爆風スランプ・サンプラザ中野くんインタビュー:「Runner」を生んだ人気バンドのフロントマンが語る40年②
2024.10.24


2024.10.24
爆風スランプがCBS・ソニー(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)からデビューして今年で40年を迎えた。「Runner」など多数のヒット曲で人気を博した1980~1990年代、そして、26年の活動休止期間を経て再集結した今の思いとは。
バンドのボーカルで、ほとんどの楽曲の作詞を担当してきたフロントマン、サンプラザ中野くんが、デビュー時から現在までを、サンプラザ中野くんならではのエピソードを交えながら語る。
目次

爆風スランプ
Bakufu Slump
(写真左から)バーベQ和佐田(Ba.)、サンプラザ中野くん(Vo.)、パッパラー河合(Gt.)、ファンキー末吉(Dr.)。1981年に、アマチュアバンドコンテスト『EastWest』でグランプリを受賞した「爆風銃」所属のファンキー末吉、江川ほーじんと、同優秀グループ賞受賞の「スーパースランプ」のメンバーだったサンプラザ中野(当時)とパッパラー河合の4人で結成。1984年8月25日、シングル「週刊東京『少女A』」およびアルバム『よい』でデビュー。1988年、12枚目のシングル「Runner」の大ヒットで一躍人気となる。1989年、江川ほーじんが脱退、バーベQ和佐田が加入。「リゾ・ラバ‐Resort Lovers‐」「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い」などのヒット曲を次々世に放ったのち、1999年4月に活動休止を発表。2005年、2007年、2010年には1日限りの復活ライブを開催した。2024年8月25日に、デビュー40周年を記念し、26年ぶりの新曲「IKIGAI」を発表。10月23日、ベストアルバム『40th Anniversary BEST ALBUM IKIGAI 2024』をリリース。10月31日から、ライブツアー『爆風スランプ~IKIGAI~デビュー40周年日中友好LIVE“あなたのIKIGAIナンデスカ?”』がスタートする。
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――今年8月にデビュー40 周年を迎えた心境から聞かせてください。
まあ、26年やってなかった期間があったので、ちょっとズルしておりますけれども(笑)、デビュー 40 周年をメンバーと一緒に迎えられて良かったなと思いました。デビュー当時は「アルバムを3枚出せれば御の字だよね」みたいな感じでチャレンジして。好きなことでプロになりたいっていうだけで作ったグループなんで、それが40年つづくとはびっくりですね。
――爆風スランプにとってはどんな40年でした?
デビューのときは、ロックシーンに新風を吹き込んだニューウェーブな存在として取り上げていただいて。結構、楽しかったです。でも、当時の日本の音楽シーンのなかでは、ロックシーンは非常に小さいパイだったので、ロックシーンだけでウケても、全然商売としては成り立たず、そこは大変でした。
かなり頑張っていたなかで、オリジナルメンバーが脱退することになり、みんなで話し合いをして、直球を投げようということになって。本気でヒット曲を狙う程度じゃなくて、もう全身全霊で良い曲を作ろうぜっていうことになったんですね。それで、これで悔いなし! という気持ちで作った曲が「Runner」で、ロックシーンだけではなく、メジャーシーンに打って出ることができた。
でも、やっぱり大きな反動もあって。メンバーがひとり辞めたってことが大きかったんでしょうね。それぞれの方向性がバラバラになったことで、バンドの維持が難しくなって。直接的にはリーダーのファンキー末吉が「俺は中国でやる」って決断したことが引き金になって、継続的なバンド活動は無理だろうということになったんです。そこから26年かかって、今、再びやることになりました。
――今、お話に出てきた各時代をもう少し詳しく聞かせてください。1982年に結成し、1984年にシングル「週刊東京『少女A』」とアルバム『よい』でメジャーデビューしました。
爆風スランプってライブハウスでものすごい人気があったんですよ。観客動員数を更新していくようなバンドだった。それで、CBS・ソニーから声をかけてもらったんだけど、全然、レコードを出してくれなかったんですよ。
それでこっちも、「いい加減、レコード出してくれないと、ほかに行ってやります!」ぐらいになってたときに、当時のディレクターに「じゃあ出してやるよ」って言われて(笑)。
でも、「いくらライブハウスでウケてても、レコードっていうのは何回も聴くものだから全然違う。お前らの曲は全部ダメだから、A面の曲はプロの作家に作らせた曲でやる」って言われたんです。それで、ディレクターが持ってきてくれた曲が「週刊東京『少女A』」。
最初は歌詞もついてたんですよ。その歌詞を俺が「いや、こんな歌詞、絶対に歌いたくありません」って強力に拒否したら、ディレクターに「じゃあ、自分で書きなさいよ。それが良かったらそっちでいくから」って言われて。
それで、書いて持っていったら、「面白いね」ってなったんですよね。そこから俺が全部詞を書くっていう流れになって、今に至ります。そのとき俺が「いいですよ、この歌詞で歌います」って言ってたら、たぶん、その時点で爆風スランプは終わってましたね。そこで私、頑張れて良かったなと思っています。この前、ディレクターにそのことを話したら、全然覚えてなかったですけどね。
――(笑)。デビューの翌年には日本武道館公演も行なっていますよね。それでも“商売として成り立たなかった”ですか?
武道館は、勢いをつけるためにやらしてもらったっていうことだと思いますね。ポッと出の新人が、必死で1年間、チケットをなんとか売りさばいて武道館をやるっていうのは、ステイタスではあるけど、商業的には全然違う話ですよね。武道館をやったぐらいじゃ、金にはならない。だから、武道館公演が終わったあとも、メンバーはみんな風呂のないアパートに帰って、流しで体を洗ったりしてて。私の場合はマネージャーと一緒に住んでたんで、ちっちゃいお風呂があったんですけどね。
――日本武道館をモチーフに作られ、代表作のひとつにもなった楽曲「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い」が誕生した経緯も教えてください。
デビューした年の年末くらいに、「1年後に武道館やるから満員にしろ」って言われたんですね。満員になるわけないというプレッシャーを感じているなかで、ディレクターが作曲家の方が作った曲を持ってきたんです。
その曲を聴いたときに、サビの部分が“あの大きな玉ねぎの下で”って聞こえて。そこから書き出したんですけれども、武道館が絶対に満員にならないと思ってたんで、空いてる席に理由をつけるために、チケットは売れてるんだけど、約束した人は来ないんだよっていうストーリーを作ったんです。最初はお笑いの歌になる予定で、笑える歌を作ろうと思って書き出したんです。
――歌い出しは、“ペンフレンドの二人の恋は”ですね。
そう、“ペンフレンド”っていう言葉自体が、もう当時でも死語で。笑えるワードだったんですけど、そこから始めていって、途中でディレクターに見せたら「あれ? これ、良い歌になるんじゃないの?」って言われて。「え? マジっすか」って、よく考えてみたら、だんだんと良い歌になってきて。
サンプラザ中野くん「大きな玉ねぎの下で (令和元年 Ver.)」
ちゃんと書くためにロケハンにも行ったんですけど、自分は九段下の駅の階段を上って、出たとこの坂の左手のお堀が「千鳥ヶ淵」だと思ってたんですね。でも、現場に行って建札を見たら、そこは「牛ヶ淵」だったんですよ。
やばい、これは歌にならない、どうしたら良いんだろうとうなだれていたら、武道館に渡る橋の向こう側が千鳥ヶ淵だとわかって、じゃあ、主人公が最後に立って、振り向く場所をこっちにしようって、無理やり千鳥ヶ淵を入れて。そんなことをいろいろとやってるなかでなんとか形になりました。
そしたら、歌入れの前日に、ディレクターに電話口で歌詞を読んでみてって言われまして。ファックスもなかったので、全部、黒電話でやりとりだったんですよ。そしたら1カ所、「ここだけは納得いかない。絶対もっとすごいのが出てくるはず」って詰めてくるんです。
「もうこれ以上出ねえよ」と思いながらも徹夜で考えて、朝の4時ぐらいに「できました!」ってもう1回電話して。“君のための席がつめたい”って言ったら、「それよ! 出た!!」って。そのあと、ほとんど寝ないで歌入れに行きました。声が大事なのか、歌詞が大事なのかっていうとやっぱ歌詞だったっていう話でした。
――(笑)。初の日本武道館ワンマンから3年後の1988年には「Runner」が大ヒットしました。全身全霊で作った曲が実際にヒットしたときはどんな心境でしたか?
爆風スランプ「Runner」MUSIC VIDEO(HD)
やってて良かったなっていう心境ですね。いつか売れるだろうとは思ってたんですけど、売れたんだなと思いましたね。ただ、大変に忙しくて。創作活動においても時間がなくなったりして、ストレスが非常にかかりました。
――「Runner」のヒットでバンドに青春や応援ソングのイメージがついたことは、どう感じていましたか?
青春っていうワードは嫌いじゃないんで良いんですけど、爆風スランプの場合は、メンバーそれぞれが好きな音楽が違っているので、音楽的な筋が通ってないんですよ。俺が書いてる歌詞も同様で、趣向がひとつじゃないので、これまた筋が通ってないんですよね。
――音楽的にも歌詞的にも筋が通ってない(笑)。
世間っていうのはカテゴライズしたがるんで、筋の通ってないところがあると、ちょっと怪訝な気持ちになるらしい。一番インパクトを持って世間に認知されたのが「Runner」なんで、それ以外のものをやろうとすると嫌がる人がいたり、そうじゃない爆風を好きだった人は、「Runner」に対して怪訝な感情を持ってたりして。やってる人は一緒なんですけどね。
例えば、ピカソは最終的に「ゲルニカ」で天才の称号を得たと思うんですけど、そこに至る前の“青の時代”もあるし、真っ当な絵もものすごいうまさで描いてますよね。うまいんだけど、世間に受け入れられるのはなんだ? っていうのを追求しまくったわけじゃないですか。自分と世間との壁をなんとか突破したい、と。その突破口が、爆風スランプの場合は「Runner」だったんですよね。
でも……ピカソを例に語るのは申し訳ないんですけど、「ゲルニカ」を描いたピカソは自分の「ゲルニカ」をもちろん気に入ってると思うし、「ゲルニカ」が好きなピカソのファンは、青の時代のピカソを見て衝撃を受けるはずだし。そういう存在に、あと30年もすればなれるかなと思ってます。
つまり、何が言いたいかというと、“この人たち、何をやってもすごかったんだね”って思われたい。そう、先日、『THE FIRST TAKE』に出させてもらって反響がすごくあったんですよ。
爆風スランプ - Runner / THE FIRST TAKE
これを見た人から「前に聴いてたときはわかんなかったけど、バンドの演奏はうまいし、こいつらすげえ」みたいなコメントをいっぱいいただいて。なので今、「ああ、だんだんわかってもらえるものなのかな」みたいな気持ちにはなってますね。すみません、筋は通ってないんですけど(笑)。
後編では、再集結の真相や、以前、自身が人気バンドを世に出したエピソードを披露する。
文・取材:永堀アツオ
『爆風スランプ~IKIGAI~デビュー40周年日中友好LIVE“あなたのIKIGAIナンデスカ?”』

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