大竹健のイズム:身軽でいること、相手の懐に飛び込むこと――国内外を渡り歩いて掴んだビジネススタイル
2024.11.08


2024.11.08
音楽、アニメ、ゲーム、キャラクター、ソリューションなど、幅広いエンタテインメントビジネスを手がけるソニーミュージックグループで、各ビジネスを統括するマネジメントクラスが自身の“エンタテインメント・イズム”を語る。
今回は、「ピーナッツ」「きかんしゃトーマス」「ピーターラビット」など、さまざまなキャラクターのプロパティビジネスを展開するソニー・クリエイティブプロダクツ(以下、SCP)代表取締役執行役員社長の大竹健が登場。
海外でエンタテインメントビジネスの基礎を学び、音楽制作、経営企画、楽曲の著作権保有・管理など幅広い事業に携わってきた大竹健に、それぞれの現場で学んだこと、エンタテインメント業界で仕事をするうえでの“イズム”を聞いた。
目次

大竹 健
Ohtake Ken
ソニー・ミュージックエンタテインメント
コーポレートSVP
ソニー・クリエイティブプロダクツ
代表取締役執行役員社長
記事の後編はこちら:大竹健のイズム:身軽でいること、相手の懐に飛び込むこと――国内外を渡り歩いて掴んだビジネススタイル
──大竹さんはキャラクターのプロパティビジネスを手がけるSCPで代表取締役を務めていますが、音楽業界のキャリアも長いと聞きました。まずは、ソニーミュージックグループに入社した経緯から教えてください。
私は東京生まれなんですが、親の仕事の都合でニューヨーク、香港、ロンドンで海外生活を送ったあと、16歳のころ京都に移り住みました。そして高校から大学に進学したタイミングで、バイトを始めようと思ったんですが、せっかくなら英語を使えることをしたいと思いまして。
そこで始めたのが、海外アーティストが来日してコンサートを行なう際に帯同するツアーマネージャーのアルバイト。それをきっかけに、エンタテインメント業界に興味を持つようになりました。
そんななか、バイトを通じて知り合ったEPIC・ソニーレコードの方から「ロンドンに移住して、日本のアーティストをケアする仕事をしませんか?」と声をかけていただいて。1988年ごろからロンドンに滞在し、今でいう業務委託のような形で仕事をしていました。
──ロンドンでは、具体的にどんな仕事をしていたのでしょうか。
当時、小室哲哉さんがロンドンに拠点を置き、半年にわたってアルバムを制作することになったんです。このとき、小室さんが作ったのが『CAROL -A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991-』(TM NETWORK/1988年)。
現地のアーティストやデザイナーと会い、セッションをして、レコーディングスタジオで収録をしたのですが、そのためのアポを取ったり、スタジオを手配したりするのが私の仕事でした。
──『CAROL』と言えば、1980年代を代表する名盤ですね。制作過程を近くで見ていて、何を感じましたか?
ひとりのアーティストとこれだけ長く接するのは、初めての経験でしたから、小室さんにはご迷惑をおかけしたと思いますが、毎日が新しい発見で楽しかったですね。実を言うと、オープニング曲のナレーションは私なんです。
──えぇぇぇ!! そうだったんですね! それもロンドンで収録されたのでしょうか?
そうです。あのナレーションは、今でもライブでそのまま使われているそうですね。
──小室さんがアルバム制作を終えたところで、大竹さんも帰国したのでしょうか。
いえ、そのころはEPIC・ソニーレコードのアーティストが、イギリスのスタジオで音楽を作るのがムーブメントになっていたので、小室さんにつづいて、佐野元春さんの『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』(1989年)、DREAMS COME TRUEの『LOVE GOES ON…』(1989年)のコーディネートもロンドンに残って担当しました。
──どれも名盤ですね。その後もロンドンで仕事をつづけたのでしょうか。
そうですね。1989年11月に、会社から社員登用の話をもらったのでCBS・ソニーグループ(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社することになりました。海外渉外課の配属になり、海外に滞在しながらアーティストのケアや音楽制作に必要な交渉ごとを担当していました。
──具体例として挙げると、どういった内容でしょうか。
わかりやすいもので言うと、TM NETWORKの『DRESS』(1989年)、渡辺美里さんの『HELLO LOVERS』(1992年)というリプロダクションアルバムに関する交渉ですね。『DRESS』は既存曲のボーカルトラックを残し、海外のプロデューサーに楽曲を作り替えてもらったアルバムで、『HELLO LOVERS』は有名プロデューサーたちによる新しいアレンジで美里さんが歌い直したセルフカバーアルバムです。
小室さんや美里さんサイドから「こういうプロデューサーにアレンジをお願いしたい」と要望をもらって、名前の挙がった方々と交渉し、プロデュース契約を結ぶというような仕事でした。
また、現在は俳優として活躍している鈴木杏樹さんは、かつてKAKKOという名前でイギリスのCBS Recordsからデビューしました。PWL(Pete Waterman Limited)のストック・エイトキン・ウォーターマンというパナナラマのヒット曲を手がけたプロデューサーが担当していたのですが、そういったやりとりもサポートしていましたね。
当時、KAKKOのCBS Records側の担当者だった若いプロダクトマネージャーが、ロブ・ストリンガーさん(Chairman, Sony Music Group / CEO, Sony Music Entertainment)で、そういった方たちとのつながりも生まれました。
──その後、1993年からはEPIC・ソニーレコード本部で音楽制作を担当します。このタイミングで日本に帰国したのでしょうか。
そうです。イギリスでの音楽制作のムーブメントが一段落したので、帰国することになりました。帰国してからはロンドンで出会った岡村靖幸さんの活動をサポートしたり、海外とのやりとりが必要な日本のアーティストのサポートをしたりと、日本での仕事も増えていきました。
──1993年に帰国してからは、EPIC・ソニーレコードでA&R(アーティスト&レパートリー:音楽アーティストをさまざまな面でサポートしながらヒットへ導く音楽業界の業種)の仕事もしています。当時はどのような思いで仕事に臨んでいましたか?
A&Rは、まさにアーティストと向き合う仕事です。当時から感じているのは、A&Rはアーティストにとって手鏡のような存在だということです。我々は、アーティストが新しく作る音楽を誰よりも最初に聴かせてもらう立場なので、アーティストもその反応を必ず見ますよね。そういうリフレクターなんだと意識していました。
──大竹さんはどういう反応を心がけていましたか?
こういう場合、海外では最初に「いいね!」と言ったうえで「いやぁ、すごくいいんだけど、ここをもう少しこうしたらもっと良くなるんじゃない?」と言うんですよね。肯定から入る人が多いんです。
いっぽう日本では、「いいね」と言う前に「ちょっとここが……」と否定から入ってしまう人が多い。もちろんそれでも手鏡としての役割は果たしているかもしれませんが、作品のいいところ、何が良かったのかを先に伝えた方が、その後に、別の指摘があったとしても耳を傾けやすくなりますよね。
だから、まずは“いいね”を伝えて、そのあとにしっかり本音も言うようにしていました。その積み重ねによって、アーティストとの信頼関係も構築できたのではないかと感じています。
──アーティストは、一人ひとり世界観も表現もまったく違います。さまざまなアーティストと接するなかで学んだこと、今の仕事に生きている考え方はありますか?
たくさんありますね。アーティストが活動を行なっていくうえで、ヒットが保証されていないという不安との戦いは避けられないものです。私たちも日常生活において不安なことはたくさんありますが、アーティストはそういった不安も含めて自分の個性をさらけ出し、表現に換えていきます。
「大竹さんは組織のなかにいるけれど、我々、アーティストは、すべて自分に跳ね返ってくるんだ」と言う話もたくさん聞かされましたし、まさにその通りだと思います。そういった不安と戦っているアーティストの孤独にどうやって寄り添うかが、彼らと向き合ううえで大事なことなのではないかと私は思います。そして、その関係性が構築できたアーティストとは、ビジネスだけでなく、人としていいお付き合いが今でもできています。
──同じレコード会社の仲間から学んだことはありますか?
先輩からよく「これからは加速度的に時間が経つからしっかりやれよ。1年は早いぞ。27歳を越えたらどんどん早くなるぞ」と言われていました。振り返ってみると、本当に時間が経つのが早かったですね。時間との戦いなので、しっかり先を見据えて動くべきだという考え方、今でいうタイムパフォーマンスを学びました。
──日本でA&Rとしてキャリアを重ねつつ、1996年からは約5年にわたってアメリカに駐在します。この時期は、どういった仕事に取り組んでいましたか?
当時、アメリカにSony Computer Entertainment America(現、ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が設立され、ソニー・ミュージックエンタテインメント(以下、SME)のニューヨークオフィスにいた平井一夫さんがゲーム事業に携わることになったので、私が暫定的にニューヨークオフィスに行き、日本のアーティストの海外での活動をサポートすることになったんです。このときは、主に久保田利伸さん、SUPER JUNKY MONKEY、鼓童のサポートをしていました。
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ただ、サポートと言っても、ロンドンにいたころとは仕事内容が変わりました。彼らの場合、アメリカにマネジメントスタッフがいたので、私はCDリリースの調整、プロモーションなど、よりレコード会社的な仕事を行なっていました。
また、短い期間でしたが、ニューヨークにあるソニーのオフィスビルで、経営企画を担う方々、『DRESS』や『HELLO LOVERS』制作時にロンドンでやりとりしていたプロデューサーや弁護士、マネージャーなどアメリカ在住の方々と会う機会が増え、つながりが深まったのも大きかったです。レコード会社の制作部門ではできないような経験を、このときにさせていただきました。
──音楽ビジネスとは、まったく違う領域ですよね。刺激も大きかったのではないでしょうか。
そうですね。Sony Computer Entertainment Americaが設立されて間もない時期だったので、僕が通訳として駆り出されることもありました。ソニーのなかに新しいベンチャーが立ち上がる様子を近くで見ることができましたし、経営に関わる駆け引きも目の当たりにし、とても勉強になりました。
──その後、アメリカではどのような仕事をしていましたか?
1995~1996年はニューヨークにいましたが、1997~1999年はロサンゼルスに移り、Antinos Americaという会社を立ち上げました。そこで小室哲哉さんや音楽プロデューサー・T.Kuraさんのアメリカでの活動をサポートしていました。
当時は、皆さんもご存じの通り、小室さんが日本で大活躍をしていた時期なので、ロンドンで『CAROL』を制作したころとは違い、成功を収めたアーティストが次のステップに進むためのサポートを中心に行ないました。
──当時の小室さんは、まさに時代の寵児でしたよね。そばで見ていて、何を感じましたか?
まさに大スターですよね。日本からも、毎日のように複数のレコード会社の方がやってきて、ホテルで待機していました。膨大な数のアーティストの楽曲をプロデュースしつつ、ときにはアメリカの大スターの家に行って打ち合わせをするなど、華やかなお仕事ぶりでしたね。
──大竹さんにとっても、貴重な経験だったのではないでしょうか。
残念ながら、小室さんの海外事業は成功したとは言えません。その点、私としても志なかばという思いはあります。
ただ、私のキャリアにおいて、ターニングポイントにはなりました。アメリカのエンタテインメント業界に、小室さんという才能を売り込み、私もひとりの個人として認められたことで、今でもおつき合いが続いているカウンターパートもできました。とても大きな経験でしたね。
文・取材:野本由起
撮影:干川 修

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