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今、聴きたいクラシック

ピアニスト・河村尚子のマイルストーン――20年の歩みを支えてくれた人と音楽①

2024.09.03

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ドイツを拠点に国際的に活躍するピアニスト・河村尚子。2006年にミュンヘン国際コンクール第2位受賞、翌年にクララ・ハスキル国際コンクールで優勝を飾って世界の注目を浴びて以来、ヨーロッパ、ロシア、日本など各地を飛び回り、確かな評価を得てきた。

今年、日本デビュー20周年を迎え、ますます自身の音楽を深めている彼女に、ピアニストとしてこれまで歩んできた道のりを振り返り、そのライフストーリーを語ってもらった。

  • 河村尚子プロフィール画像

    河村尚子

    Kawamura Hisako

    ミュンヘン国際コンクール第2位、クララ・ハスキル国際コンクール優勝。ドイツを拠点に、世界各地でリサイタルやオーケストラとの共演を重ねる。文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞、第51回サントリー音楽賞など受賞も数多い。主なアルバムに、『ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番&チェロ・ソナタ』『ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ集』など。2019年公開の映画『蜜蜂と遠雷』(恩田陸原作)では主役、栄伝亜夜のピアノ演奏を担当。現在、ドイツのフォルクヴァング芸術大学教授。2024年9月に日本デビュー20周年記念アルバム『20 -Twenty-』をリリース予定。

5歳のときに兵庫からデュッセルドルフへ

河村尚子は兵庫県西宮市の生まれだ。5歳のときに、父親の海外赴任に伴なって遠くドイツのデュッセルドルフに渡った。幼い彼女は渡欧する直前、兄姉の習いごとがきっかけでピアノの道へと足を踏み入れる。

「家にアップライトピアノがあって、兄も姉もピアノを習っていたので、自然と私もレッスンについて行くようになりました。レッスンに行くと先生が美味しいジュースをご馳走してくださるので、それにつられていたんです(笑)。

家では母から『ピアノは触っちゃダメ』『尚子は壊すから』って言われていました。そのぐらいおてんばだったんです(笑)。でも、兄や姉のレッスンについて行くうちに、先生が『尚子ちゃんもやってみない?』と言ってくださって、自分でもピアノを弾くようになったんです。デュッセルドルフでも日本人の先生に師事していました」

黒いワンピースを着る河村尚子

「初めは趣味とも言えない感じだった」と語る河村尚子。だが、そんな彼女にあるとき転機が訪れる。ポーランド出身のピアニスト、マウゴルジャータ・バートル=シュライバー※との出会いだ。

※マウゴルジャータ・バートル=シュライバー
ポーランド出身のピアニスト。1980年代後半にドイツへ移住し、1990年にゲッティンゲン国際ショパンコンクールを設立。1995年まで主催者として活躍した。

「バートル=シュライバー先生は、ドイツのゲッティンゲンという、ハノーファーから南に下った街で、ゲッティンゲン国際ショパンコンクールを主催していらっしゃいました。子ども、ジュニア、シニアの3つの部門のうち、子ども部門のコンクールに参加したことがきっかけで、先生のレッスンを受けることになったんです」

名教師として知られるバートル=シュライバーは、当時11歳だった河村尚子の演奏にきっと惹きつけられたのだろう──と思いきや、彼女は「いや、そうじゃないんです」と笑って答える。

笑顔で話す河村尚子

「名高いピアニストたちが審査員として座っている、そういうコンクールの場では、親だって子どもを可愛く、素敵に見せたいと思うじゃないですか。でも、私はきれいなスカートやワンピースを着るのがどうしてもイヤだったんです。反抗期もあったのかもしれないけれど、コンクール当日、母が持ってきた服を着たくないと言い出して、ジーンズとセーターで演奏しました。参加者の誰も、そんな格好はしていないので、バートル=シュライバー先生は私のことがすごく印象に残ったみたいで(笑)。

ウクライナやポーランドからのコンクール参加者は皆バリバリに弾ける子たちで、彼らはジーンズとセーター姿の私とはまったく違う世界にいました。結果、私の順位は15位で、自分でもショックを受けました。その半年後、ほかのコンクールでバートル=シュライバー先生と再会したとき、『私のところに一度いらっしゃい』と言ってくださったんです。ゲッティンゲンのコンクールは散々でしたが、そういう失敗から学んでいくものなんでしょうね」

名教師のもとでの合宿のようなレッスン

デュッセルドルフからゲッティンゲンまで、電車で片道3時間半かけてバートル=シュライバーのもとへ通いつづけた河村尚子。師のレッスンは厳しく、そして充実したものだった。

「先生のレッスンはとにかく厳しくて、毎回のように涙、涙……泣かないときが珍しいぐらいでした。ドイツではひたすら褒めて伸ばす教育が主流なのですが、バートル=シュライバー先生は東欧の英才教育で育った方なので、厳しいやり方に慣れていらっしゃったのです。

金曜日の放課後、デュッセルドルフからゲッティンゲンの先生のお宅に伺って、到着後は一緒に夕食をとってから2時間ぐらいレッスン。土曜日も朝から昼まで、昼食のあとは夕食までずっとレッスン。日曜日もレッスンして、午後3時ぐらいにデュッセルドルフに帰る。最初のレッスンからそんな感じでした」

少しうつむきながら話す河村尚子

まるで合宿のようなレッスンだが、マイペースな彼女らしさはバートル=シュライバーの前でも変わらなかったようだ。

「1回目のレッスンで、先生に『次のレッスンまでに、プロのピアニストになりたいかどうか考えてきて』と言われたんです。でも、2回目のレッスンで『考えてきた?』って聞かれたときには、『え、なんのこと?』って、もう忘れていて。『プロのピアニストになりたい?』って言われて、『ああ、なりたいかもね~』なんて答えていました(笑)。

そんなちゃらんぽらんな私を、バートル=シュライバー先生は何年もずっと、辛抱強く耐えて見守ってくださいました。先生のところでみっちり仕込まれなかったら、今の私もないですし、大事な基礎の部分を全部補ってくださったんです」

コンクールに明け暮れたハノーファーの大学時代

およそ5年間、バートル=シュライバーのもとに通いつづけた河村尚子は、その後、ピアニストのウラディーミル・クライネフ※に師事。そして彼が教授を務めるハノーファー国立音楽芸術大学へと進学する。クライネフとの出会いは、バートル=シュライバーがクライネフのコンサートに連れて行ってくれたのがきっかけだったという。

※ウラディーミル・クライネフ
ロシア出身のピアニスト。1970年のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で優勝し、コンクールの審査員としても世界各地で活躍。ハノーファー国立音楽芸術大学の教授として、多くの名ピアニストを育てた。2011年に67歳で急逝。

「今でもよく覚えているのですが、そのコンサートのプログラムは、ブラームスの『3つの間奏曲』作品117と、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番『戦争ソナタ』でした。クライネフ先生の演奏は、情熱的で歌があって、弱音がとても綺麗でした。そういうロシアンピアニズムを初めてライブで聴いて、すごく感銘を受けました。

クライネフ先生のレッスンには、初めはプライベートで通っていました。ドイツの大学にはプレカレッジのような制度があって、才能がある音楽家たちに楽器演奏のレッスンを無料で提供してくれるんです。そのプログラムで1年ぐらい学んだあと、2000年にハノーファー国立音楽芸術大学の入試を受けました。

ドイツの大学ではなく、例えばイタリアの音楽院に通うとか、進路の選択にもずいぶん迷いました。それでもハノーファー国立音楽芸術大学を選んだ理由は、当時、レベルの高い、若いピアニストたちが集まっていたこと。クライネフ先生のクラスにも、才能ある人たちが大勢いました。彼らからいつも影響や刺激を受けて、自分と比べるわけです。そういう緊張感が、あのころのハノーファーにはあったと思います」

真剣なまなざしで語る河村尚子

ハノーファー国立音楽芸術大学に身を置いた河村尚子は、コンクールに明け暮れる日々を送る。それは単にピアニストとしてのキャリアを積むためだけではなかった。

「ピアノはいつもひとりで弾く楽器ですし、誰かの前で弾く機会が、レッスン以外ではあまりなかったんです。自分が練習してきたプログラムを皆の前で弾いて、フィードバックをたくさんいただいて、認めてもらえるか、認めてもらえないか……。私にとってコンクールは、一種のマイルストーンのようなものでした。

もしコンクールで賞をいただけたら、ガラコンサート(特別講演)の機会があって、また次につなげられるかもしれない。審査員だけでなく、コンクールの聴衆のなかにも小さいコンサートを開いている人たちがいる。いろんな人たちと知り合えるチャンスでしたね」

思わぬ展開となった日本デビュー公演

河村尚子が積み重ねてきたマイルストーンは、2004年の日本デビューとなった東京オペラシティ コンサートホールでの公演へとつながっていく。

「2003年、スイスのチューリッヒで開催されたゲザ・アンダ国際ピアノコンクールに出場しました。このコンクールでは、4~5時間分のプログラムを用意しなければなりません。それは私にとって、信じられないぐらい大きなプログラムでしたね。プロフェッショナルなピアニストは、それだけのレパートリーを持っていないとコンサートをこなせないし、誰かの代役を務めるときはコンチェルト(協奏曲)をすぐに弾けなくてはならない。だから、その予行練習のようなもので、膨大なレパートリーを頑張って用意するんです。私は運良くファイナルまで進んで、3位をいただくことができました。

このときの審査委員長が、ロシア人の指揮者、ウラディーミル・フェドセーエフさんでした。フェドセーエフさんは東京フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者も務めていて、定期演奏会のソリストとして私のことを推薦してくださったんです。コンクールのファイナル、私のショパンのピアノ協奏曲第2番の演奏を気に入ってくださったらしくて……。東京フィルの事務所から出演オファーの電話をいただいたときは、自分のほっぺをつねって、夢見てるんじゃないかしら? って確認しました。本当に、信じ難いできごとでしたね」

ピアノを弾く河村尚子

彼女のデビュー公演に関するエピソードはまだまだつづく。フェドセーエフは公演直前、急病のため来日が不可能になり、代役を立てた。その指揮者が“コバケン”こと小林研一郎だったのだ。

「フェドセーエフさんが降板されたのは残念でしたが、小林さんが代役として共演してくださったことも、本当に幸運でした。デビュー以来、とても良くしてくださって、京都や名古屋などいろいろなコンサートに呼んでくださいました。そうやって日本での活動が広がっていったんです」

5歳で渡欧し、日本でのステージが初めてだった河村尚子は、当時のことを「とにかくドキドキでした」と振り返る。

「新宿のホテルに宿泊していたのですが、毎日毎日、ラッシュアワーの人々の行進が怖くて。ドイツの街って、あんまり人混みがないんですよ。連邦国なので、いろいろな州に大きな街が分散しているからでしょうね。でも、初台の東京オペラシティでリハーサルが始まって、オーケストラと一緒に音を出したら、そんなカルチャーショックも忘れてしまいました(笑)」

後編につづく

取材:加藤綾子
撮影:冨田 望

リリース情報

河村尚子『20 -Twenty-』ジャケット画像

『20 -Twenty-』

  • 発売日:2024年9月18日(水)
  • 価格:3,630円
  • 詳細はこちら(新しいタブを開く)

コンサート情報

『河村尚子 ピアノ・リサイタル』

  • 2024年9月30日(月)19:00開演
  • 東京:サントリーホール
  • 詳細はこちら(新しいタブを開く)

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