で注目を集めた。

キャプテン渡辺のトークや漫談は、“クズ”を語っていながらもネガティブさを少しも感じさせず、どこか飄々とした、軽やかな明るさと茶目っ気とバイタリティにあふれている。大負けした競馬についても「いや~、まいった」という顔をしながら、カラカラと笑い声をあげるキャプテン渡辺を見ているだけで、なぜか元気になってしまう。その軽やかさの根源は、彼が辿ってきた紆余曲折の人生のなかにあるのかもしれない。

1975年、静岡県静岡市に生まれ育ったキャプテン渡辺は、青年時代、高校卒業後の進路をふたつの道で迷っていたという。

「ひとつはテレビに出ることですね。世代的にはやっぱりダウンタウンさんがすごくて、当時もう尋常じゃない輝き方をされていましたから、お笑い芸人……というかタレントになりたいなと。でもその前にもうひとつ憧れがあって、それがプロレスラー。僕のなかではどちらも甲乙つけ難かったんです。でも、まだ高校生だったんで、全然世の中のことはわかってなかった。お笑いタレントの世界にも行きたいけど、それはまぁ、プロレスを引退してからでもできるしな! くらいの考えで、まずはプロレスラーになってやろうと、今は無き『Uインター(UWFインターナショナル)』の門を叩いたんですよ」

『UWFインターナショナル』は、1980年代から1990年代頭にかけてショウ的要素を排除したリアルファイトを標榜して一世を風靡した、前田日明率いる格闘系プロレス団体『UWF』から分裂したものだ。『UWF』のナンバー2だった髙田延彦が1991年に設立。“プロレスこそ最強”を掲げつつ、シリアスなUWFスタイルを受け継いだ総合格闘技的なファイトと、異種格闘技要素も強い挑戦的なマッチメイクで人気を博した。

「そもそも、タレントかプロレスかで悩むくらいの甘っちょろい考えの人間なので、厳しい格闘技には向いちゃいないんですけど(笑)、髙田さんが元横綱の北尾(光司)をハイキックでKOした試合とかね、シビレましたよね~! いやぁ懐かしい‼ そんな髙田さんに憧れて、『Uインター』に入ったんです」

ところが、『Uインター』の道場での生活は、キャプテン渡辺が想像していた以上の過酷さだった。

「いざ入ってみたものの、まぁ毎日の生活が辛くて辛くて! まず新人が僕ひとりしかいなかったので、すべての雑用を僕がやらされるし、もちろん練習も鬼のようにキツい。唯一の休みが、週に一度の日曜日の昼間だけなんです。その日曜の昼に、テレビでお笑い番組がやってたんですよ。当時のお笑いは……『ボキャブラ天国』がブームのころかな。ネプチューンさんとか、今のくりぃむしちゅーさんがまだ海砂利水魚という名前で出始めたころで。そんなころに、爆笑問題さんやネプチューンさんが、愉快にロケをする番組とかを見ていて、あ、すごく楽しそうな仕事だな! と引き金を弾かれちゃって。そのときの自分の生活が辛すぎたというのもあり、ある朝、『Uインター』の道場から脱走しました(笑)」

勝手に「俺は売れるんだ!」と信じていた

そして彼が目指したのは、お笑いの本場・大阪。アルバイトをしながら、バラエティタレントの育成コースもある専門学校に入学した。

「とはいうものの、専門学校はそんなに楽しくなかったですね。やっぱりね、お笑いをやるのに学校で先生から教わることって、意味があるのかないのか、よくわからないじゃないですか。しかも僕の場合は、高校出てすぐ『Uインター』に入ったんで、20歳くらいの若者が経験するような青春らしい青春を送ってなかったもんだから、大阪での暮らしがめちゃめちゃ楽しかったんですよ。当時はアルバイトでキャバレーのボーイをやっていたんですけど、ウェイターが40人くらい、女の子も300人くらいいるような華やかな店でね。夜はバイト、昼間はパチンコばかりしてて……一応、22歳で専門学校を卒業したものの、そこからはパチスロとパチンコ、競馬にどっぷりはまって、24歳くらいまでふらふらしてました」

そんなギャンブル漬けの生活もやがて彼の身を助けることにはなるのだが、楽しさにかまけてフリーター生活を満喫していたキャプテン渡辺の身に、ある日、唐突に転機が訪れる。

「24歳のころでしたね。大阪に出てきてからずっと、有名になりたい、キャーキャー言われたい、モテたいと思ってて、勝手に『俺は売れるんだ!』と信じていたんですよ。でもその数年間、自分が何もやっていないことに気付いたんです、風呂で髪の毛を洗っていたときに(笑)。で、急に、『これはいかん! これはもう東京に出なければいかん!』とか思うわけですよ」

プロレスラーを目指したときも、その夢をやめたときも、思い立ったら即行動に移したくなるのが、キャプテン渡辺らしさなのだろう。それから彼は、専門学校時代の1年先輩だったジャック豆山と連絡を取り合うようになる。

「たぶん、だーりんずの記事でも、松本りんすから名前が出たんじゃないですか? ジャック豆山のことは一応、学校の先輩として知っていて、なんとなく連絡取り合っているうちに“コンビでやりましょう”みたいになったんですね。で、組んだのが“こんにゃくモンロー”。当時は事務所にも入っていなかったので、本当に鳴かず飛ばずもいいところでしたね!」

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輝いている世界に行きたい

試行錯誤しながらお笑いの活動をつづけていたものの、組んだコンビもユニットもうまくはいかずで、そのまま4年ほどが過ぎる。なぜか一時は、ミュージカル劇団にも所属した。「そのころは28歳くらいになってたんですけど、考えるともう、当時の人生はめちゃくちゃでしたよね~」とキャプテン渡辺は笑う。

「大阪の専門学校時代に“スクランブル交差点”というコンビを組んでいたんですけど、そのときの相方と連絡を取ってみたんですよ、『今なにしてんの?』って。そうしたら、専門学校の講師の人がやっていたミュージカル劇団の劇団員になっていて、『めちゃくちゃええで!』って勧めてくれたんです。僕、ほんとに芸人としてふらふらしてた時期だったんで、“売れりゃあ何でも良いかな”みたいな感覚で、うっかり入っちゃった。『水曜どうでしょう』で注目されてた大泉洋さんとか、当時コントの世界ではジョビジョバさんとかも売れていて、あの方々も劇団サークル出身。ミュージカルのことはよくわからないけど、劇団役者からお笑いタレントという道もあるかな? と思ったんですね」

しかしそのミュージカル劇団は、エンタテインメントを追求するものではなく、中高生に観せる学校での公演が主の、いたって真面目な劇団だったそうだ。

「1回だけ舞台に立ちましたけど、しょせん素人なんで踊りも全然でしたよね(苦笑)。劇団でもダンスのレッスンとかいろいろあったんですけど、そんなのできるわけもなく興味もなかった。だったらそもそも入るなよ! って話なんですけど(笑)。結局、28歳から30歳くらいまで、ますますふらふらしてたんで、僕がやってたことといえば、一番がパチスロ。競馬もちょこちょこやってましたけど、とにかくパチスロを朝から晩まで打つわけです。当時は『北斗の拳』の4号機が空前のブームで、今いる現役芸人のなかで、僕よりあれを打ってたヤツはいないんじゃないかと思うくらい、打ちまくってました」

まさにクズ芸人の本領発揮である。

「もちろんね、漠然と頭ではわかってるんですよ。さすがに30歳でこの劇団にいても、売れるなんてことあるわけがない。でも、楽しかったのは楽しかったんで、なんとなくそのままにしていたときに……これ、人前で初めて話すんですけど、あるミュージックビデオを見ましてね~。それが大塚愛さんの『さくらんぼ』。なんかものすごい輝きを感じましたね。俺、こういう輝いてる世界に行きたいんだなと思ったし、このままじゃダメだよなぁなんて思いながら……それほど深い意味もなく、上京してたりんすに連絡して、『俺、ヒマだし、東京に遊びに行こうかな?』って、なんとなくなったんですよ(笑)」

自らのヒストリーを語ってくれている本人が「ほんと、なんなんでしょうね、俺って(笑)」と高笑いするほどの自由さで、数々の転機を迎えていったキャプテン渡辺。彼にとっては“輝いているか? いないか?”は、とても重要な行動原理のようだ。

「そうそう、ほんとそうなんです。輝いている世界にすぐ憧れちゃうんですよね、子どものころから。小さいころは相撲取りになりたかったし、高校野球で甲子園に行きたかったし、プロ野球選手にもほんとに憧れたし、プロレスラーにも憧れた。なんなら、長渕剛さんにも憧れてましたからね。まぁ、言ってみれば虫ですよ。明るい光があったら、本能的に吸い寄せられちゃうんですね(笑)」

光り輝く大塚愛に引き寄せられて(?)、「ほんとは大阪から出る気もなくて、遊び気分で」ふらふらと、東京の地を踏んだキャプテン渡辺は、松本りんすと話をするうちに、あれよあれよと巻き込まれていく。

「当時、りんすはもうSMAに入ってて、豆山と“バカラ”というコンビをやってたんですけど、話を聞くと、まぁふたりの仲が悪いんですよ。で、りんすが『もう豆山とふたりだけではやっていけない、お前、入ってくれへん? 3人でやっていかへん?』みたいなことを言うんです。そのときは『今さらやなぁ』と即答はしなかったですけど……なんとなくね、大阪への帰りの新幹線でいろいろ考えたら、やっぱりちゃんとお笑いをやりたくなってきましてね。子どものころのダウンタウンさんへの憧れが、沸々と戻ってきたんです。トークとかもやりたいし、ネタもやりたいし。じゃあ、もう東京に行こう! と決めて、SMAに僕も入ったんです。ほんと尻軽というか……なんなんすかね、この人生(笑)」

後編につづく

文・取材:阿部美香

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