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エンタメ業界を目指す君へ

音楽プロデューサーに欠かせない素養とは? 尾崎豊、石崎ひゅーいらを手がける須藤晃に聞く【前編】

2023.11.28

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エンタメ業界の最前線で働く人々から現場の生きた情報を聞き出し、お届けする連載企画「エンタメ業界を目指す君へ」。

今回は、尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二、橘いずみ、石崎ひゅーいといったアーティストを担当し、音楽制作のパートナーとして数々の名曲の発表に携わってきた音楽プロデューサー・須藤晃に話を聞く。

独自の手法でアーティストと音楽を作り上げることで知られる須藤晃。彼はどんな経緯で音楽プロデューサーの道を選び、どのようにして後世に語り継がれる名曲をアーティストとともに生み出してきたのか。数奇な縁に導かれて音楽業界に足を踏み入れた須藤晃の半生から、エンタテインメント業界で働くことのヒントを見出していく。

前編では、須藤晃の音楽原体験を聞きつつ、詩人になることを志していた彼が、なぜ音楽プロデューサーになったのか……その経緯を語ってもらった。

  • 須藤晃プロフィール写真

    須藤 晃

    Sudoh Akira

    音楽プロデューサー

    富山県出身。1977年東京大学英米文学科卒業後、株式会社CBS・ソニー(現:株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二、橘いずみ、石崎ひゅーいらを担当し、音楽制作のパートナーとして数々の名曲、名アルバムの発表に携わる。1996年より株式会社カリントファクトリーを主宰。2015年から富山市芸術文化ホール(オーバード・ホール)の運営などを行なう(公財)富山市民文化事業団の芸術監督に就任。自身の故郷、富山県にさまざまな芸術を招聘し、北陸の地の文化振興に尽力している。

須藤晃の音楽原体験は保育園のお昼寝の時間にあり

――まずは、改めて須藤さんの音楽の原体験から教えてください。

まだテレビが家のなかにない時代に生まれていますから、最初の音楽体験というのはそれこそ保育園ですよ。昼寝の時間、あれは、午後なのかな。昔だからみんな座布団みたいなところに寝かせられるんだけど、そのときにいつも同じ音楽が流れるんです。

これはもちろん高校生ぐらいになってからわかったことですけど、そのとき流れていた曲はカミーユ・サン=サーンスの『白鳥』(動物の謝肉祭」より)。それと、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』も流れていました。

両方ともピアノとチェロだけのシンプルな曲だけど、とても綺麗なメロディ。それを幼いころに聞いていたというのが僕の音楽原体験で、いわゆるアートというものとの鮮烈な出会いだったような気がしますね。結局チェロとピアノっていう楽器の音色がすごく好きで、自分が音楽プロデューサーになってからも、その体験を音楽に還元していた気がします。

だから園の先生が『花笠音頭』や『赤城の子守唄』を昼寝の時間にかけていたら、自分はこうなっていなかったかもしれない。そして、いまだに『白鳥』を聞くと眠くなりますよ(笑)。

――(笑)。楽器の話が出ましたが、須藤さんは子どものころに楽器の演奏経験はありましたか?

なかったです。小学生になってから、やっぱり何かピアノでも何でも弾いてみたいっていう気持ちはありましたが、親に言ったら「お金がないから駄目だ」と、はっきり言われましたね。昔はどこの家もみんな貧乏だったし、ピアノを習うことができるのは特別にお金のある家の子たちだけでした。

でもある日、我が家にオルガンが届いたんです。年ごろになった妹が習うためだったんですが、だったら「自分も習いたい」と言ったんだけど、やはりお金を理由に駄目だと言われて。でも、オルガンは家にあるから遊びで弾いてみたりはしました。

ところがある日、赤飯にかけるゴマ塩ってあるでしょう。あれを、自分がオルガンの上にぶちまけちゃって。ゴマ塩が鍵盤の隙間に入って3つか4つ音が出なくなっちゃって、ものすごく怒られましたね。それで気持ちが引いちゃって、それ以降、楽器を弾きたいっていう気持ちからはどんどん遠ざかっていきました。

――音楽に触れる機会も遠ざかりましたか?

いや、それでも音楽は聴きたかったから小学校5年生くらいのときにステレオを買って欲しいって父親に頼んだんです。答えはやっぱり駄目だったんだけど、ある日、父親から「お前、柔道を習いに行け!」と言われて。「柔道を半年つづけられたらステレオを買ってやる」と交換条件みたいなものを突然出されたんです。

僕は当時、身体が脆弱だったし、運動神経も特に良くない、柔道にはもちろん興味がない、という子どもだったんだけど、ステレオ買って欲しさに近くの整骨院の先生がやってる柔道教室に習いに行きました。そして何カ月かつづけていたら、ある日ステレオが家に届いたんです。あれは、うれしかったですね。

須藤晃写真01

僕には3歳上の兄がいるんですが、兄は自分の小遣いで朝日ソノラマ(赤いソノシート)をよく買っていて、それを一緒に聴いていました。オリジナルではない歌手のバージョンが多くてね、「コレなんか違うな?」なんて思いながら(笑)。

――自分のお小遣いで買ったレコードを覚えていますか?

まだ英語もわからないし、日本語の曲が良いなと思って、加山雄三さんとかのレコードを買ってました。当時、富山の自分が生まれ育った町にはレコード店が1軒しかなくて、しょっちゅうそこに顔を出してね。

店長に薦められるままにレコードを買ってたんだけど、そのうち演歌とかも薦められるようになって……これはどうなんだろう? なんて思いましたが、自分で買ったレコードは本当に擦り切れるほど聴いてましたね。それと絶対忘れちゃいけないのが中学生のとき、自分に絶大な音楽的影響を与えたグループサウンズです。

中学生で目の当たりにしたスーパースターの存在

――いわゆるGSブームですね。

そうGS。自分はザ・タイガースが好きだったんです。沢田研二さん、ジュリーですね。そして、中学校2年生のときにザ・タイガースがコンサートで我々の町に来るということになって。それこそ『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』の世界。

でも、学校からは事前に「行っては駄目」という通達が出たんです。要するにエレキギターが不良の音楽だって言われて。でも自分はどうしても観たくて行きました。ジュリーを生で観て、それはもうかっこ良かったですね。

――具体的にはどんな感想を抱きましたか。

まずは、スターというものを初めて目の当たりにして、やっぱり興奮しました。そして、ザ・タイガースだけじゃなくて……今だったら大谷翔平さんを例に挙げるとわかりやすいと思いますが、必ずどの時代にもスーパースターという人が出てくるんですよ。そうすると、人間というのはその姿にものすごく惹かれるから。今の子どもたちがみんな野球したがるっていうのは、やっぱり大谷翔平さんの活躍を見て影響を受けている部分があるのでしょう。

ましてや当時のGSブームを牽引したグループは、ザ・タイガースも含めてみんな自由だったし、エレキのギターやベースを使ったバンドスタイルで、新しい音楽を奏でていたわけで。GSから生まれてくる音楽はロックとはちょっと違うけど、どっかの偉い先生方が作ったものじゃないというのは中学生ながらに感じていました。そして、僕が音楽を作るということに漠然とした興味を持ったのは、もしかしたらこのころだったのかもしれないですね。

――多感な時期ですから、音楽の視野も拡がっていきますね。

それからしばらくして歌謡曲はあまり聴かなくなったけど……でもちょっと新しさを感じるものってあるじゃないですか。日常生活のなかで出会う“はっ”とするようなもの。そういうものには敏感になったと思いますね。

その後、大学時代は、クラシックはもちろんのこと、ジャズはビル・エヴァンスを筆頭に死ぬほど聴いたし、オペラも散々聴きました。いっぽうで、僕の音楽体験として贅沢だったのは大学生のころに1960年代のブリティッシュ・ロックや1970年代のウエストコースト・ロックの一番良い時代をリアルタイムで体験できたことですね。

大学在学中にアメリカ放浪の旅へ

――須藤さんは、東京大学の英米文学科に進学されますが、大学在学中に一度休学して数カ月間アメリカに滞在していますよね?

行きました。それは音楽とはまったく関係ないんですけどね。大好きだった寺山修司さんの『書を捨てよ町に出よう』と小田実さんの『何でも見てやろう』の2冊を読んで、すごく感化されたので「じゃ、アメリカに行ってみよう!」と。今ではアメリカに対する憧れみたいなものはほぼなくなりましたけど、当時はもうアメリカが僕のなかでザ・ベストだったんですね。“コカ・コーラ”って響きだけでしびれていましたから(笑)。

それで1972年に渡米することにしたんです。その当時、自分が知り得た情報のなかだけの何か自由気ままな冒険旅行みたいなものをしてみたくなったんですね。

――1964年の渡航自由化により、第1次海外旅行ブームが到来している時代ではありますが、学生でありながらよくアメリカに行けるだけの資金がありましたね。

お金なんてあるわけないですよ(笑)。そのころは日本からアメリカに1,000ドルまで持って行くことが許されていましたが、1ドル=300円ぐらいの時代ですからね、約30万円という大金です。友達に借りようにも周りはみんな貧乏学生ですから、知り合いの人にお金を借りたんです。現金を持ち歩かなくても済むように小切手式のトラベラーズチェックに換えてね。

――今のようにクレジットカードが普及する前の話ですよね。

そうですね。ロサンゼルスからグレイハウンドバスに乗ってNYを目指したんですが、ロスやNYの大都市のホテルとかならトラベラーズチェックを使えるんですけど、途中の田舎町のドラッグストアみたいなところでチェックを切ろうとすると、店員の人が「なんじゃこれ?」みたいなことで時間がかかって、使えないこともしょっちゅうでした。水も買えませんでしたからね(笑)。

だから使えるお店で買い込んだり、わざとお釣りが出るようにして小銭を現金化したりしてやりくりしましたが、なんだかんだでNYに着くころにはすっからかん。だからNYではアルバイトをして過ごしていました。

大学生だけど、働きたいという意欲もないし、これをやりたいっていう労働意欲をかきたてられるような目標もない。音楽は好きだったけど、それで飯を食っていこうなんて全く考えていないから、僕のなかでの“何でも見てやろう”は、ある種の時間延ばしというか、現実逃避と言われても仕方ないものだったと思いますね。

――結局、大学には……。

6年間通うことになるんですけど、最初の2年間は教養学部で駒場に通い、その後、本郷キャンパスに移って専門課程に入る。そこで僕は最初、芸術学科を選ぶわけです。でも全く勉強についていけなくて……だって授業がラテン語なんですよ(苦笑)、わかるわけがない。

ちなみに、そのとき僕が教わっていた教授が今道友信さんで、あのバービーボーイズのギタリスト・いまみちともたかさんのお父さんでした。バービーボーイズは担当したことはなかったけど、同じレーベルだったから何度か会ったことはあって、そのときいまみち君ともその話をしたことがありますよ。「ご縁がありますね」って(笑)。

結局、芸術学科はちんぷんかんぷんで、3カ月のアメリカ流浪の旅をして戻ってきたあと、もうアメリカ文学しかないと思って、英米文学科に変えたんです。そこで卒業を迎えました。そして、先ほど「やりたいことがなかった」と言いましたが、唯一興味があったというか、漠然と子どものころから憧れていて、職業にしたいと思っていたのが詩人だったんですね。ただ、父親をはじめ周囲からは「お前、詩人でどうやって食っていくんだ!」と猛反対されましたけれどね(苦笑)。

須藤晃写真02

須藤晃なりのけじめで音楽業界の扉を叩く

――そんな須藤さんが、どうして大学……あえて言いますが東大卒業後にCBS・ソニーに就職されたのですか? 当時、東大卒という学歴でエンタテインメント業界を志望する人は、非常に少数派だったのではないかと思いますが。

このインタビューは、エンタメ業界を志望する人たちに読んでもらうためのものなんですよね? そういう人たちに向けて、こんなことを話して良いのかわからないけど、本当のことを言いますよ(笑)。

もう6年生になってしまったから、本格的に将来のことを考えなきゃいけない。周りの学生は、みんな就職相談に行ってるか、東大で相談に行かない人は大学院ですよ。だから、自分も大学院に行くかぐらいに思ってたんだけど、さっきある人にお金を借りてアメリカに行ったと言ったじゃないですか。30万円という大金を出してくれたのが、当時お付き合いをしていた彼女のお父さんだったんです。

そのお父さんから「須藤くん、もう一回大学へ行ってうちの家業を継いでくれないか」と言われたんですよ。自分の人生この先どうしようか、詩人になりたいけど周りから猛反対されて悩んでるような人間が、急に「家業を継げ」と言われても「それはちょっと」って言うしかないですよね。

でも、お金は借りてしまっているし、学生がちょっとバイトして返せるような金額ではない。これはもう彼女と早く結婚して、ちゃんとしないと許されないなと思ったわけです。それで彼女と学生結婚をして、そうなると卒業してしっかり働かなくちゃいけない状況になっちゃったんです。

――須藤さんなりの“けじめ”ということですね。

自分で勝手にそう思い込んじゃった部分もありますけどね。それで学生課に行って就職案内を見ていたときに、「CBS・ソニー カリフォルニアレモン農園」という文字が目に入ったんです。CBS・ソニーという音楽ビジネスを手がける会社が、カリフォルニアでレモン農園ってどういうことだ? と思いましたけど、音楽の会社だったら詩を書くという仕事もできるかもしれないし、カリフォルニアのレモン農園ということはアメリカにも行けるだろうから、“レモン農園希望”と書いてエントリーしました。

そしたら当時のCBS・ソニーの社長だった小澤(敏雄)さんが面白い奴だと目を付けてくれたみたいで。段階を踏まず一気に社長面接になって、そこで「はい、採用です」と言われました。でも、CBS・ソニーのほかにもエントリーしている会社があるから、その場で「わかりました。入社します」とは言えなかったんですね。

小澤さんは、「ほかを受けずに、もううちに来なさい」と言ってくれたんですが、こっちにもこっちの事情があるから……。結局、同時に面接を受けることになっていた放送局と広告代理店は、わざと落ちました。

――わざと落ちたというのはどういうことですか?

放送局の面接では、当時、その局の看板番組を「僕にやらせて欲しい!」って面接官に豪語して、落とされました(笑)。素人学生がいきなり看板番組をやらせろなんて言ったら、生意気なヤツだって思われて当然ですよね。

広告代理店のほうは、当時のバイト先でお世話になった方が紹介してくれた働き口で、「須藤君なら間違いなく受かるから」と言われていたんだけど、入社試験でありとあらゆる問題を間違えて、「本当に残念だけど試験の点数があまりにも低くて……申し訳ないんだけど不採用ということに……」と言われました。

「自分も残念です……」ってちょっと小芝居を打ったんだけど、このときは本当に申し訳ないと思いましたね。そうして1977年に、CBS・ソニーに入社しました。結果、彼女のお父さんも、ソニーの名がつく会社に入社したことを喜んでくれて、それはそれで良かったんですが、肝心の「CBS・ソニー カリフォルニアレモン農園」はそのあとすぐになくなったようで、邦楽の企画制作部というところに配属になったんです(苦笑)。

須藤晃写真03

中編につづく

文・取材:安川達也
撮影:干川 修

関連サイト

尾崎豊 ソニーミュージックオフィシャルサイト
https://www.sonymusic.co.jp/artist/YutakaOzaki/(新しいタブを開く)
 
須藤晃 オフィシャルサイト
https://www.karinto.co.jp/(新しいタブを開く)

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