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エンタテインメント・イズム

見上チャールズ一裕のイズム:若かりしころに得た学びと封入特典のアイデアでつながったボブ・ディランとの縁

2025.02.03

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音楽、アニメ、ゲーム、キャラクター、ソリューションなど、幅広いエンタテインメントビジネスを手がけるソニーミュージックグループで、各ビジネスを統括するマネジメントクラスが自身の“エンタテインメント・イズム”を語る。

今回は、楽曲の著作権管理を軸に音楽の利用開発、ライブラリーミュージックレーベルの運営など幅広い音楽ビジネスを展開するソニー・ミュージックパブリッシング(以下、SMP)代表取締役執行役員社長の見上チャールズ一裕が登場。

前編では、音楽レーベルの洋楽部門など複数の音楽ビジネスで得た学びを語る。

  • 見上チャールズ一裕プロフィール写真

    見上チャールズ一裕

    Mikami Charles Kazuhiro

    ソニー・ミュージックパブリッシング
    代表取締役執行役員社長

記事の後編はこちら:見上チャールズ一裕のイズム:大切なのは“Fairness”──ビジネスをするうえで公平公正でありたい

音楽が身近にあった学生時代、バイト先のオーナーのすすめでソニーミュージックへ

──見上さんは1988年にCBS・ソニー(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社しています。まずは、ソニーミュージックグループを志望した理由を教えてください。

大学生のころ、貸しレコード屋でアルバイトをしていたんですね。そこのオーナーが、CBS・ソニーの中途採用の新聞広告を持ってきて、“こんな募集があるよ”と教えてくれたのがきっかけです。

──もともと音楽が好きだったのでしょうか。

そうですね。小学生のころから、レコードショップに通って輸入盤の洋楽を中心に聴いていました。

アルバイトを始めてからは、さらに幅広いジャンルを聴くようになりましたね。貸しレコード屋のスタッフは、お客さんから“おすすめのジャズは?”とか“歌謡曲は今、何が流行っているの?”と聞かれるので、そういう問い合わせに答えるために、バイト仲間と情報交換をしたり、音楽レーベルを覚えたりしながら知識を増やしていきました。

穏やかな表情で話す見上チャールズ一裕

──楽器の演奏やバンド活動はしていましたか?

子どものころ、母に「バイオリンを習いたい」と言ったら、いったん保留にされて。しばらくして楽器店に連れて行ってもらいましたが、バイオリンは高かったからなのか、代わりにプラスチックのウクレレを買ってもらいました(笑)。

小学3年生のときには、学校のクワイアという合唱隊に参加して、賛美歌や童謡を歌っていましたが、若い先生が来てからはカーペンターズやモンキーズのような1960年代、1970年代のポップスも歌うようになって。さらに、歌以外にギターも教えてもらえたので、それをきっかけに小学6年生の夏休みからギターを習い始めました。

その後、大学に入学してからはバンドも組んで、自分で書いたオリジナル曲とカバー曲を混ぜながら演奏していましたね。ちなみに、今でもやっています。

──音楽の道でプロを目指そうとは思いませんでしたか?

それは考えなかったですね。プロとしてやれるような才能はなかったですから。そして、学生時代を振り返ると、あまり先のことを考えないタイプだったなと痛感します(笑)。

海外渉外、宣伝、大阪営業所……各部署で培った知見と人脈

──CBS・ソニーに入社し、まずはどんな仕事に携わることになったのでしょうか。

最初に配属されたのは、洋楽部門の海外渉外管理課でした。この部署は、海外アーティストの現地スタッフと交渉する窓口となる部署です。

例えば、国内のマーケティングや宣伝は日本で海外アーティストをヒットさせようとイベントやテレビ、ラジオ、雑誌の取材などを企画します。こうした日本側のリクエストを受けて、“取材時間がこれだけ欲しい”“日本でも国内盤を同時発売したいから、マスターテープを送ってほしい”など、海外と交渉するのが僕らの仕事でした。

──その部署には、どれくらい在籍していたのでしょうか。

約2年ですね。その後、サードパーティーディールをリリースする部門でプロモーションの担当になるのですが、担当していたのは売れ筋のジャンルではなく、当時は注目度が低かったヒップホップやワールドミュージック。ラジオ局に行っても“待ってました、あのアーティストの新譜ですね!”とはならず、まだ国内では知られていないアーティストの情報を一つひとつ伝えてました。このとき、ただ音源を持って行っただけでは、番組で取り上げてもらえないんだと学びましたね。

そんななか、その部門が主体となってジャネット・ケイの「ラヴィン・ユー」というヒットが生まれたんです。自分たちで見つけてヒットに結びつけることができたので、俄然仕事が楽しくなったのですが、そのすぐあとに大阪営業所に異動することになりました。

──大阪では、どんな仕事を担当していたのでしょうか。

CBS・ソニーの洋楽部門の宣伝です。東京と違って、ひとりで担当します。当時の大阪営業所は、各レーベルから宣伝スタッフが数名ずつ集まっていたんですが、みんなで助け合いながら仕事ができて、とても楽しかったです。

──大阪営業所時代に印象に残っている仕事を教えてください。

Charaさんが2ndアルバムをリリースしたときに、ファンイベントでギターを弾いたことですかね。「チャーリー、ギター弾けるよね? 今度Charaがイベントのなかで1曲アコギ1本で歌うから、チャーリー弾いてよ」って言われて、約500人のファンの前でギターを弾くことになりました。

ステージを終えたCharaさんから「うまくいったね!」と言われてホッとしましたが、人前でギターを弾くのは宣伝の仕事じゃないですよね(笑)。ちなみに、そのときの模様は、音楽雑誌の記事にもなりまして……。写真のキャプションに“ギタリストのチャーリーがギターを奏で始めると……”なんて書いてあって、俺、ミュージシャンじゃないのになって(笑)。

微笑みながら話す見上チャールズ一裕

ほかにも、大阪のラジオ局の皆さんとサッカーチームを組んで、東京のラジオ局チームと東西対決をしたり、誰かの送別会があれば漫才をしたり……とにかく楽しかったですね。でも、そんな大阪も2年で去ることになりました。

宣伝担当として、遊び心あふれるアイデアを実現

──2年単位でジョブローテーションをしていたんですね。

当時は、2年ぐらいで異動するケースが多かったですね。今思えば、交流が増えてどんどん顔が広くなるので、それはそれで良かったと思います。

その後、東京に戻り、またCBS・ソニーの洋楽部門で宣伝を担当し、部署のチーフになったころには、洋楽人気がピークに達していました。ローリン・ヒルが100万枚、マライア・キャリーのベスト盤が350万枚売れていたころですから、宣伝チームが働きかけてテレビやラジオ、雑誌で取り上げてもらえば、ある程度ヒットが見込める時代になりました。

──次々とヒットが生まれるとなれば、やりがいも大きかったのではないでしょうか。

そうですね。なかでも楽しかったのは、販促物制作です。印象に残っているのは、フィオナ・アップルの新譜発売時に作ったリンゴですね。番組制作で知り合ったスタッフの実家が青森のリンゴ農園だったので、リンゴの表面に文字を入れる「寿リンゴ」の要領でフィオナの名前を入れたリンゴを作ってもらいました。半年くらいかけて作った販促物は初めてで、実物を見せたらフィオナ本人も喜んでくれました(笑)。

あと、メタリカのアルバム『ロード』の初回購入特典で、「ジャポニカ学習帳」から着想を得た「メタリカ学習帳」も作りました。販売推進の若手スタッフから「何か面白いアイデアないですかね?」と言われたので、ノリで「メタリカ学習帳は?」って言ったら「それです!」と(笑)。

やるからにはしっかりしたものを作りたかったので、糸閉じにして、名前を書くところはコーティングをなしにしたり、シールもつけて、メタリカの歴史に関するページとかメタリカのロゴの書きとりページとかも作って、かなりこだわったつくりにしたのを覚えています。

──(笑)「メタリカ学習帳」のアイデアは面白いですね。

アイデアというと、もうひとつ印象に残っているものがあって。ゲームセンターによく置いてあるプリントシールが大流行していたころに、ボブ・ディランのジャケットを同じようなシールにして封入特典にしたことがあったんですが、この企画が好評だったんですね。

その後、SMPに異動してボブ・ディランのマネージャーに会う機会があったときに「プリントシールの企画覚えてる? あれ、担当したの僕なんですよ」って言ったら、「作ったのは君だったのか。あの企画は面白かったから、次も何かやってよ!」と言われ、ボブ・ディランのチロルチョコを企画してジャパンツアーのグッズとして販売しました(笑)。

チロルチョコって上から見ると正方形で、レコードジャケットみたいじゃないですか。あれを見ていて、いつかジャケットをあしらったチロルチョコを作りたいなと思っていたんです。

そのアイデアをマネージャーに話したら、“面白いね、作ろうよ”となって。ボブ・ディランの50枚のアルバムのジャケ写をあしらった50個のチロルチョコがセットになったスペシャルアイテムを販売しました。パッケージもCDサイズにして、25種×2のワンボックスで2,000円。

ツアーでしか売らなかったんですが、チロルチョコのアイデアを実現させたかったことと、グッズがご縁になって人とのつながりが深まったのが印象深いです。ちなみに、それからそのマネージャーとは親しくなって、僕がニューヨークに転勤したときには何度も食事をしましたし、今でも交流があります。

真剣な表情でインタビューに答える見上チャールズ一裕

──その後は、どのようなキャリアを重ねたのでしょうか。

2000年に輸入盤のマーケティング部に異動しました。輸入盤の受注から仕入れ、在庫管理や流通、マーケティング業務まで、今まで見えていなかったビジネスの事情を知ることができたのは大きかったです。

例えば、輸入盤の場合、安価で海外から輸入し、日本で売れた分だけ原盤印税、著作権印税を支払います。でも、輸入盤は国内盤と違って定価がないんですよね。再販制度(メーカーが小売価格を決定できる制度)がないので、Aというショップでは2,000円ですが、Bでは1,800円で販売されるというケースもよくありました。

僕らはこうしたCDの売上から海外のレーベルに原盤印税を支払うのですが、輸入盤は定価がないため、卸値から定価を逆算して、その何%を払うという方法を取っていて。そのかけ率(販売価格に対する卸値の割合)を国内盤と同等に引き上げ、コストカットをするという方法も編み出しました。

そんなことをしていたら、意外と細かいこともできると思われたのか、2002年にSMPから声がかかり、異動することになったんです。

著作権管理から新曲開発まで、多岐に渡る音楽出版ビジネス

──SMPでは、音楽著作権管理を中心としたビジネスを行なっています。どのような仕事を学び、どういったところにビジネスの面白さがありましたか。

音楽出版社は、楽曲の権利を獲得しなければ始まらないので、それなら権利を獲得しようと、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)の作品データベースをチェックするところから始めました。

すると、有名なアーティストの楽曲は、当然、どこかの出版社が権利を保有しています。それなら、日本だけでヒットした海外アーティストはどうかと調べたところ、1980年代にヒットしていたマイケル・フォーチュナティの「ギヴ・ミー・アップ」が、どの出版社もついていなかったんです。そこで上司に相談し、交渉して権利を得ることができました。

あとは、楽曲提供にも力を入れていましたね。音楽著作権をマネタイズする際、もっとも一般的なのはレコード会社とともに原盤を作ることです。例えば、あるアーティストが新曲を探していると聞けば、“SMPでこういう楽曲の権利を持っているので歌いませんか?”“SMPでこの作家と契約しているので、新曲を書いてもらうのはどうですか?”とプレゼンをするんです。

そこでマッチングすると、新たな楽曲が生まれ、ときにはヒットにも結びつく。このようにやり方によっては、クリエーションの源泉の場に立ち会うことができるのも、音楽出版ビジネスの魅力のひとつだと思います。

──ひと口に音楽出版と言っても、業務は多岐に渡るんですね。

今お話したのは著作権を用いたマネタイズの話ですが、楽曲が使用された際、使用料を徴収し、作家(作詞家、作曲家)に分配する業務もあります。ですから、海外のソングライターたちは“あなたが私の出版社なんですね”と、音楽出版社をパートナーのように見なしてくれるんです。

SMPに入って、初めてレッド・ホット・チリ・ペッパーズのバックステージに行ったとき、ドラムのチャド・スミスに挨拶したらお礼を言われたこともありました。

──こうした音楽出版のビジネスモデルは、アメリカから始まったのでしょうか。

もともとはヨーロッパでしょうね。かつて作曲家は、パトロンから資金を得たり、演奏会を開いたりして収入を得ていました。その後、印刷技術の普及とともに、楽譜を販売するようになったのが音楽出版ビジネスの始まり。

その後、レコードができ、CDになり、配信サービスが始まり……と時代の変遷とともにメディアが移り変わっていきます。ただ、根っこは音楽著作権という作家が書いた楽曲があるんです。日本の場合、著作権は作家さんの権利であることの認識が希薄なまま、レコード会社やマネジメント会社、放送局が楽曲を使用してきたので、海外とは目線がまったく違います。

手を組んで話す見上チャールズ一裕

──その後、見上さんはソニー・ミュージックエンタテインメントのニューヨークオフィスに転勤しますね。

2010~14年まで、ニューヨークにいました。同じビルにはSony/ATV Music Publishing(現、Sony Music Publishing)があり、よく顔を出していました。ほかの音楽出版社も多くありましたし、ソニーミュージックグループを代表して赴任していたので、何でもやりました。そのおかげで人脈がどんどん広がったころですね。

──ニューヨークはエンタテインメントやビジネスの中心地ですから、刺激も大きかったのではないでしょうか。

そうですね。音楽出版社が著作権を活用して、さまざまなビジネスを興すところを目の当たりにしました。当時は『ジャージーボーイズ』や『ロック・オブ・エイジズ』などミュージカル用に書かれたのではない既存曲を使った作品がヒットしていたので、Sony/ATV Music Publishingでもキャロル・キングの半生を描いた『ビューティフル』というミュージカルを企画していたり、ラスベガスではザ・ビートルズの原盤を使用した『LOVE』がヒットしていたり、音楽著作権をいかすいろいろな取り組みをしていましたね。

その後、クイーンの楽曲と野田秀樹さんのNODA・MAPがコラボレーションした『Q:A Night At The Kabuki』の製作時にも、この経験が役立ちました。

後編に続く

文・取材:野本由起
撮影:干川 修

関連サイト

ソニー・ミュージックパブリッシング
https://www.smpj.jp/(新しいタブを開く)
 
ソニーミュージックグループ コーポレートサイト
https://www.sme.co.jp/business/(新しいタブを開く)
 
ソニーミュージックグループ採用情報
https://www.sme.co.jp/recruit/(新しいタブを開く)

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