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○○について知っておきたい○○のこと

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと①

2025.04.22

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1980年代のポップアイコンから、多様性の時代のシンボルへ――常に自分らしさを貫き、個性的な輝きを放ち続けるシンディ・ローパー。

親日家としても知られ、日本とは固い絆で結ばれている彼女の素顔を、ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルの担当者が解説する。

  • 佐々木洋プロフィール画像

    佐々木 洋

    Sasaki Hiroshi

    ソニー・ミュージックレーベルズ

シンディ・ローパー Cyndi Lauper

シンディ・ローパープロフィール画像

©Annie Leibovitz

1953年6月22日、ニューヨーク生まれの歌手・俳優。1983年のソロデビュー・アルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』(日本発売は1984年2月)は、アメリカだけで600万枚、全世界で1,600万枚以上(当時)という驚異的なセールスを記録した。また、女性の社会的地位向上やLGBTQ+コミュニティ、HIV/エイズとともに生きる人々に対する支援活動などを通じて、社会にメッセージを発信し続けている。大の親日家としても知られており、2011年の東日本大震災の際には多くの海外アーティストの来日公演が中止となるなか、日本ツアーを敢行したことは、語り草になっているエピソードだ。2024年に『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン・フェアウェル・ツアー』の開催とともに、このツアーがシンディ・ローパーにとって最後のワールドツアーになることを発表。2025年4月19日から6年ぶり15度目、そして最後のジャパンツアーを開催。

記事の後編はこちら:シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと②

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと①:人柄、生い立ち、そして音楽キャリアの始まりについて

――今回は、ソニー・ミュージックインターナショナルジャパンで2015年からシンディ・ローパーを担当している佐々木洋さんに、シンディ・ローパーについて知っておきたい基礎知識を、貴重なエピソードとともに解説してもらいます。まずは、シンディ・ローパーの人柄を教えてください。

僕が担当になってからは「“自分らしさ”を貫くアーティストの先駆けとなった“アンユージュアル”なポップアイコン、シンディ・ローパー」というキャッチコピーを使っています。

今回のジャパンツアーの前夜祭として、長編ドキュメンタリー映画『シンディ・ローパー:レット・ザ・カナリア・シング』 が1週間の期間限定で上映されました。シンシア・アン・ステファニー・ローパー(シンディ・ローパーの本名)が、いかにしてシンディ・ローパーになっていったかを描くドキュメンタリーなんですが、それを見てすごく感じたのは、彼女は幼いころから既にシンディ・ローパーだったんだなということです。

『シンディ・ローパー:レット・ザ・カナリア・シング』キービジュアル

ドキュメンタリー映画『シンディ・ローパー:レット・ザ・カナリア・シング』

その映画では、子どものときにテレビのクイズ番組を見たシンディが、「優勝者には“クイーン”という称号が与えられるのに、洗濯機が優勝商品なのはおかしい。なぜクイーンなのに家事をしなきゃいけないの?」と思ったというエピソードが出てきます。子どもでは、あまり感じないようなことを感じていたんですね。

僕らは結果論的に、彼女が個性的だから自分を貫くことになったと思いがちですが、彼女にはティーンのころから既に自分がなりたい人間像があって、それを諦めず、余計なことは頑ななまでに跳ねのけてきた。ちゃんと自分の意思を貫いて、自分の個性を大切にしてきたからこそ、シンディが今も支持される存在になっているんだと、改めて感じました。

――シンディ・ローパーの生い立ちについて教えてください。

スイス/ドイツ系アメリカ人の父親とシチリア系アメリカ人の母親との間に生まれたシンディは、移民が大勢暮らすニューヨークのブルックリンに住んでいました。5歳のときに両親が離婚し、引っ越して母親が再婚した相手から、フィジカル的にもメンタル的にも虐待を受けたそうです。

仲のいいお姉さんが耐えきれず家を出て、ひとりになったシンディはかなりグレてしまったそうで……。このままじゃダメだと思ったお姉さんが声をかけて、彼女の家に住むことになりました。そのときお姉さんが一緒に暮らしていたのがLGBTQ+の人で、シンディは最初から偏見などまったく持たなかったそうです。そうした経験があったから、多様性に対する理解や社会的弱者に寄り添う気持ちを早くから持っていたのでしょうね。

――音楽のキャリアはどのように始まったのでしょう。

ティーンのころにはザ・ビートルズやジョニ・ミッチェル、ジャニス・ジョプリンなどに夢中になって、自分で作った曲を歌ったりしていました。いくつかバンドを経験して、1980年にブルー・エンジェルというバンドでデビューします。でもなかなかうまくいかずにバンドは解散、ソロの道を目指すことになりました。

有名なエピソードとしては、そのときに、バンドのマネージャーが起こした裁判によってシンディのソロデビューが阻まれそうになったのですが、裁判官が「才能がある彼女に歌うことをやめさせちゃいけない。“レット・ザ・カナリア・シング”」という映画のタイトルにもなっている言葉とともに裁定を下して、晴れてソロアーティストとして進んでいくことになったんです。その裁判官も、ものすごくセンスがある人だなと思いますよ。

花柄のワンピースに赤いボーダーのパーカーを着たシンディ・ローパー

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと②:デビュー曲「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」の誕生エピソード

――そしてシンディ・ローパーは1983年8月にシングル「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」でソロデビューし、同年10月にファーストアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』をリリースしました。最初にシンディ・ローパーが世に出てきたころは、ド派手なトリックスターみたいな印象がありましたね。

『シーズ・ソー・アンユージュアル』ジャケット写真

『シーズ・ソー・アンユージュアル』(1983年)

そうでしたね。僕は当時まだ小学生でしたが、衣装もメイクも奇抜で、キャッチーな曲をしゃくり上げるように歌うシンディは、ポップスというよりも、色物に近いような感じで受け入れられていたように記憶しています。

デビュー曲の「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」はカバー曲で、もともとは歌詞も男性目線で書かれたものでした。「オレたちのことチャラいって言うけど、女の子の方こそオレたちと楽しみたいと思ってるんじゃない?」 というような内容だったんです。

シンディはプロデューサーからこの曲を歌ってくれと言われたとき、最初は「こんな女性をバカにした曲なんか歌えるか!」って拒否したんですけど、そのあと「女性目線に合わせてちょっとだけ歌詞を変えたらとんでもない女の子賛歌になるぞ」と思って、歌詞を変えたんです。

よくデビュー曲にはそのアーティストのすべてが詰まっていると言いますが、「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」はポップでメッセージ性もあって、本当にシンディのすべてが詰まっていたんだって、40年以上経ってわかった気がします。

――「ハイ・スクールはダンステリア」という邦題も強く印象に残っています。

これには有名な事件がありまして……。言うまでもなく曲名はアーティストにとってとても大切なものなので、今、邦題が必要なときは、かなり慎重になってことを運びます。でも当時はSNSもないですし、レコード会社の担当が自分の感性やマーケティングプランにもとづいて自由につけた邦題が多かったんです。

シンディが来日してテレビ番組に出演したときに、目の前で司会者が「それでは聴いてください、“ハイ・スクールはダンステリア”!」って言った瞬間にシンディが「え!?」ってなって。「“ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン”の歌詞には“ハイ・スクール”も“ダンステリア”も一語も入ってないのに、このタイトルは何?」ということになり、当時その邦題を考えた担当者がめちゃくちゃ怒られたそうです(笑)。

そのエピソードは笑い話のように語られていますが、でも「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」に込めたメッセージや想いを考えたら、めちゃくちゃ怒った彼女の気持ちが理解できますよね。

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと③:ヒットの要因はプロレスのリングに上がったこと

――デビュー当時、既に30歳前後だったシンディ・ローパーは、遅咲きのアーティストだと言えますね。

そうですね。そのぶん、自分でしっかりコンセプトを立て、コントロールもできたのでしょう。デビューアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』は、アートワークや衣装もすべてシンディ自身がプロデュースしていました。

ただ、最初からいきなり売れたわけじゃないんですよ。「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」が思ったより売れなくて、セカンドシングル「タイム・アフター・タイム」に切り替えて売り出そうという話が出たときに、シンディは「今のこの曲でちゃんと世の中にインパクトを残せない状態で、次にバラードを出して売れたら、自分のメッセージも伝わらないし、バラードシンガーみたいになってしまうのがイヤだ」って言ったんです。

そこで彼女が個性的なアピールをするために選んだのが、プロレスのWWF(現、WWE)と組んでの展開でした。

――もともと「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」のミュージックビデオにも、キャプテン・ルー・アルバーノというWWFのマネージャーが父親役で出演していました。

シンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」(日本語字幕ver)

それがきっかけだと思うんですが、シンディは1985年に開催されたWWFの「レッスルマニア」に出場。新人の女性シンガーがプロレスのリングに登場するっていうのも、なかなかない発想だと思うんですよ。そこから急にドカーンと売れ始めたっていうのがまたすごいなと。確かに、一般層に届くインパクトがありますよね。変わった子が、変わった場所で、変わったことしてるみたいな(笑)。

1980年代当時は、マドンナとシンディが女性アーティストの二大巨頭でした。マドンナがセックスシンボル的な女性像を前面に押し出していたのに対し、シンディはキャラクター性を押し出していて。どっちが好きかで、ファンもマドンナ派とシンディ派にはっきりわかれていましたね。

そうやって「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がちゃんとヒットしたからこそ、「タイム・アフター・タイム」や「トゥルー・カラーズ」がリリースされたときに、こんなに深みがあるアーティストだったんだ、みたいに受け止め方が違ってきたのだと思います。

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと④:映画『グーニーズ』の主題歌にまつわるエピソード

――シンディ・ローパーは音楽を軸にしながら、プロレスに出たり、映画『グーニーズ』(1985年)の主題歌を歌ったりと、1980年代カルチャーと密接に絡んでいたイメージがあります。

映画『グーニーズ』の主題歌「グーニーズはグッド・イナフ」は、当初「Good Enough」というタイトルでしたが、勝手に「The Goonies 'R' Good Enough」というタイトルに変更されてめちゃくちゃ怒ったらしいです(笑)。長い間、コンサートであまりこの曲を歌わなかったのは、そのせいでもあったとかなかったとか。

Cyndi Lauper - The Goonies 'R' Good Enough

『グーニーズ』に関連したエピソードをもうひとつ。2015年の来日のとき、シンディが「東京の地下鉄に乗って原宿に行きたい」と言ったので、一緒に地下鉄に乗って出かけたことがありました。そうしたら裏原宿のところで、20代ぐらいの男性が「大ファンなんです!」って声をかけてくれたんですね。シンディが「あなたの年齢ぐらいだと、私のことなんて知らないでしょ」って言ったら、「僕は『グーニーズ』が大好きで、何百回も見ました!」って。

映画の『グーニーズ』がエバーグリーンなポップアイコンになっていて、それとシンディとの組み合わせはすごく相性が良かったんだろうなって、改めて思いました。

その裏原宿のエピソードとつながりがあるかはわかりませんが、次の2019年の来日のときに「グーニーズはグッド・イナフ」がセットリストに入っていたのには驚きました。言った通り、彼女は長い間この曲をコンサートで歌っていなかったので……ひょっとしたら、ですね。

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと⑤:名曲「トゥルー・カラーズ」がつないだ日本との絆

――1986年にセカンドアルバム『トゥルー・カラーズ』がリリースされ、タイトルトラックの「トゥルー・カラーズ」が全米1位をとります。

シンディ・ローパー「トゥルー・カラーズ」(日本語字幕ver)

「トゥルー・カラーズ」の歌詞は、外見ではなくあなたの本当の美しさは内面にあるということを歌っています。今ではLGBTQ+コミュニティのアンセムのようになっていますが、もともとはそれを意図して書かれたというわけではなかったかと思います。

歌詞に「Like a rainbow」といった言葉が入っていたことから、徐々にコミュニティに受け入れられていったんです。LGBTQ+の人と一緒に住んでいたというバックグラウンドを持つ彼女が歌ったからこそ、コミュニティの人たちにも「これは私たちの歌だ」って感じられたんでしょうね。

それから、日本での「トゥルー・カラーズ」にまつわるエピソードもご紹介しましょう。1980年代当時、日本で開催される洋楽のコンサートは、オーディエンスがすごい静かでした。海外だとライブ中はみんな大騒ぎなのに、「なんで?」ってシンディも最初はびっくりしていたそうです。

けれど「トゥルー・カラーズ」を歌ったときに、日本のオーディエンスが大合唱してくれて、そのときにシンディは、日本のファンは自分の曲をちゃんと理解しようとしてくれているんだとわかったそうです。そこから彼女のなかで、日本が特別な場所になったと言われています。

シンディ・ローパーについて知っておきたい12のこと⑥:俳優業が順調だった1990年代、人間性への評価が高まった2000年代、そして2011年3月11日へ――

――シンディ・ローパーの1990年代以降のキャリアについて聞かせてください。

1990年代に入ると音楽シーン自体がガラッと変わったこともあり、チャートをにぎわすような大きなシングルヒットはあまり出ませんでしたが、彼女のキャラクターをいかした俳優業で注目されていました。

1995年には『マッド・アバウト・ユー』という人気テレビコメディで、エミー賞のコメディシリーズ部門ゲスト女優賞を受賞しています。当時は今みたいに日本での配信もないので、彼女が俳優として活躍していたことはあまり知られてないと思います。

2000年代に入ると、だんだんと世の中でも多様性といったテーマに注目がいくようになり、ニューヨークのゲイパレードに参加するといった活動も増えていきました。そのあたりから今につながる、「シンディはマイノリティの味方」というイメージが定着し始めたように感じます。ただのポップスターではなく、彼女のもつ人間的な深みが多くの人を惹きつけるようになっていきました。

2019年の日本公演の写真

2019年の日本公演 ©MASANORI DOI

2011年の3月4日にアルゼンチンのブエノスアイレス空港で、飛行機が飛ばなくなって何時間も足止めを食らった乗客がピリピリしていたときに、シンディが機内アナウンスのマイクをとって「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」を歌い、みんな大合唱で笑顔になったというできごとがありました。その姿がSNSにアップされて、「シンディすごい!」みたいな話が一気に広まって。その直後に、3月11日の東日本大震災が起きたんです。

後編に続く

文・取材:土屋恵介

リリース情報

『レット・ザ・カナリア・シング <ジャパン・エディション>』の写真

『レット・ザ・カナリア・シング <ジャパン・エディション>』
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関連サイト

日本オフィシャルサイト
https://www.sonymusic.co.jp/artist/CyndiLauper/(新しいタブを開く)

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