ビリー・ジョエルの心をなぜつかめたのか? フォトグラファー・阿久津知宏氏がその理由を語る【後編】
2024.02.28
音楽を愛し、音楽を育む人々によって脈々と受け継がれ、“文化”として現代にも価値を残す音楽的財産に焦点を当てる連載「音楽カルチャーを紡ぐ」。
今回話を聞くのは、約30年にわたりビリー・ジョエルを撮りつづけている唯一の日本人フォトグラファー・阿久津知宏氏。今年1月に東京ドームで行なわれた約16年ぶりの来日公演でも、エネルギッシュなパフォーマンスを繰り広げるビリー・ジョエルにカメラを向けた彼が、ファインダーを通して見たアーティストとしての魅力と、レンズを介さず直に接した際の人間的なビリー・ジョエルの魅力を語る。
前編では、ひとりのファンからビリー・ジョエルを撮影することになるまでの経緯と、等身大のビリー・ジョエルの姿を語る。
阿久津知宏氏
Akutsu Tomohiro
フォトグラファー
1949年5月9日生まれ。アメリカ・ニューヨーク州出身。1971年、アルバム『コールド・スプリング・ハーバー ~ピアノの詩人』でソロデビュー。「ピアノ・マン」「ストレンジャー」「素顔のままで」「オネスティ」など、代表曲多数。現在も世界中で精力的にライブ活動を展開しており、今年の1月24日には東京ドームで一夜限りの来日公演を行なった。現地時間2月4日に開催された『第66回グラミー賞授賞式』で初披露した17年ぶりの新曲「ターン・ザ・ライツ・バック・オン」も話題。
――阿久津さんは、1995年からビリー・ジョエルを撮りつづけていらっしゃいます。もともと大ファンだったというビリー・ジョエルの音楽との出会いについて聞かせてください。
小学4年生のとき、アルバム『ストレンジャー』(1977年)の1曲目「ムーヴィン・アウト」を聴いて、雷に打たれたような衝撃を受けました。いわゆる歌謡曲で育ってきた僕のすべてがくつがえされたんです。歌詞など全然わからなくてもグッとつかまれるものがありました。
Billy Joel - Movin' Out (Anthony's Song) (from Old Grey Whistle Test)
初めてライブを観たのは、1981年の『グラス・ハウス』ツアーの日本武道館公演。そこで今度は魂を抜かれ、その後、高校から大学まで4年半ほど過ごしたアメリカで観た『イノセント・マン』ツアーで、さらに強い衝撃を受けました。
――青春時代とビリー・ジョエルが重なっていたんですね。
アメリカでは週末のたびに、ワシントンD.C.から車で、ビリーの作品に出てくる場所を巡っていました。コールド・スプリング・ハーバー(1971年のデビューアルバムのタイトル)、モントーク(ビリー・ジョエルの地元)、ノーフォーク(1976年のアルバム『ニューヨーク物語』収録曲「マイアミ2017」に登場する地名)……。3年間での走行距離は18万km(笑)。ネットがない時代なので、限られた情報だけ持っての宝探し。それがむしろ楽しかったんです。
――私も『ストレンジャー』に熱狂し、「イタリアン・レストランで」で歌われている店を探して、ニューヨークを旅したことがあります。
その話で思い出したんですが、「イタリアン・レストランで」で歌われている光景って、アメリカの高校生にはすごく身近なものなんですよ。
Billy Joel - Scenes from an Italian Restaurant (Official Music Video)
――曲中で描かれているカップルの回顧シーンに、アメリカの高校生の卒業パーティである“プロム”が出てきますね。
そうそう。歌われているのが、高校時代にプロムのキングとクイーンに選ばれたカップルのことなんですよね。実際、プロムでは毎年キングとクイーンが決まって、コンバーチブルの車に乗って町内をパレードするんです。これが当時の自分にドンピシャのシーン。だから余計、ビリーの歌のなかの物語がどこで起こったのかを探し当てたくなったんでしょうね。
よく人から「アメリカに行って英語がしゃべれるようになって良かったね」とか「仕事に使えるね」とか言われたりするんですけど、僕にとってはそんなことよりも、ビリーの歌詞が理解できるようになったことのほうがものすごくうれしかった。それくらい、アメリカでの僕自身の生活とビリーの歌がシンクロしていました。
――アメリカから帰国してからは、就職活動を経て広告代理店に入社されたそうですね。
音楽と写真が好きで、帰国子女でもあったので、外資系企業専門の広告代理店を受けました。最終の役員面接で、「今まであなたが一番感銘を受けたコマーシャルは?」と聞かれ、僕が挙げたのは、ビリーが海辺でハーモニカを吹いているソニーの企業CMでした。
――広告代理店にどれくらい在籍していたのですか?
1年半ほどです。写真と音楽に関われるといっても、僕は営業職だったので、やることといったらクライアントからデザイナーなどへの仕事の受け渡しだけ。朝から晩まで撮影の立会いがあっても、何を手伝えるわけでもなく、ただただ仕事が滞りなく行なわれたかを見て報告するという役目。
その環境に耐えられなくなって、ある日突発的に「辞めます」と言って、そのまま当時好きだったフォトグラファーに弟子入りしました。やっぱり作り手に回りたかったんですよ。そこで2年半ほどお世話になったあと、アメリカで1カ月とか3カ月単位のフォトグラファー向けワークショップにいくつか参加して、帰国後すぐに独立しました。
――撮る側になってからはどんな活動をしていたんですか?
師匠がアイドルの撮影をたくさん手がけていたので、アシスタント時代に面識のあった編集部に、「駆け出しですがなんでもやるので」と売り込みに行って、もう来る日も来る日もタレントの撮影に明け暮れていました。事務作業も自分でやっていたので、寝る間がないくらいでしたね。
そんなある日、自分がシャッターを押すだけの人になっていることに気づいて愕然としました。なんでこんなことになっているのかと言えば、自分自身が「心から好きだ」と思えるものを撮っていないから。じゃあ、好きなものは何か? と考えたら、それは、やっぱりビリー・ジョエルだったんです。
――そこから何か具体的な行動を起こしたんですか?
最初は手紙です。ビリーへの思いを綴りつつ、「一度だけでも撮らせてもらえたらうれしいです。何か機会をもらえませんか?」と書いて、ビリーの事務所に送りました。そうしたら親切なスタッフが、返事をくれたんです。「あなたと同じ気持ちのカメラマンは世界中にいっぱいいる。情熱はわかるけど、いつか機会があったら」という、体の良いお断りの返事ですけど。それでもめげずに、違うスタッフが読んだら違う結果になるかも、などと考えて、同じような手紙を2、3回出しました。
――思い立ったら即行動なんですね。
いや、意外とグジグジ悩むタイプなんですよ。でも、“行くぞ”と決めたら早い。このときも手紙ではらちが明かないので、ニューヨークにあるビリーの事務所に行ってみるかと、アポなしで向かいました(笑)。
今ならビルのなかにすら入れないでしょうけど、当時はオフィスまで辿り着けたんです。「以前、何度か手紙を送った者なんですけど」なんて言って、スタッフのひとりと雑談をするうちに、向こうも「悪いヤツじゃなさそうだな」と思ってくれたみたいでした。
その後、何度か訪ねるうちに、事務所に置いてあるビリーのゆかりの品を見せてくれるようにもなって。結局、その人が僕に返事をくれたマネージャーのアシスタントだったんです。「あのヘンな手紙、お前だったのか」と(笑)。たまに、マネージャーも来ていることがあったので、一応、スタッフとは面識があるという状況にはこぎ着けました。
――ちゃんと人と人として繋がっていたんですね。
でも、だからといって話が動くわけもない。そうこうしてるうちに1995年になり、ビリーが来日したんです。僕は「今だ」と思って、ビリーに関する決定権のある人物に会うべく、一行が宿泊しているホテルに向かいました。
とにかく誰か外国人を捕まえなきゃと待ってたんですが、ちょうどそこへ外国人がひとり歩いてきて。その人に「ビリーがここに泊まってるって聞いたんだけど」と話しかけたら、「なんでそんなこと知ってるの?」と返ってきたので、「僕はビリーのライブが7回あれば、7回とも行くほどの大ファンなんだ」と必死に訴えました。そしたら、「俺はビリーのツアーマネージャーだよ」と。
――すごい出会いです。
「しめた!」と思って、「実は僕はカメラマンで、ビリーのことを撮りたいんだ」と話したら、その人は面白がってくれて上の人に引き合わせてくれたんです。そして、その人もまた面白がってはくれたけど、「僕らもしょっちゅうアプローチを受けてる。そのうち機会があったらね」と、そこは変わりませんでした。
「ここであきらめたら終わる」と思ったので、もう腹をくくって次の公演地であるサンディエゴに向かいました。カメラ機材一式を担いで、会場の入り口で「ツアーマネージャーを呼んでくれ」と再度、突撃したんです(笑)。
そしたら、ライブの直前にもかかわらず、出てきてくれたんですよ。彼は名だたるアーティストをいっぱい手がけるツアーマネージャー。その人を捕まえて、「あなたがこの仕事を始めたとき、誰かが1回チャンスをくれたはず。そのチャンスを僕はあなたからもらいたい」と言ったら、向こうは何も言えなくなって、「1回チャンスをやる。それで駄目だったら戻ってくるなよ」というニュアンスで、その後のダラスの公演を撮らせてくれた。その写真がこの一番手前の写真なんです。
――この1枚で認められたんですね。どういう表情を狙っていたんですか?
これは「マイ・ライフ」という曲の間奏で、弾きながらカッと見得を切るように振り向いた場面なんです。ビリーが演奏中にそういう動きをすることは知っていたので、ちょっと狙っていました。当時はフイルムだったので、増感現像するとすぐに粒子が荒くなってしまいます。単レンズを使って、どこまで絞りとシャッター速度を低く抑えこめるかが勝負でした。
この紙焼きを持ってマネージャーに会いに行ったら、「こんなのが撮れるんだ!?」と言って、そのまま本人の元に連れて行ってくれたんです。そこでビリーは、「過去15年で一番好きな写真だ」と言ってくれました。「もっと撮りたい」と言ったら「ツアーについて来いよ」と。そこから2カ月間、飛行機で移動した回数は48回(笑)。
――ご本人がそんなにも気に入った点はどこだったんでしょうか?
ビリーは写真を見て、自分の表情を“evil=悪魔的な”と表現してました。「俺はまだこんな野心的な顔をするんだ」と。ちょうど『リヴァー・オブ・ドリームス』(1993年)というアルバムを出したあとで、ビリー自身が若干疲れているというか、前と同じようにはできないなと思い始めた時期だったと思うんです。
――1995年というと、ビリー・ジョエルが「もう歌詞を書かない」と言っていたころですよね。
はい。「もう曲は書かないの?」と尋ねたら、ビリーは「曲は毎日だって作ってるよ。でも、歌詞は昔みたいに書けないんだ」というようなことを言っていました。きっと若いころのようなパッションでは書けなくなったという意味だと思うんです。心底から湧き出る言葉でなければ、綴りたくなかったんでしょうね。
――音楽に対して誠実だからこそ、迷いながら進むべき道を探っていた。そんなときに見た自分の“evil”な表情に、何か可能性を見出したのかもしれませんね。
ビリーは本当にこの写真を気に入ってくれたみたいで、オフィシャルサイトができたときのトップページや、ピアノができて200年という年にビリーがホスト役を務めたホワイトハウスでのセレモニーの招待状にも使ってくれました。
――その後、ビリー・ジョエルを撮りつづけるなかで、こと写真に関してはどんなやりとりがありましたか?
僕自身、最初はおっかなびっくり撮影してたんですね。やっぱり超大物ですし、どこで機嫌を損ねちゃうかわからない不安もあって。だからビリーと直接会える機会には、「この前、撮影邪魔じゃなかった?」とか、「こうしたほうが良いっていうのがあったら教えてください」などと聞いてたんです。そしたら、「邪魔だったらお前は今日いないだろう」と言われました。
――素っ気なくも温かい言葉です。
そのうちビリーの好き嫌いもわかるようになりました。嫌いなのは、自分の顎が上がってる写真なんです。5、6回撮影を重ねたころに、ビリーに見せるために結構良いプリントをして持って行ったんですけど、渡した途端、マジックを持って、「これはここが嫌い」などと言いながらバツをつけられました(苦笑)。「あぁ、せっかくのプリントが」と心のなかで呟きましたけど、「こうは撮られたくない」ということがわかったので、意思表示をしてくれないよりは良いなと。たぶん顎が少したるんで見えるのが嫌だったんでしょう。そういう意味では、やっぱりロックスターなんですよね。
文・取材:藤井美保
撮影:荻原大志
2024.09.15
2024.09.12
2024.09.09
2024.08.28
2024.08.23
2024.08.02
ソニーミュージック公式SNSをフォローして
Cocotameの最新情報をチェック!