須藤晃後編PCバナー
須藤晃インタビュー後編スマホバナー
連載Cocotame Series

エンタメ業界を目指す君へ

音楽プロデューサーに欠かせない素養とは? 尾崎豊、石崎ひゅーいらを手がける須藤晃に聞く【後編】

2023.11.30

  • Xでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Facebookでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • LINEでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • はてなブックマークでこのページをシェアする(新しいタブで開く)
  • Pocketでこのページをシェアする(新しいタブで開く)

エンタメ業界の最前線で働く人々から現場の生きた情報を聞き出し、お届けする連載企画「エンタメ業界を目指す君へ」。

今回は、尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二、橘いずみ、石崎ひゅーいといったアーティストを担当し、音楽制作のパートナーとして数々の名曲の発表に携わってきた音楽プロデューサー・須藤晃に話を聞く。

独自の手法でアーティストと音楽を作り上げることで知られる須藤晃。彼はどんな経緯で音楽プロデューサーの道を選び、どのようにして後世に語り継がれる名曲をアーティストとともに生み出してきたのか。数奇な縁に導かれて音楽業界に足を踏み入れた須藤晃の半生から、エンタテインメント業界で働くことのヒントを見出していく。

後編では、シンガーソングライター・尾崎豊のレコードデビュー40周年に触れ、なぜ尾崎豊の歌が40年という月日を経ても歌い継がれるのかを聞くとともに、尾崎豊と須藤晃の“If”についても語ってもらった。

  • 須藤晃プロフィール写真

    須藤 晃

    Sudoh Akira

    音楽プロデューサー

    富山県出身。1977年東京大学英米文学科卒業後、株式会社CBS・ソニー(現:株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。尾崎豊、村下孝蔵、浜田省吾、玉置浩二、橘いずみ、石崎ひゅーいらを担当し、音楽制作のパートナーとして数々の名曲、名アルバムの発表に携わる。1996年より株式会社カリントファクトリーを主宰。2015年から富山市芸術文化ホール(オーバード・ホール)の運営などを行なう(公財)富山市民文化事業団の芸術監督に就任。自身の故郷、富山県にさまざまな芸術を招聘し、北陸の地の文化振興に尽力している。

アーティストの生涯ベストテイクを録ることにこだわる

――(中編からつづく)「I LOVE YOU」もファーストテイクなんですね。

あれは正確には2回歌ってますね。でも使ったのは最初のテイクです。「I LOVE YOU」だけではなく、いつもOKを出したあとアーティストに言っていることがありました。「このあと100回も200回もライブでこの曲を歌うことになるけど、自分のベストテイクがこれにならないようにね」って。

これは中島みゆきさんが言っていたんですが「『時代』のレコーディングテイクをライブで超えることがどうしても出来ない」と。尾崎さんで言えば、僕から見れば「卒業」のレコーディングテイクが素晴らしすぎて、ライブで何回歌ってもレコードを抜くことができなかったですね。

自分のことをレジェンドプロデューサーだなんて全く思っていませんが、あの「卒業」を録ったことについては仕事として誇れると思っています。それじゃ、次、2番の頭から歌ってくださいなんて言ってたらあんなテイクは録れないですよ。そう思ってもう一度「卒業」を聴いてみてください。あれこそ狂気の歌声ですから。

須藤晃後編写真01

――そういうエピソードを聞いてから聴き直すと、また曲の輝きが変わってきますね。

音楽プロデューサー、音楽ディレクターなる者は担当アーティストの生涯ベストテイクを記録することにこだわらなくちゃいけないと思います。実際、自分にとってそうなった曲も、そうならなかった曲もある。だからこそ頑張らなくちゃいけないのかなと僕は思います。

僕は自分の担当アーティストのライブを観に行くのが好きじゃないって公言しているんですよ。それは自分が録ったテイクよりも良い歌を目の前で歌われるのが嫌だから。なので開演前の楽屋に行って本人が動揺するようなことをぼそっと言ったりしてね……冗談ですけど(笑)。

――(笑)。ちなみに、須藤さんは玉置浩二さんの「田園」にも携わっていて、この曲は作詞が玉置浩二、須藤晃の共作です。この歌詞制作では須藤さんの武器でもある文学の力がいかされたのではないでしょうか。

「田園」って早口で言葉を叩き込んでるんだけど、玉置さんに言わせるとあれは須藤スタイルだと。玉置さんのような天才肌のシンガーソングライターと作業するとき、歌詞の話はするけどコードの話なんかは一切しないですから。なぜなら僕には音楽の素養はまったくないからね。

音楽プロデューサーは、音楽的な素養がないとできないんじゃないかって思っている人がいまだに多いようですが、それは関係ないですからね。僕は譜面を読めないし、楽器も今は弾けるけど、当時は弾けなかったから。だから若いころはミュージシャンとかスタジオの人にすごい馬鹿にされました。

――意外ですね。

僕の周りも元ミュージシャンという人がディレクターをやってくれてたんだけど、スタジオでそこのキーはちょっと変えてとか言っていて、全然わかんないわけですよ。こっちは音楽理論なんて全く勉強してないんだから。

でも、これはそういうことがわかる人が側にいてくれれば良いんだと気づいて、自分のブレーンになってくれる人を探したんです。それこそ元ミュージシャンとかね。何かあればその人に聞いて、最終的な指示は自分が出す。そういうやり方をしてました。

それこそまだプロデューサーとして駆け出しのころに、ストリングスの人たちにスタジオに来てもらって「サビからもうちょっと流れる感じでお願いします。滝から水が落ちて溜まったあとにざーと流れるイメージで」と注文すると、「なに言ってんだよ! 譜面でしっかり指示を出せよ」と言われてね。

でも、こっちがプロデューサーとして名前が知られてくると、同じような場面でも「そこはもうちょっと星がきらめく感じが欲しい」なんて言うと「星のきらめきですね! わかりしました!」って(笑)。

――わかりやすいですね(笑)。

何が言いたいかというと、音楽制作は感性の仕事だということです。譜面に書かれたものって一番つまらないものだと僕は思ってますから。さっき「文学という武器がありましたよね」と言ってもらいましたが、文学に関しては、ものすごく勉強したし、自分で言うのもなんだけど、言葉の素養はあったと思います(笑)。

だからコード進行には意見しないけど、歌詞のほうで「眩良い光が……」とか書いてこられると「光って基本的に眩いよね」みたいなことはよく指摘していました。以前から「歌詞をプロデュースできるプロデューサー」みたいなことを言われてましたが、別に詞のプロデュースをしてるわけじゃないんですよ。

普段から使っている日本語を歌にしたときに歌詞ができるわけで、それが相手に伝わるかどうかっていうのが言葉の力。言葉の響き方に関しても学問として散々勉強してきたから、そういうことはシンガーソングライターの人たちと深く話しましたね。

もし尾崎豊が今の時代を生きていたら何を歌ったか

尾崎豊写真

尾崎豊

――尾崎豊さんともそういったコミュニケーションをずっとされていたということですよね。

尾崎さんの音楽はやはり文学的でしたよね。さっき言った「I LOVE YOU」は40年も経っているのにいまだに多くの人が聞いて、カラオケでもたくさん歌われて、愛されつづけている。音楽的にも優れているんだろうけど、やはり日本人の琴線に触れるものがそこにあったんだと思います。音楽に携わる者としてそういう曲を1曲でも多く作りたいですよね。

――尾崎豊さんは2023年12月1日でレコードデビュー40周年を迎えます。ソニーミュージックの顔となるアーティストのひとりであり、その楽曲の数々は宝だと言えます。そういった意味も含めて、品川にあるソニーグループの本社ビル1Fでは、「尾崎豊レコードデビュー40周年」を記念して、所縁の品の展示が12月1日から期間限定で行なわれることになりました。

それは尾崎さんの情報発信者として本当にありがたいことです。自分もやっぱりいまだにCBS・ソニーに入ってソニーミュージックの社員だったということに誇りを持っていますし、それこそソニーグループの本社で若い人たちの前で喋ったこともあるんですよ。プロデューサー論みたいなことで尾崎さんの話もしたと思います。

やっぱり世界のソニーだから。その誇りを持ちつづけて欲しいということは当時も話しましたね。ソニーミュージックの長い歴史のなかでレーベルを代表するようなロック、ポップ、歌謡曲を問わず素晴らしいアーティストはたくさん生まれて来ましたが、そのなかでも尾崎さんの歌が世代を超えて愛されつづけているというのは本当にすばらしいことだと思います。

――もし尾崎さんが生きていたら今年の11月29日で58歳になっていました。何を歌っていたと思われますか。

こればっかりはわからないし、適当なことも言えないですね。ただ、これだけ世界中の政治が不安定で、悲惨な戦争も起きている。それに加えて温暖化だ、異常気象だって、地球という星がとても暮らしづらくなっていますよね。

このことに関しては多分、何か言葉にして、曲にして、歌っていたと思いますね。そういうある種の生真面目さはあった人ですから。彼は“あの娘と楽しいドライブ♪”みたいな曲って1曲も歌っていないんですよ。だからね、尾崎さんは生き様のなかから言葉を吐き出す詩人であり、文学者なんですね。そして彼の歌は私小説なんです。

須藤晃後編写真02

――世代によって尾崎さんの歌の捉え方も違うと思います。

これは何かの取材のときにも言ったんだけど、尾崎さんは大人への反抗の代弁者みたいに言われつづけてきたじゃないですか。でも、彼は親とか先生とか大好きだったと思いますよ。「もう学校や家には帰りたくない」と歌っているけど(「15の夜」)、それはもう明らかに学校にも家にも帰りたかったと思いますよ。それは彼の音楽をきっちりと聴いてきた人ならわかりますよね? 「サラリーマンにはなりたかねえ、鉄を喰え!」と歌ってますけど(「Bow!」)、どれだけ労働者に敬意を持って彼は生きていたか。彼の作品を聴き込んできた人は知っていますよね?

つまり、何ていうんだろう。誰も人生の敗北者ではないというか、目に見えることがすべてではなく、その裏側にあるもの、それを言葉にして歌いなさいっていうのを、僕はずっと彼に提案していましたね。生まれ、貧富、学歴とか、世の中の差別の対象になるようなことっていっぱいあるじゃないですか。尾崎さんはそういうものに対して非常に懐疑的というか、否定的でしたよね。

彼が一番望んでいたのは世界の平和です。だからさっき「ありがたい」って言ったのは、尾崎さんはソニーという会社に、やっぱりその理念を感じたんだと思うからなんです。僕もそうだけど、尾崎さんはソニーが大好きだったしね。実際に一度、レーベルを移籍したけど2年ほどでCBS・ソニーに戻ってきたわけですから。

“SONY”の看板広告が尾崎豊と須藤晃をつないだ

1970年ニューヨークタイムズスクエアの写真

1970年4月13日からニューヨーク・タイムズ・スクエアに“SONY”ネオンが掲出された。須藤晃は、この看板を見てCBS・ソニーへの入社を意識した

――ソニーの引力というか、魅力でしょうか。

井深(大)さんや盛田(昭夫)さん、そして大賀(典雄)さんといった経営者の人たちが旗を振って、本気で世界を目指し、そして実現させたじゃないですか。世界で愛されるソニーというブランドを。その熱量に惹かれたから、僕らもついて行け! って乗っかったんだと思いますよ。ブランド力に裏打ちされたソニーマジックを信じていましたからね。

さっきも話しましたが、僕は学生時代に将来を見出せなくて、ひとりでアメリカを旅したときに、NYのタイムズスクエアで“SONY”の広告看板を見てるんです。世界を動かす街、NYの中心地に日本企業の看板が光っている。そのときに「やっぱりソニーはすごいな」と思いましたからね。

1972年だから、ソニーが日本企業で初めてニューヨーク証券取引所に上場した2年後ですか。あのときの体験は、3カ月のアメリカ放浪旅のハイライトとして、鮮烈に記憶に残っています。そして、その体験があったからこそ僕はCBS・ソニーの門を叩いたんです。

――ということは、大学生の須藤さんがアメリカを旅してNYに辿り着き、タイムズスクエアで“SONY”の看板を見ていなかったら、音楽プロデューサー・須藤晃は生まれていなかったということですか。

おそらくそうだったと思いますね。一緒に受けていた放送局も広告代理店も大手でしたし、推薦も受けていたので、どちらかにすんなり入社していたと思います。そうすると職種が違うし、尾崎さんとも出会っていなかったから、1983年12月1日に発表された『十七歳の地図』は違うものになっていたかもしれませんね。そう考えると、ソニーが尾崎さんと僕を結び付けてくれたんですかね。不思議なご縁を感じます。

十七歳の地図ジャケット写真

尾崎豊のデビューアルバム『十七歳の地図』

――今回は「尾崎豊レコードデビュー40周年」に紐づけて、須藤さんにお話を伺いましたが、音楽プロデューサー・須藤晃の誕生に、そんなエピソードが隠されていたとは知りませんでした。本当にこのご縁がなかったら、尾崎豊さんをはじめ、数々のアーティストの名曲が生まれなかったかもしれないんですね。

“たられば”だからわかりませんが、違う形にはなっていたかもしれないですね……ただ、僕が本当に望んだ職場は、カリフォルニアのレモン農園だったんですけどね(笑)。

須藤晃後編写真03

文・取材:安川達也
撮影:干川 修

関連サイト

尾崎豊 ソニーミュージックオフィシャルサイト
https://www.sonymusic.co.jp/artist/YutakaOzaki/(新しいタブを開く)
 
須藤晃 オフィシャルサイト
https://www.karinto.co.jp/(新しいタブを開く)

連載エンタメ業界を目指す君へ