アニメ『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』で制作、宣伝を担当する新卒入社2年目同期が、熱い思いで新作アニメの現場に挑む!①
2025.10.18


日本を代表するグラフィックデザイナーのひとりである田島照久に、デザイナーを志望した経緯と、デザインという仕事をするうえで持ち合わせておくべき心構えを聞いた。
後編では、デザイナーでありながら写真家としても目覚めた理由や、自身が何かをデザインする際、どのようなアプローチをしているのか。さらには、デザイナーという職種に対する今後の展望、そしてこの業界を志す人たちへのメッセージを語った。
目次

田島照久氏
Tajima Teruhisa
グラフィックデザイナー
アートディレクター、グラフィックデザイナー、写真家 、THESEDAYS主宰。1949年福岡県生まれ、多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。1972年、CBS・ソニー(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)に新卒採用で入社し、レコードのジャケットなどを制作するデザイン室で勤務。約6年の会社員経験を経て渡米。1980年よりフリーランスとなり、1992年に現在のデザインプロダクション "THESEDAYS" を設立。浜田省吾、尾崎豊をはじめとする多くのミュージシャンの撮影とパッケージカバーのアートディレクターを務める。以降、仕事はエディトリアル、ポスター、広告、カレンダー、写真集、小説やコミックの装丁などグラフィックデザイン全般に及ぶ。また、アニメーション関連のデザインも多く手がけ、『攻殻機動隊』や『機動警察パトレイバー』などは企画の立ち上げ当初から携わっている。また、PCをクリエイティブの現場に早くから導入し、デジタルデザイン、デジタルフォトグラフィーの先駆者としても知られている。1994年に世界初のCGによる恐竜写真集 "DINOPIX" を発表、欧米でも出版。近年はアートディレクション、グラフィックデザインだけでなく、Premiere Proを使った映像制作にも積極的に取り組んでいる。
記事の前編はこちら:デザイナー・田島照久が思う“仕事は焦らなくていいんじゃない”の真意①
――田島さんのグラフィックデザインの特徴として、タイポグラフィと一体化するオリジナル写真、つまり写真家・田島照久が撮る写真の存在が大きいと思います。撮影はいつごろから始められたのですか。
五輪真弓さんの『Mayumity-うつろな愛』(1975年)のジャケットは自分が撮っているんですけど、本格的に写真を撮るようになったのは、6年間お世話になったCBS・ソニーを退社して、渡米した先のロサンゼルスに1年間いたときですね。向こうではたくさんの風景写真を撮っていました。
アメリカは、自分が最初に衝撃を受けたカルチャーの当地ですから、毎日楽しくて夢中でしたね。夕方はビーチに出かけて夕暮れを撮ることに凝ってみたり、夜になるとライブハウスに出かけて、そこでもたくさんのライブ写真を撮ったりしていました。
グラフィックデザイナーで写真家のノーマン・シーフや映画のタイトルデザインで知られるソール・バスといった巨匠たちと知り会う機会もあって、彼らの撮影現場に伺うことができたのも幸運でしたね。
それと、山口百恵さんの『L.A.Blue』(1979年)のジャケット写真もロサンゼルスで過ごした時間のなかでの1枚です。車で少し郊外に出て、真っすぐで変化のないフリーウェイ5号線も撮影しました。その写真に浜田(省吾)くんの武道館公演のステージライトを合成して生まれたのが『ON THE ROAD』(1982年)で、彼の普遍のテーマが出現したことになりましたね。
――田島さんが手がけたジャケットを見ると被写体の多くは目線が外されているものが多いと思います。受け取り側に想像する余地を残してくれているような気もするのですが、これはファインダーを覗きこんだときの田島さんの審美眼なのでしょうか。
審美眼というのは人と共有するものではなくて、個人に特化した、その人にとって一番気持ちがいいものだと僕は思うんですよね。そしてそれは他人に強要するものではないんですよ。
例えば僕は、シンプルに、かつ広大に拡がる自然の光景が大好きなんです。草原や砂漠、空や海ですね。そこにデザインの余地があることも関係しているかもしれません。
毎朝、車で出勤しているのですが、高速道路に乗るとき、料金所を過ぎて坂を上りながら見えてくる空をいつも撮影したいと思っているんです。色も、雲の位置も、空の表情は毎日違うから。でも、絶対に無理なんですよね……運転しているのが自分だから(笑)。
でもたまに、そんなパーソナルな審美眼に共感してくれる人が現われるんです。意外なところから仕事の依頼があったりして。僕は文字や写真などのパーツを自分で集めてデザインすることが好きなのですが、そこにクライアント側が用意した材料と合体して生まれるデザインがあります。
『機動警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』シリーズのロゴマーク、パッケージデザイン、ポスターデザインもそうやってできた仕事のひとつですね。
――クライアント側の要望の実現と、田島さんのオリジナリティの具現化のせめぎあいは難しくありませんか。
音楽にしても、アニメーションにしても、基本的に僕の仕事のアプローチは一緒だと思っています。まずは与えられた素材があって、そこにデザインとしてのフォントを加えることで作品としての独自性が、よりはっきり確立されていくと思うんです。
この絵を使ってくれ、この場面を使ってくれと頼まれたら、僕はそのままその素材を使うのではなく、そこに何かの要素を加えたりします。ときには理解度を高めるために雑誌の切り抜きを添えたりするかもしれません。
それはある意味、版権に立ち入る作業にもなりますが、結果的にみんなが満足するものに仕上げることが重要。それは先ほど指摘された“目線がない”という写真の撮り方にも通じるものがあるかもしれませんね。
――尾崎豊さんのデビューアルバム『十七歳の地図』で、ほとんど彼の顔を出さないデザインにしたり、ジャケットの表裏のすべてを英字だけで構成したりしたことで、その後のロックンローラーとしてのイメージも定着させました。
結果的に僕が表現したいことと、尾崎君が歌っている内容が、ズレていなかったのかなと思います。 これも直感的に、この方法論で行けば伝わりやすいのではというのはありました。
今だったらコンピュータを使って、もっと完成度を高くできるんですけど、あの粗い感じもロックっぽいというかね。多くの方に取り上げてもらうデザインのひとつですが、あのジャケットのデザインが名作と呼ばれるのに相応しいのかどうかは自分ではわからないですね。
――デザイン作業にコンピュータを導入したのは、グラフィックデザイナーとして誰よりも田島さんが早かったと思うのですが。
1980年代当時、日本ではまだまだ欧文書体に恵まれていなくて、いわゆる写植(写真の原理を利用して文字や記号を印字する技術)のなかだけで対応するしかないという不満があったんです。
そんなときにMac SE(1987年発売)を知り、モニタに並ぶたくさんの英字フォントに魅力を感じて、当時、50万円ぐらいを費やして、すぐに導入しました。これも直感的に感じたことで、迷わず、このコンピュータの世界に行かないと僕たちのデザインの未来はない! と思いましたから。
ただ、肝心の印刷会社のほうが、まだまだコンピュータに対応できていなくて、僕は大きく出力したモノクロ文字を写真で撮って縮小してから版下入稿するという、結果、どっちが手間なんだろうと思える、アナログな過程も経験しています。
いずれにしてもMac SEを単純にタイポグラフィに使える! と思って購入したのは当時僕ぐらいだったかもしれません(笑)。しばらくして高速のMac Ⅱfx(1990年~)が登場したときも、迷わず本体とモニタのセットを大枚はたいて導入しましたから。
――我々が知っている作品だと、どのジャケットからコンピュータグラフィックが導入されているのですか。
尾崎くんでいうと『誕生』(1990年)からですね。ただ、このときのコンピュータの作業工程は、デザインの世界ではまだシミュレーション的なものだったので、印刷会社の人がよく僕のオフィスに見学に来ていましたね。「どんなソフトを使っていますか?」って(笑)。
世の中が本格的なコンピュータ移行期に入ってソニーミュージックグループが自前のデジタル製版部門を作るというときにも、デジタル入稿に対応するため、社員の人たちがやっぱり僕のところに何度か見学に来ていましたね。だから、僕は古巣の会社にしっかりと恩を返したと思っていますよ(笑)。
ご存知のように1990年代に入るとコンピュータは飛躍的に普及するわけですが、この時期にデザイン業界では、デジタルに移行する人とアナログにこだわる人に分かれていくわけです。僕が今でもこうやってデザインの仕事ができているのは、やはりあのときの直感に従ったからだと思っています。
――さらにときが経過し、デジタルも進化を遂げ、現代では生成AIが導入される時代になりました。田島さんは、さらにここから未来のデザインを想像したことはありますか。
テクノロジーの進化の果てにあるエンタテインメントの創造というのは、よりパーソナルなものになると思っています。もはや音楽もそうなりつつあると思うのですが、仮に自分が見たい映画があるとしたら登場人物やストーリー、背景に至るまで個人でパーソナライズできるようになるはずです。実際、ゲームの世界ではその一部が既に実現されていますよね。
そんななかで究極は、デザイナーが不要になるかもしれません。でもデザイン的な仕事はなくならないと思います。先ほどの審美眼の話もそうですが、“この部分だけは”“あの世界観だけは”どうしても“あのデザイナーに任さなければいけない”というものが求められるはずですから。
――2月26日に発売される『田島照久 MUSIC ARTWORKS』の話も聞かせてください。200ページブックのなかに、これまで田島さんが手がけた数多くのジャケットが厳選して掲載されています。なかでも浜田省吾さんの作品がズラリと並び圧巻です。浜田さんの作品は『Home Bound』(1980年)以降、一貫して田島さんが手がけていますね。
浜田くんの曲は、それぞれのリスナーの人生に密接に寄り添っている気がするんです。観念的ではなくて、仕事や家族のことなどが、曲のなかにリアルに息づいていますよね。
だから浜田くんはアルバムごとに表現したいテーマがあって、コンセプトがはっきりしているんです。僕はそこに近づくようにいくつも案を出しながらデザインを作っていきますね。でも、当然ながら僕が出した案がボツになることだってあるわけですよ。
今回の『田島照久 MUSIC ARTWORKS』は、僕がこれまで担当したジャケット作品から厳選したCD作品でもあるのですが、1曲目に浜田くんの「青空のゆくえ」が収録されています。その曲が収録されたアルバムが『青空の扉~THE DOOR FOR THE BLUE SKY~ 』(1996年)なのですが、浜田くんからはデザイン案の段階で空の青の色がこれじゃないと言われて作り直しました。
浜田くんの世界観は揺るぎないものだと思っていて、僕はそれをデザインで具現化する立場ですから、最終的には浜田くんやファンの人たちに喜んでもらうことが、自分としてはアートディレクターとして一番の達成感がありますね。
――最後に、これからアートディレクターやデザイナーを目指す人たちへメッセージをお願いします。
“焦らなくていいんじゃない”ということですかね。
僕には、今、“アートディレクター”という肩書がついていますが、“アートディレクション”という仕事の定義が、テーマを打ち出し、優秀なカメラマン、グラフィックデザイナー、コピーライター、ヘアメイク、スタイリストを集めてデザインを具現化させていくことだとするならば、自分はこの仕事の本質を理解していない時間のほうがずっと長いんですね。なぜなら、僕はグラフィックデザイナーとして過ごしている時間のほうが圧倒的に長いからです。
そして、僕にアートディレクターの才能がもともと備わっていたかというと、それは確実にゼロです。
なぜ、そう言い切れるかというと、アートディレクションという仕事は、一つひとつの選択や指示に対して経験やスキルに裏打ちされた確固たる理由が求められます。そしてクライアントから、“なぜ、そうなったのか?”を問われたときに、相手を納得させる明確なプレゼンができなければなりません。
自分がそれを迷いなくできるようになったのは、やはりだいぶ時間が経ってから。多くのクリエイターや作品から刺激を受け、たくさんの現場を見て、学んだことが積み重なり、ようやくアートディレクターとしての自分の型ができたように思います。
だから、アートディレクターに限らず、今、自分が目指している仕事や分野がはっきりあるなら焦らないでほしいですね。経験とスキルは必ずあとからついてくるもので、最初から持っている人なんていません。
そのことを感覚として持っておけば、気持ちが少し軽くなるのと同時に、いろいろな出会いに対して感度を上げることができ、大事なことを見逃さないようになると思います。僕の場合だったら、横尾忠則さんとの出会いですかね。
――そう言えば、田島さんは、普段あまりご自分のことをアートディレクターと言わないですね。
最近では、新しい分野の依頼も増えて、そこではまさしくアートディレクションが僕の役割になっていますが、少し前のグラフィックデザイナー、自分としてはデザイナーと言うのが一番しっくりくるんですよね。
工房的に何かちょこちょこ机の片隅で作品を積み上げていくほうが性に合っていますから。そんななかでもCBS・ソニーからキャリアが始まった音楽関係の仕事は、自分のなかでもっとも持ち味を発揮できる場所だと思っていますので、依頼をいただける限りは応えていきたいと思っています。
記事の前編はこちら:デザイナー・田島照久が思う“仕事は焦らなくていいんじゃない”の真意①
文・取材:安川達也
撮影:干川 修
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