吾妻光良&The Swinging Boppers:シニア世代のWワークバンドは、なぜ音楽活動を持続できるのか?②
2024.12.12


今年、結成45周年を迎えた吾妻光良&The Swinging Boppersから、吾妻光良、渡辺康蔵、山口三平の3名へのインタビュー。
学生時代にバンドを結成し、その後、吾妻光良が日本テレビホールディングス株式会社、渡辺康蔵、山口三平がソニーミュージックグループに就職するもバンド活動を続けてきた彼らの“Wワーク”の実態を赤裸々に語る。先日新作も発表し、熟練バンドとしてますますの活躍が期待される彼らが、長くバンドを続けてこられた秘訣とは。
目次

吾妻光良
Azuma Mitsuyoshi
ボーカル&ギター担当

渡辺康蔵
Watanabe Kozo
アルトサックス&ボーカル担当

山口三平
Yamaguchi Sanpei
バリトンサックス担当
吾妻光良(ボーカル、ギター)、牧裕(コントラバス)、岡地曙裕(ドラム)、早崎詩生(ピアノ)、冨田芳正(トランペット)、近尚也(トランペット)、名取茂夫(トランペット)、西島泰介(トロンボーン)、山口三平(バリトンサックス)、小田島亨(アルトサックス)、渡辺康蔵(アルトサックス、ボーカル)、西川文二(テナーサックス)の総勢12名からなるジャンプブルースバンド。1979年、学生仲間で結成。1983年、アルバム『Swing Back With The Swingin' Boppers』をリリース。それぞれ別の職に就きながらもバンド活動を継続し、1991年、ビクターエンタテインメントよりアルバム『STOMPIN' & BOUNCIN' THE GREAT VICTOR MASTERS 1990~1991』でメジャーデビュー。以降、寡作ながらも数々の音楽フェスに出演するなど、マイペースでの活動を展開。最新アルバム『Sustainable Banquet(サステナブル・バンケット)』発売中。
記事の後編はこちら:吾妻光良&The Swinging Boppers:シニア世代のWワークバンドは、なぜ音楽活動を持続できるのか?②
――今年でバンド結成45周年を迎えた心境から聞かせてください。
吾妻:“思えば遠くへきたもんだ”、それが一番ですね。気がつかない間にこんなに経っちゃったって感じで。
山口:同じですね。気づいたら30年、40年、45年みたいな。次、気づいたときにはいないのかな?
渡辺:すごいよね。光陰矢のごとし。でもね、ちょっと前のことは昔に思えるけど、45年前のことはつい昨日のように思い出す。そういうもんなんだっていうのが、実際に自分の人生で初めてわかりましたね。
――5年半ぶりとなる通算9枚目のアルバム『Sustainable Banquet』のオープニングナンバー「打ち上げで待ってるぜ」では、まさに“気がつきゃずいぶん長いよな/色々あったぜ でも細かいことしか覚えてない”と歌っています。
吾妻光良 & The Swinging Boppers「打ち上げで待ってるぜ」MV(Full ver.)
吾妻:ピンポイント的にね。映像記憶っていうんだけど、画で残ってるものが多いですね。飲んでるときに、向かいに座ってた知らない人たちの殴り合いが起きてる様子とか。
渡辺:「俺のつまみを取ったな!」って喧嘩してる光景がいまだに目に浮かぶもんね。打ち上げで飲んでるときに、必ずそのことを話すから余計に濃く刻まれてる。
それが起きたのが野外ライブの日だったんだよね。手書きの譜面が雨で滲んじゃって。今もまだ滲んだままの譜面を使ってるから、それを見ると連鎖的に思い出すんだよね、その打ち上げのことを。
山口:それ2回目のライブでしょ。
吾妻:そう。1979年の秋。東大農学部の学園祭で30分ぐらいのステージだったんだけど、雨が降ってきちゃって。「早くやろ」って言って、どんどん曲のテンポが速くなってって、結局びしょびしょになって。
渡辺:しかもお客さんが5人ぐらいしかいなかったっていう。
吾妻:ステージ上の人数のほうが多いくらい。で、ギャラの2万円を握りしめて、池袋に飲みに行ったら、まったく知らない客の血まみれの殴り合いに巻き込まれた。
――翌年3月に高円寺のライブハウス、JIROKICHIで学生として最後のライブを行ない、潔く解散したと思ったら、9カ月後に再結成しています。それはどんな経緯だったんですか?
吾妻:ベースの牧(裕)が故郷(くに)に帰るっていうんで、新幹線のホームに見送りに行ったの。「それじゃね」って言ったあと、いつまで経っても新幹線が出ないわけ。おかしいなと思っていたら、「本日は運休となりました」ってアナウンスが流れて。それで、「じゃあ、飲みに行くか」って、そのまま飲みに行ったっけ(笑)。
帰ってからもときどき電話しては、「どうしてんだ? こっちは楽しいぞ」なんて言ってたら、「年末に東京に行く」って言うから、もう1回、JIROKICHIでやるかって、メンバーに招集をかけて。1回やって終わりのつもりだったんだけど、あいつが結局、東京で働くことになったんで、じゃあ、「ときどきやるか」って言って、年に1、2回って感じで動き始めちゃったわけ。
――当時、メンバーはどういう心境だったんですか?
渡辺:再結成も何も、もともとそんなにやるつもりもなかったからね。呼ばれたらやるだけで。
山口:あとから“再結成”って聞いたけど、まったくそういう意識はなかったな。
吾妻:でも、リハはよくやったよね。当時はオールナイトでリハやってた。
渡辺:1980年は新入社員のときだから、やるとしたら夜しかなかった。
山口:僕はまだ学生だったんですよ。後輩兼留年だから。2人は先輩兼留年でしょ?
吾妻:うるさいね! 僕は自主留年ですから。再結成した1980年に社会に出たのは、俺と牧、(渡辺)康蔵の3人だけだった。だからメンバーにしてみたら、“また呼ばれたな”くらいの感覚だったんじゃないですか。
――仕事とバンドの二足のわらじを履く感覚ではなかったんですか?
吾妻:最初は本当に年に1、2回ライブをやってただけですからね。
渡辺:あんまり覚えてないな。1983年にレコードを出してからはだいぶ活動するようになったけど。
吾妻:1stアルバム『Swing Back with the Swingin' Boppers』はJIROKICHIで録ったからね。右も左もわかってないし、バンドとしての体を成してたかどうかもあやしい。でも、よくまあ、あれだけ曲のレパートリーがあったね。
渡辺:冨田(芳正)がガンガン書いてたし、ライブやるにしても、一応JIROKICHIで2ステージやらないといけないからね。
吾妻:そうか。そりゃあ徹夜して練習するわけだ。今では考えられない努力をしてたんだ。
山口:冨田さんのアレンジのクオリティが素晴らしかったね。当時まだ23歳でもう完成してたもん。
渡辺:やつ、そのまま音楽の仕事についたからね。演者とかアレンジとかの仕事を始めて。
吾妻:バンド内の何人かはいわゆるプロ入りした人がいますけど、我々はサラリーマン組ですね。
渡辺:あのころは忙しかったな。
山口:しかも、俺ね、1983年からの2年間は札幌にいたんだよね。ライブのときは東京に戻ったりして。
吾妻:(山口)三平が一番転勤が多かったね。
渡辺:ニューヨークにも2年半くらいいたしね。そのときも出張で帰ってくるときに合わせてやったりしてた。あれ思い出すな。浦安のイクスピアリ。ニューヨークから帰ってきて、その足でライブをやったっけ、確か。
――新入社員として働きながら、夜中にリハーサルをして、週末にライブをするっていうスケジュールですよね。大変ではなかったですか?
吾妻:若かったからね。
渡辺:夜明けの牛丼を食って帰ってたね。
吾妻:今、話しててわかったけど、1980年から1983年は徹夜で練習して何とかライブをやってたんだな。
――解散の危機は一度もなかったですか?
吾妻:一度だけあるかな。1980年代後半によくオールナイトのイベントに出てたんだけど、進行がめちゃくちゃで、うちの出番が深夜2時からっていう話だったのに、3時になれど、4時になれどもステージに上がれないっていうことがあって。「俺、明日、仕事なんだよ」って言うやつもいて。もうこんなのやってられないみたいな感じになって。
そのイベントが終わったあと、たまたま仕事がなかった俺と牧ともうひとりで、吉祥寺のファミレスでちょっと飲みながら、「来年、話が来ても断ろう」と話し合ったんだよ。あのときは存続していけるのか? って思ったかな。
渡辺:でもそこで、1988年にリリースした2ndアルバム『ヘップキャッツ・ジャンプ・アゲイン』のジャケット写真を撮ってるでしょ。だから、やる気はあったんじゃない?
吾妻:このあとはもうほうほうの体になってたよ。
渡辺:ここから日本語のオリジナル曲を始めて。「極楽パパ」「あの娘のうちは千葉よりむこう(俺の部屋から2時間)」……。このアルバムのレコーディングのあとで堀江(浩之介)がやめて。ピアニストが変わったんだよね、若い奴に。
吾妻:若いって言っても、次のピアノの早崎(詩生)も今は64歳だからね。全然若くない。
――そして、1991年にビクターエンタテインメントからアルバム『STOMPIN' & BOUNCIN' THE GREAT VICTOR MASTERS 1990~1991』がリリースされます。これがメジャーデビュー作になりますよね?
吾妻:ビクターから話があったときは明確に覚えていて。非常に熱心な社員の方から、「一度、邦楽の上の人と会ってくれませんか?」って言われて。「これ、変な話だったらどうする?」って5、6人で、それこそ青春みたいに話したんです。
そしたらいみじくも三平が「よく考えてみよう。俺たちは何をしたいんだろう?」って言って。要するに「俺たちは人の金で遊びたいんじゃないですか?」ってなって。うん、そうだな、なるほど、じゃあ、遊んでみるかって感じで話を聞きにいって、それでやることになった。
――山口さんはそのとき、もうソニーミュージックでディレクターをしてましたよね。
山口:そうですね。渡辺美里さん、TM NETWORK、岡村靖幸さんと仕事してたころかな。
渡辺:俺は転職組なんで、まだ、そのころは日本コロムビアにいてディレクターをやってた。ソニーミュージックに移ってからは、一応、人事には報告したよ。そしたら、外でプロデュースみたいなのはやっちゃだめだけど、ミュージシャンとして演奏するのは本来の仕事じゃないので、まあ、いいかって。
山口:自分も当時の社長と直属の上司には許可を取りました。でも、ほかの人には全然言わなかったから、気づいたときはびっくりしてたよね。ドラマーの岡地(曙裕)さんがエピック・ソニー(当時)からデビューしてたBO GUMBOSに所属してたから、アルバムのジャケットに載せる岡地さんの写真の許可を取るために、ビクターがエピックにジャケットの見本を送ったんだよね。
そしたら、BO GUMBOSの制作チームのボスがそれを見て、「これ、三平じゃないの?」って。社長は「面白いじゃん、やれば」みたいなスタンスで。
渡辺:東京スカパラダイスオーケストラとの対バンのとき、観にきたりしてたもんね。
吾妻:俺は会社にはまったく言わず。基本的には隠してた。絶対に公にしなかった。
渡辺:だから、ライブの日は大体が冠婚葬祭になっちゃう。
吾妻:いろんなところで言ってるけど、会社を休むための理由をでっち上げましたね。
渡辺:そのころから外に向けた立ち位置も変わったんだよね。ずっとブルースバンドで、出演するのもブルースのフェスが多かったんだけど、この辺から渋谷クアトロでライブするようになった。
――オリジナル・ラブのコラボアルバム『Sessions』に収録された「Jumpin’ Jack Jive」に吾妻さんがフィーチャリングで参加されているので、1990年代は渋谷系のくくりにも入ってました。
渡辺:田島(貴男)くんや井出(靖)くんのおかげで渋谷系に巻き込まれて。(渡辺)満里奈ちゃんも応援してくれて。
吾妻:ありがたいことにね。
渡辺:客が若くなったよね。
吾妻:バッパーズじゃない小編成で渋谷系のイベントにも出るようになって。田島さんに「それではご紹介しましょう。世界で一番カッコいいギタリスト、吾妻光良さんたちです!」って紹介されてステージに出て行ったら、「カッコわる~」っていう声が聞こえて。
――(笑)
吾妻:後を岡地が歩いてて、「今、カッコ悪いって言ったよな?」「言った言った」って話した。それも映像記憶で残ってるくらい、衝撃でしたね。でも、確かに渋谷系のイベントに出させていただいたのは、バンドが続く勢いにはなりましたね。
渡辺:そこで客層が変わって。ずっと年上のおじさんが多かったんですけど、オリジナル・ラブや渋谷系が好きな人たちも観に来てくれるようになって。ちょっと世代交代したね。
――当時は皆さんだいたい35歳くらいでしたよね。30代はどうでしたか?
吾妻:親戚の不幸が続きっぱなしで(笑)。
山口:忙しかったっていう思いがあるし、やっぱり練習時間が少ないから、サックスが下手になってくんですよ。口の筋肉が必要だから、今日ライブ最後まで持つかな、みたいな。そういう情けない時期が、30代のときはありましたね。
吾妻:管楽器はみんな、波があるよな。30代40代が一番谷底であんまり上手くなくて。最近暇になってきたから、また上手くなってきてる(笑)。
みんなもそうかもしれないけど、30代のときって、仕事も割と面白い時期じゃない。あんまり嫌なことはやらなくてよくて。両方とも好きなことなら、忙しくても何とかなってたような気がする。長じてくると、仕事で嫌なことが増えちゃったりして、バンドがシェルターになっていきましたね。
後編では、1991年のメジャーデビュー以降のエピソードと、活動が長く続いた秘訣を語る。
文・取材:永堀アツオ
撮影:下田直樹
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