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連載Cocotame Series

エンタメ業界を目指す君へ

ボブ・ディランら、レジェンドを担当して30年――洋楽ディレクターに必要な3つのこと

2023.11.14

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エンタメ業界の最前線で働く人々から現場の生きた情報を聞き出し、お届けする連載企画「エンタメ業界を目指す君へ」。

今回は、これまでに1,000タイトルもの作品を手がけ、このほどボブ・ディランの過去の音源を発掘し、日本独自企画盤『コンプリート武道館』としてリリースすることに成功した白木哲也へのインタビュー。英語が決して堪能ではないながらも、本国と交渉し、数々のアーティストの商品を日本国内で発売してきた彼のやり方とは。この道30年のベテランがエピソードを交えながら語る。

  • 白木哲也プロフィール画像

    白木哲也

    Shiroki Tetsuya

    ソニー・ミュージックレーベルズ

一番の幸せは新人が日本で売れること

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――白木さんは、洋楽ディレクター職に就いて30年とのことですが、これまでにどれくらいの作品を手がけましたか?

この取材を受けるにあたって、自分が発売した作品を改めて数えてみたら1,000タイトルくらいありました。数だけでなく、ジャンルとしても、ロック、メタル、パンクから、R&B、ジャズ、ボーカルものまで、ありとあらゆる作品を担当したことがディレクターとしての財産になっていると思います。あ、クラシックも1タイトルだけあります。

ロック系のレジェンドものを担当することが多かったのですが、マライア・キャリーやシンディ・ローパー、トニー・ベネットなども思い出深いですね。でも、やっぱり洋楽ディレクターとして一番幸せだったのは、自分が手がけた新人が日本で売れたことですね。

――新人で手応えを感じたのは?

結構前のことで恐縮ですが、サヴェージ・ガーデンですね。オーストラリアの男性ポップデュオで、1980年代のワム!のようにアイドル路線で売り出そうと仕かけて、デビューアルバム『サヴェージ・ガーデン』(1997年)のリリースの際は、プロモーション来日なども企画しました。

サヴェージ・ガーデン画像

当時のサヴェージ・ガーデン

アイドル系の雑誌とガッツリ組んで、当時のON AIR WEST(現Shibuya O-WEST)で行なったシークレットギグへの招待企画やその取材など、継続的に掲載してもらいました。既に欧米ではブレイクしていたので、流行に敏感な日本のファンが駆けつけてくれたのですが、そのオーディエンスの「Truly Madly Deeply」の大合唱は忘れられません。

これは洋楽に限らずレコード会社のディレクターなら誰でも感じていることだと思うのですが、アーティストを売り出す仕事をするなかで一番幸せな瞬間って、ライブ会場の客席がいっぱい埋まっていて、そのお客さんが自分の手がけた、携わった、もしくは売った曲を大合唱してくれることなんじゃないかなと思っているんです。自分がやってきたことの結果が、目の前で、同じ空間、時間のなかで共有されるわけですから。このためにやってきたと言っても大袈裟ではないと思うほどの感動ですよね。

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――洋楽ディレクターは、いわば日本で最初のリスナーですから、将来性を含めてアーティスト像の方向性を決定づける重要な仕事ですよね。

その通りです。こればっかりは自分の感覚を信じるしかないと思いますね。本国と日本は事情も市場も異なるわけで、方向性を間違えたりすると限られた来日チャンスまでも逃してしまうんです。

サヴェージ・ガーデンに関して言えば、1980年代にアイドル的な人気を誇り、“ニューロマンティック”ムーブメントの立役者だったイギリスのバンド、デュラン・デュランのような香りもしたから、CD帯には思い出しても小っ恥ずかしいキャッチコピーを載せて、それくらい振り切りましたね。あ、コピーは調べなくていいですから(笑)。

――帯のコピーを見つけちゃいました。“90’s ニュー・ロマンティックス!! 一度聴いたら、もうやみつき!!”……これは、洋楽ディレクター特有の判断というか勇気というか(笑)。

でしょ(笑)。洋楽は、音に関してはこちらでは作ってないわけですから、基本的にディレクターの仕事としてはマーケティング作業が大切なんです。一番重要なのは、いかに日本人の感覚に近づけながらアーティストのロイヤリティをたくさん生み出すか。ですから、場合によっては日本語タイトルも作るし、プロモーション媒体の選別も大事になってきます。

――彼らを日本でヒットさせる策として、まずはどのように考えたんでしょうか。

昔も今も、これは邦洋問わず、最初はシングルヒット曲を生み出すことが大事だと思います。サヴェージ・ガーデンの場合で言うと、3曲のヒット曲を作ろうと考えてました。新人アーティストの場合は、まずは日本市場にいかに浸透させるかが勝負なんです。そのアーティストを、日本のファンに身近な存在だと感じてもらえるかどうかがポイントだと思います。ただ、これがまた難しくて、答えがひとつじゃないのが悩ましいところですが。

サヴェージ・ガーデンでは、そういったプロモーションがセールスにちゃんと跳ね返ってきて。売れた瞬間を体感できたのは、洋楽ディレクター冥利につきますね。

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自分の目と耳で得た情報をわかりやすく伝える

――そのいっぽうで、本国の売り方とある程度の足並みは揃えないといけませんよね。

それはありますね。特に1990年代のころは今と違って、本国から送られてくる情報が味気ないプレスリリースだけだったりするから、そこから空気感を読み取らなくてはならなくて。さらには、そこに書いてあることを鵜呑みにすると、実は全然違っていたなんてこともあるんです。

だから、僕は世界共通のプレスリリースを翻訳しただけの国内プレスリリースを絶対に作らないようにしていて、自分の目と耳で得た情報を咀嚼して、少し感想を交えながら、わかりやすく日本のマスコミやリスナーに伝えていこうと意識していましたね。もしそれが本国に伝わって怒られたとしても、日本のリスナーに情報が届いていないことのほうが罪ですから。

――それが、洋楽を国内に広めるうえで、白木さんが大事にされていることなんですね。では、洋楽ディレクターに必要なことを挙げるとするとなんでしょうか。

それは間違いなく、洋楽やアーティストに対する愛情と情熱です。そして、いかに日本人の琴線に触れさせることができるか。あとはどんな理不尽なことにも負けない心でしょうか(笑)。

国外の人々と仕事をするうえで必ずぶち当たる壁は、日本での仕事のやり方が通じないというか、アプローチの違いですね。日本では、仕事ではありながら、なんだかんだそこにドラマがあって、その過程を見てくれている人がいたりするわけじゃないですか。でも、国外との仕事は、プレゼンテーションでも必ず結論を先に言わなくちゃいけなくて、その裏付けや理由はあとまわし。結果も先に言い切ることが求められます。

ただ、そんななかでも、面白いことに、“思い”や“情”が届くことがあるんです。そのためには、そこに行き着くまでの人間関係を構築しなくてはならない。これは洋楽、邦楽、世代や性別を問わず共通して言えることですね。人間関係を築くために、いかに信頼、信用を得るか。それは上辺だけの関係では成り立たなくて、いかにそのアーティストを大切に考えているか、態度、姿勢、結果で示していくしかない。そうすると、国は違っても同じ人間ですから、お互いを理解しあえるときがあるわけです。

ジャクソン・ブラウンやシンディ・ローパーなどのビッグ・アーティストとも“絆”のようなものを築けて、海外では別のレーベルですが、日本だけは長年に渡ってソニーミュージックを選んでくれています。僕の担当ではないですが、オアシスやノエル・ギャラガー、ミューズもそう。彼ら以外にもこういった信頼関係ができている海外アーティストがたくさんいて、言語や文化の壁を超えて、信頼、信用を得て人間関係が築けたときの喜びは格別なんですね。

――多くのアーティストとの信頼関係が今につながっているんですね。

僕のことで言うと、2016年にピンク・フロイドが再契約してソニーミュージックに戻ってきたときにちょっと面白い話がありまして。

ピンク・フロイド画像

ピンク・フロイド

契約にあたり複数のレコード会社が手を挙げて、各社の代表者がロンドンに行って、メンバーそれぞれのマネージャーの前でプレゼンテーションする機会が設けられたんです。ソニーミュージックは、各国の担当者がそれぞれプレゼンし、我が国ではこのような数字が予想されて、このような販売展開ができますと資料を使ってアピールしました。そんななかで、日本の担当として赴いた僕は、たどたどしい英語で、自分とピンク・フロイドとの出会いを話したんです。

――え?

当時の上司が、僕が作ったつたない日本語の文章を英訳してくれて、それを読みました。伊豆大島で生まれ、丸坊主の野球少年だった中学生の僕は、音楽が届かない場所で生きていて……などと生い立ちを説明しながら、中学校の美術のN崎先生が教室でピンク・フロイドの『アニマルズ』のレコードをかけてくれた話をしたんです。

「この音楽を聴いて君たちが思い浮かんだ絵を描きなさい」という授業で、その日以来、僕はピンク・フロイドのファンになり、今でもあのときのピンク・フロイドの音楽と伊豆大島の情景を忘れることができない……と、つたない英語で読み上げたんですよね。

僕には本当にそれしか思いを伝える方法がなかったんです。でも、これがマネージャーたちにウケたんですよ。彼らもアナログな世代だったからということもあったのかもしれませんが、何人かは頷きながら笑って聞いてくれていましたからね。おかげさまでピンク・フロイドは今も僕が担当させてもらっています。

――すごい。国や文化の違いを超えて“思い”が届いた!

これはでき過ぎた話だと笑ってくれてもいいんですけれど(笑)。さらに、1978年、中学3年生のときに初めて聴いたボブ・ディランは、N田目先生が音楽室でレコードをかけてくれた「はげしい雨が降る」だったんです。今でもやっぱり、2階の教室から見えた伊豆大島の山の景色を鮮明に思い出しますね。ふたりの先生は僕の人生を変えてくれた恩師です。

高校生になって、ラジオから流れてくる「ハングリー・ハート」(1980年)でブルース・スプリングスティーンに出会いました。その曲が初の全米トップ10入りしたときにジョン・レノンが凶弾に倒れたんです。そのころ、僕はザ・ビートルズの大ファンで……。だから、ジョンが亡くなった12月8日の翌日に、ブルースが『ザ・リバー』ツアーのフィラデルフィア公演で「ツイスト&シャウト」をカバーして追悼したというニュースは、僕のなかでのブルース愛を決定づけました。

ブルース・スプリングスティーン画像

ブルース・スプリングスティーン

その後、一度は大手百貨店に就職したのですが、1985年のブルース・スプリングスティーンの初来日公演でノックアウトされて以来ずっと気になっていたソニーミュージックに転職したんです。

解説・対訳は必ず付ける

――音楽との出会いや記憶が鮮烈で、愛情がひと一倍大きいからこそ、白木さんが担当するプレスリリースは、洋楽業界一文字量が多いんですね(笑)。通常、A4用紙2~3枚程度ですが、白木さんが担当される作品のプレスリリースは10枚ぐらいあります。

え、そうなんですか(笑)? どうしても“伝えたい”という気持ちが強くて、多くなっちゃうんだと思います。僕らディレクターが作ったプレスリリースを持って、ラジオ局や出版社に出向くプロモーション担当者に、「ピンク・フロイドのこんな分厚い紙資料を何部も持って媒体を回るの大変だったんですからね!」って言われたこともありましたけど(笑)。

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というのも、ただリリースするだけでなく、日本語でわかりやすく伝えることに重きを置いているからで。洋楽の国内盤を制作するときに大切にしていることが、その作品を紐解くような解説と対訳を必ずつけることなんです。だから海外からのアナウンスがどんなに急でも、世界同時発売だったりすると、間に合わせるために周りに頭を下げて無理言って、結構なページ数の詳細な解説と対訳付きの日本版ブックレットを作ってきましたね。

――やはり対訳は大事ですか。

外国語の歌詞をストレートに理解できる人はそれで素晴らしいと思います。だけど、僕のように英語ができなかったり、わからない人もまだまだ多いですよね。例えばブルース・スプリングスティーンの「マイ・ホームタウン」という曲を聴くと、アメリカの人はニュー・ジャージーを思い出すかもしれないけれど、僕のようにダイレクトにわからないリスナーは、タイトルから大西洋ではなくて自分の出身地である伊豆大島の海の風景を重ねちゃったりする。

きっとそれはそれで良いんだろうし、ブルースもそういうことを望んでいるんだろうけれど、曲の背景を理解するひとつの材料として、やっぱり日本語対訳は必要だと思っていますね。これからみんなが英語がわかる時代になったら、こういったものも必要なくなるのかもしれませんが。

――ブルース・スプリングスティーンが1997年にソロアコースティックツアーで来日した際、歌詞の日本語対訳が記載されたリーフレットがオーディエンスに配布されました。あれも白木さんが作ったんですか?

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配布されたリーフレット

はい。あれは僕が作りました。アイデアはブルース本人です。1985年の初来日のときに、ブルースがコミュニケーションの壁みたいなものを感じていたようで、アコースティックアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』で歌っていることを理解して、ライブに臨んでほしいという、ブルース側からの要望だったんです。

そこで、ただ用紙1枚に印字されただけのものだと味気ないので、少しだけお金をかけてリーフレットっぽく作りました。ライブ会場でのサポート仕事ですから、もしかしたらあれはレコード会社の担当ディレクターの仕事の枠を越えていたのかもしれません。でもやって良かったです。

――白木さんは、2024年でソニーミュージックの社員としての洋楽ディレクター人生はひと区切りになるんですよね。

はい。来年3月で定年を迎えます。それこそ営業部門を経て1993年に洋楽制作に異動になって、初の担当作品がブルース・スプリングスティーンのマキシシングル「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」(1994年)で。おそらくこのままいくと、今年の10月からスタートしたブルース初のBlu-spec CD2紙ジャケシリーズが12月に全25タイトル出揃うので、その作品を最後に定年を迎えそうです。ブルースで始まりブルースで終わるのはうれしいけれど……心残りは2000年代に入ってからつづけている“ブルース・スプリングスティーン来日懇願キャンペーン”ですね。

日本でのバンドとしてのフルライブを1985年を最後に行なっていない、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドの来日が実現すれば、僕はもう思い残すことはない。いろんなところで言ってるんですけど、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドの来日公演が決まったら、来年の3月じゃなくて、もうその夜に退職しても良いくらいです。まだまだあきらめていないので、最後まで情に訴えていきます(笑)。

文・取材:安川達也
撮影:古里裕美

関連サイト

ボブ・ディラン公式HP
http://www.sonymusic.co.jp/artist/BobDylan/(新しいタブで開く)
 
ボブ・ディラン『コンプリート武道館』特設サイト
https://www.110107.com/Dylan_budokan/(新しいタブで開く)

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